第52代に数えられる平安初期の天皇。在位809-823年。桓武天皇と皇后藤原乙牟漏(おとむろ)との間に生まれ,名を神野(かみの)(賀美能)という。同母兄平城天皇の病気による譲位をうけて即位。平城上皇が寵妃藤原薬子(くすこ)らとともに,多数の官人をひきいて平城旧京に移り,〈二所朝廷〉の観を呈したので,坂上田村麻呂以下の兵を発して上皇方を征圧した。これを〈薬子の変〉という。以後,弘仁の14年間(810-824),異母弟淳和天皇の天長の10年間(824-834),皇后橘嘉智子(かちこ)との間に生まれた仁明天皇の承和9年に没するまでの計30余年は,皇室家父長としての嵯峨天(上)皇の権威のもとに,古代史にまれな政治的安定が出現し,弘仁文化と呼ばれる宮廷中心の文化が開花した。その特徴は,政治的には,基本法たる律令を補足・修正するための法令集《弘仁式》《弘仁格(きやく)》を制定・施行し,朝廷の儀式を整備して《内裏式》をまとめたこと,文化的には,内宴,朝覲(ちようきん)行幸などの優雅な年中行事を発達させ,《凌雲集》《文華秀麗集》等の詩集の勅撰を中心に文章道を興隆させたことなどが挙げられる。嵯峨天皇はみずからも詩文や書道にすぐれ,また唐の文化への強い憧憬をもち,その周囲には空海,小野岑守(みねもり),菅原清公など才能ある人々が集まった。大内裏の諸施設の建設や平安京の都市的整備も,この間に大いに進んだと思われ,それは宮殿・諸門の名がみな唐風に改められたことや,冷然院(れいぜいいん),朱雀院などの大きな離宮が造られたことから推察される。後宮も盛大をきわめ,皇子・皇女は約50人も生まれ,これをすべて親王とすることは財政上不可能だったので,生母が卑姓である子に〈源〉の姓を与えて臣下とし,官人として活躍させることにした。これが嵯峨源氏であり,以後歴代の源氏賜姓の先例が開かれた。また薬子の変の際,藤原冬嗣らを蔵人頭(くろうどのとう)に補したことにはじまる蔵人所は,その後巨大な組織となって宮廷の運営を担当した。こうした点を総合すれば,嵯峨天皇は王朝文化の祖と見ることができよう。
執筆者:目崎 徳衛 嵯峨天皇は空海,橘逸勢とともに三筆の一人とされる。書の確実な遺品としては823年(弘仁14),最澄の高弟光定が延暦寺一乗止観院で大乗菩薩戒を受けたときに下付された《光定戒牒(こうじようかいちよう)》(国宝,延暦寺)が残されるのみで,光定みずから《伝述一心戒文》にこのことを記している。しかし天皇が書に関心が深かったことは,空海から唐の書跡の名品,徳宗,欧陽詢,張誼,王羲之の書や,八分,行草,飛白などの体の書を献ぜられたり,空海みずからに揮毫を命じていることからもわかる。また814年天皇から100屯の綿とともに七言詩1首を賜った空海は〈纔(わずか)に天書を披(ひら)いて,字勢竜のごとくわだかまり〉とたたえ,《日本紀略》大同4年(809)即位前紀にも〈草隷に妙にして神気岳立す〉とある。また826年(天長3)桓武天皇のための法華経供養が行われた際の経は嵯峨天皇の手跡で,〈一点一画に躰あり勢あり。珠連なり星列び。爛然として目に満つ。観る人称して書の聖と曰う。鍾繇(しようよう),逸少(王逸少=王羲之)も猶足らざるがごとし〉と《日本紀略》に記されるように,能書家として名高かった。今わずかに残された《光定戒牒》によれば,欧陽詢風の峻厳な前半部と,後半の婉美な部分とから成り,後半部には,とくに空海の影響が大きいといえる。天皇と空海の関係は,文学の面でも密接なものがあったから,書の面でもその影響が見られるのは当然であると考えられる。
執筆者:栗原 治夫
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(瀧浪貞子)
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第52代とされる天皇(在位809~823)。名は神野(かみの)(賀美能)。桓武(かんむ)天皇の皇子。母は皇后藤原乙牟漏(おとむろ)。延暦(えんりゃく)5年9月7日誕生。806年(大同1)同母兄平城(へいぜい)天皇の皇太弟にたてられ、809年天皇の譲りを受けて即位。翌810年(弘仁1)、上皇が平城還都の議をおこしたことからこれと対立、兵を発して上皇方を制圧した。15年の治世ののち、823年(弘仁14)異母弟の淳和(じゅんな)天皇に譲位、その後も仁明(にんみょう)天皇(嵯峨皇子)の842年(承和9)に没するまで、上皇として家父長的権威をもって朝廷を抑え、古代史上まれな政治的安定期を出現させた。『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』『内裏式(だいりしき)』などの法典が編纂(へんさん)され、蔵人所(くろうどどころ)など宮廷の機構が整備され、地方政治も意欲的に行われた。天皇自ら漢詩文、書道をよくし、中国風の文化が栄えた。空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆に数えられる。また皇子女の多くに源(みなもと)の姓を与えて臣籍に降下させ、賜姓源氏の例を開いた。御陵は京都市右京区の嵯峨山上陵。
[笹山晴生]
786.9.7~842.7.15
在位809.4.1~823.4.16
桓武天皇の皇子。名は賀美能(かみの)(神野)。母は藤原良継の女乙牟漏(おとむろ)。平城天皇の同母弟。806年(大同元)平城の皇太弟に立ち,3年後に譲位をうけて践祚し,かわって平城の皇子高岳(たかおか)親王が皇太子に立てられた。しかし,翌810年(弘仁元)嵯峨は武力をもって平城の動きを封じ(薬子(くすこ)の変),異母弟大伴親王(淳和天皇)が皇太弟に立てられた。その後30年間表面上は平穏にすぎ弘仁文化が栄えたが,水面下で皇位継承問題が深刻化し,嵯峨上皇の死の直後には承和の変が勃発した。藤原冬嗣(ふゆつぐ)・同良房を重用し,この家系との婚姻を進めた。詩文に優れ,書も三筆に数えられる。
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…大覚寺の前身。嵯峨天皇は唐風文化の興隆につとめたが,みずからは風流を好み,晩年を嵯峨院で送った。嵯峨院の名は在位中の文献に見え,帝位にあるときに離宮として設営され,文人たちを召して詩賦を催したりしている。…
…書も唐風から和風への萌芽を見せ始めて,王羲之を主流とした伝統的書風の中に温雅な風韻を持ちつつあった。その頂点に三筆(嵯峨天皇,空海,橘逸勢(はやなり))が位置する。空海はその代表で,入唐以前の24歳のときの筆になる《聾瞽指帰(ろうこしいき)》は,王羲之そのままの筆法を踏襲しながらも,若さと日本的な柔和な筆触が表れており,さらに帰朝後の書状《風信帖》になると,唐風を脱した日本人としての自覚的書風を創り始めている。…
…平安京内では邸宅の少ない右京の四条以北で,朱雀大路に沿って西に位置し,8町という広大な面積を占めていた。創始は嵯峨天皇が譲位後の御所として造営したものと考えられる。文献上の初見は836年(承和3)で,仁明天皇が京内の空閑地200余町を生母,橘嘉智子の朱雀院に寄せている。…
※「嵯峨天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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