…【井上 満郎】 藤原定家以後も隠棲地としての嵯峨の性格は引き継がれた。1268年(文永5)後嵯峨上皇は大覚寺に入り,さらに亀山・後宇多両上皇も譲位後同寺に住むなどして,この地は嵯峨御所とも呼ばれた。これより先1255年(建長7)に後嵯峨上皇が小倉山東南の亀山山麓に亀山殿(嵯峨殿)を造営した。…
…寺の東には嵯峨院時代の庭池である大沢池,西と南には有栖(ありす)川が流れ,池の北側にあった〈名古曾滝(なこそのたき)〉は有名で,平安時代から歌の名所としてもてはやされた。鎌倉時代後期には,後嵯峨・亀山の2帝が譲位したあと落飾して当寺に入り,ついで1308年(延慶1)後宇多法皇も入寺して当寺で院政を開始するに及び,嵯峨御所と呼ばれ,またこの時代に伽藍も整備された。これ以後,大覚寺には亀山・後宇多両帝の皇統に属する上皇や皇子が住持したので,この皇統を大覚寺統(のちに南朝)と称した。…
※「嵯峨御所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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