大覚寺(読み)ダイカクジ

デジタル大辞泉 「大覚寺」の意味・読み・例文・類語

だいかく‐じ【大覚寺】

京都市右京区にある真言宗大覚寺派の大本山。山号は嵯峨山。もと嵯峨天皇の離宮であったが、貞観18年(876)皇女正子が仏寺とした。開山は恒寂法親王。以後代々、法親王が入寺。のち、後嵯峨亀山上皇に続いて、後宇多上皇が入寺して中興。所蔵の後宇多天皇宸翰「御手印遺告」「弘法大師伝」は国宝。嵯峨御所。大覚寺門跡。

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精選版 日本国語大辞典 「大覚寺」の意味・読み・例文・類語

だいかく‐じ【大覚寺】

  1. 京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗大覚寺派の大本山。山号は嵯峨山。もと嵯峨天皇の離宮であったが、貞観一八年(八七六)皇女正子(淳和天皇皇后)が寺に改め、開山に恒寂法親王(淳和天皇皇子)を迎えた。のち興福寺一乗院に統轄されて衰退したが、徳治三年(一三〇八)後宇多天皇が再興。後嵯峨・亀山・後亀山天皇の隠棲の地。後宇多天皇宸翰(しんかん)の御手印遺告(ごていんゆいごう)・弘法大師伝を所蔵し、国宝に指定されている。とくに宸殿の襖絵(二六面)は狩野山楽の筆と伝えられる桃山障壁画の代表作。嵯峨御所。

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日本歴史地名大系 「大覚寺」の解説

大覚寺
だいかくじ

[現在地名]右京区嵯峨大沢町

嵯峨野さがのの北、大沢おおさわ池に西隣して位置する。寺域の西と南は有栖ありす川が流れる。真言宗大覚寺派の大本山。嵯峨山と号し、本尊五大明王。嵯峨御所ともよばれた門跡寺院。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔嵯峨院〕

「拾芥抄」に「在遍照寺西、嵯峨天皇御在所」とあるように、嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を皇女である淳和天皇皇后正子が寺院とした。「三代実録」貞観一八年(八七六)二月二五日条に

<資料は省略されています>

と記す。寺の前身嵯峨院の創立時期は不詳であるが、嵯峨天皇の皇子時代の山荘として造営され、即位後は離宮として利用されたものといわれる。「日本後紀」弘仁五年(八一四)閏七月二七日条に「遊猟北野、日晩御嵯峨院、賜侍臣衣被」とあるのが早い。同七年二月二七日にこの地に行幸した天皇は、文人に命じて詩をうたわせ楽を奏でさせたが(「類聚国史」巻三一)、この折の作と思われる詩が「文華秀麗集」に収められる。その後、度々の行幸があり、弘仁一四年四月の淳和天皇への譲位後も、後院を冷泉れいぜい院と決めながらも当地にしばしば足を向けている(「類聚国史」巻三一など)。承和元年(八三四)には嵯峨院内に新造御所を設けて、八月九日に正式に遷居。同年一〇月七日には寝殿も新造されている(続日本後紀)。以後、皇后嘉智子(檀林皇后)とともに承和九年七月に死去するまでこの院に過ごした(同書同月一五日条など)。この間承和三年頃には皇后も嵯峨の地に檀林だんりん寺を営み、嵯峨院の別院的役割を果している。→檀林寺跡

〔寺院としての整備〕

大覚寺に改められた嵯峨院は、恒寂法親王(淳和天皇第二子恒貞・母正子)を開山とし(「大覚寺門跡次第」続群書類従)、僧尼の療病する済治院を建てるなど、寺院としての容相を整えた(「三代実録」元慶三年三月二三日条)。同書元慶五年(八八一)八月二三日条には、

<資料は省略されています>

と寺地が定まったが、その範囲は現在の北嵯峨一帯の地といえる。なお同年一二月一一日には大覚寺および近くに営まれた嵯峨上皇・檀林皇后・淳和太后の三陵と、檀林寺の管理が淳和院(淳和天皇の後院に置かれた公卿別当)に任されている(三代実録)。延喜一八年(九一八)八月仁和寺第一世となった宇多法皇は、大覚寺でのちに京都東寺(教王護国寺)一長者ともなった寛空に灌頂を行い(「仁和寺御伝」群書類従)、この寛空が大覚寺第二世を継ぐ。しかしすぐにその職を三世定昭に譲り、定昭が奈良興福寺に一乗いちじよう院を開くに及び、以後長く大覚寺は二〇代良信まで一乗院主の兼帯するところとなった(大覚寺門跡次第)


大覚寺
だいかくじ

[現在地名]尼崎市寺町

江戸時代のてら町の中央部にある。律宗。月峯山と号し、本尊は千手十一面観音。元和三年(一六一七)尼崎城築造計画のために移転させられるまでは現在地の東方にあり、中世尼崎の中核寺院として推移した。鎌倉中期の律僧琳海によって開創された寺院であるが、由来はさらにさかのぼり百済出身の僧日羅によって開かれたと伝える。寺蔵の大覚寺縁起や近世の地誌などによれば、聖徳太子の命を受けて霊地を捜し求めていた日羅が長洲ながす浦を訪れ、浦人から瑞光を放つ剣尾けんび(現大阪府能勢町)を教えられて同地に伽藍を建立し(月峰寺)、長洲浦には灯明を掲げて剣尾山を遥拝するための堂、すなわち灯炉堂を建立したという。灯炉堂には建治元年(一二七五)八月五日に奈良西大寺叡尊が立寄って翌六日に三六人に菩薩戒を授けており(感身学正記)、存在が確認されるが、成立の由来については本願値願が京都賀茂御祖かもみおや(下鴨社)に建立を申請し、のちに琳海がこれを引継いで長洲御厨内の地に建立したとされる(嘉暦元年九月一六日「長洲御厨領家寄進状」大覚寺文書、以下断りのない限り同文書)


大覚寺
だいかくじ

[現在地名]姫路市網干区興浜 網干

揖保川の左岸、同川に架かる網干大あぼしおお橋東詰を南下した所にある。鶴立山と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊は阿弥陀如来。もとは真言宗の寺院で光接こうしよう院と号し、余子浜よこはま古網干ふるあぼしにあった。建長七年(一二五五)後深草天皇は教信きようしん(現加古川市)の伽藍を建立した際、播磨の浄土諸寺に対し毎年八月に七日間の法会を命じたが、当寺は一二日に勤修することとされた(「播州念仏山教信寺縁起」智恵袋)。天文三年(一五三四)兵火にかかり焼失、弘治二年(一五五六)現在地に移転し大覚寺と改め浄土宗に改宗したという。「多聞院日記」天正一八年(一五九〇)正月三日条に「ハリマアホシノ大覚寺」とみえ、この日奈良興福寺多聞院を訪れた絵師の侍従は前年六月から一二月二三日まで子の琳賢とともに当寺に逗留し、浄土の曼陀羅六幅半を描きあげたという。


大覚寺
だいかくじ

[現在地名]清音村軽部

軽部かるべ山の北西麓にある。清音山と号し、日蓮宗。本尊は大覚(日蓮の高弟日像の弟子)自筆と伝える題目石。大覚は伝道のために備前・備中方面に来て、この地に仮住したといわれ、題目石はその足跡を示す遺構という。大理石製の笠塔婆で、総高二二四センチ、方柱状の正面と両側面に「南無妙法蓮華経」の題目、裏面に某氏が亡父の七回忌(あるいは十七回忌)供養と法界衆生の平等利益を願って暦応五年(一三四二)五月に造立した旨の陰刻がある。県指定重要文化財和気わけ郡和気町法泉ほうせん寺、岡山市西辛川にしからかわの大覚教会のそれとともに三大題目石とされる。「此石塔を近世愚昧の者等参詣のたびに砕き取る」(備中誌)こともあり、さらにこれをひそかに持帰ろうとする者もあったがすべて失敗したという。


大覚寺
だいかくじ

[現在地名]阿武町大字奈古 下郷

補陀山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来

当寺所蔵の延宝二年(一六七四)記の縁起によれば、長久三年(一〇四二)の創建、真言宗で光応こうおう寺と称した。元亀元年(一五七〇)曹洞宗となり、慶長一五年(一六一〇)八月、もと出雲富田とだ(現島根県能義郡広瀬町)の城主で毛利氏に下った尼子義久奈古なごで没し、当寺の後山に葬られたので、その法名大円心覚大居士にちなみ、大覚寺と改号したという。


大覚寺
だいがくじ

[現在地名]八郷町大増

板敷いたじき山麓にある。浄土真宗本願寺派。板敷山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝では承久三年(一二二一)親鸞の弟子周観大覚の創建。板敷山は親鸞の法難の地として著名で、当時、佐竹氏の加護を受け、常陸修験道として勢威を振るっていた播摩坊弁円が、親鸞を除こうとして板敷山で計画の実行を図ろうとしたが失敗し、親鸞から真宗の奥義を説かれて弟子となったといわれる。


大覚寺
だいかくじ

[現在地名]積丹郡積丹町大字美国町 小泊

通称寺町てらまちにある。浄土宗。弘通山と号する。本尊は阿弥陀如来。明治一三年(一八八〇)小樽の中教院出張詰成田理淳が船澗ふなま村福井福蔵宅に派出所を置いて、布教に努めたという。


大覚寺
だいがくじ

[現在地名]佐賀市伊勢町

伊勢神社の北東にある。浄土宗。山号は光明山。本尊は阿弥陀如来。慶長一一年(一六〇六)佐賀郡の極楽ごくらく寺を移し、寺領は鍋島直茂が寄進した。開山の天誉は肥前出身で後陽成天皇の信任あつく、大覚寺の寺号は勅号といわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大覚寺」の意味・わかりやすい解説

大覚寺
だいかくじ

京都市右京区嵯峨(さが)大沢町にある寺。真言(しんごん)宗大覚寺派の大本山。山号は嵯峨山。正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡(もんぜき)と称し、嵯峨御所ともいう。本尊は五大明王。平安初期、嵯峨天皇は当地に離宮をつくり、譲位後は仙洞(せんとう)御所とし嵯峨院と称したが、811年(弘仁2)に空海に勅して五大明王像を刻し、五大明王の秘法を修せしめた。818年(弘仁9)春、疫病流行の際、天皇は紺紙金泥(こんしこんでい)の『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を書写して心経堂を建て、空海が奉供した。この縁でいまでも心経写経を進めている。876年(貞観18)嵯峨天皇の皇女正子内親皇(淳和(じゅんな)天皇皇后)が嵯峨院を譲り受けて仏寺に改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂(こうじゃく)法親王が開山となり、以後、代々法親王が入った。1268年(文永5)後嵯峨(ごさが)上皇が、続いて亀山(かめやま)法皇が入寺。また1308年(延慶1)には後宇多(ごうだ)法皇が入寺して伽藍(がらん)の造営に努めたので、大覚寺法皇と称せられ当山の中興開山とされる。亀山院、後宇多院の皇統に属する皇族が代々住持を勤めたので、この皇統を大覚寺統とよび、後深草(ごふかくさ)天皇の皇統である持明(じみょう)院統と勢力を二分し、南北両朝分立の原因ともなった。1336年(延元1・建武3)兵火により全焼、のち再建された。1392年(元中9・明徳3)南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の講和のおり、南朝の後亀山(ごかめやま)天皇から北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器が授受された歴史的舞台としても知られる。応仁(おうにん)の乱でふたたび焼失したが、豊臣(とよとみ)・徳川両家の外護(げご)によりしだいに旧に復した。江戸末期から明治初期にかけて衰退し、一時無住となったが、1876年(明治9)に宮中から200石を受けて復興し、1900年(明治33)に大覚寺派として独立した。

[祖父江章子]

建造物・寺宝

境内には宸殿(しんでん)、正宸殿(以上、国の重要文化財)、五大堂(本堂)、御影(みえ)堂などがある。正寝殿(客殿)は桃山時代の書院造の様式で、11間(ま)ある各室は狩野山楽(かのうさんらく)・探幽(たんゆう)らの豪華な障壁画で飾られている。宸殿は江戸初期の宮殿建築で、後水尾(ごみずのお)天皇(在位1611~29)の寄進と伝える。内部の襖絵(ふすまえ)『牡丹(ぼたん)図』『紅梅図』(国の重要文化財)は狩野山楽筆とされる桃山障壁画の傑作。寺の東には中国の洞庭(どうてい)湖を模したという大沢池(おおさわのいけ)があり、古来風光の美しさで知られる。池の北東の名古曽(なこそ)滝跡は藤原公任(きんとう)が百人一首に詠んでいる。寺宝には、後宇多天皇宸翰(しんかん)「御手印遺告(ごていんゆいごう)」、「弘法(こうぼう)大師絵伝」が国宝に指定されるほか、絹本着色五大虚空蔵(こくうぞう)像、木造五大明王像、障壁画など国指定の重要文化財が多数ある。おもな年中行事に華道祭、万灯万華会(まんどうまんげえ)、嵯峨菊花展、『般若心経』の写経会がある。なお、当寺には嵯峨天皇が始祖といわれる、いけ花の流派「嵯峨御流(ごりゅう)」が伝わり、華道専門学校が設けられている。

[祖父江章子]

『『古寺巡礼 京都 大覚寺』(1978・淡交社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「大覚寺」の意味・わかりやすい解説

大覚寺 (だいかくじ)

京都市右京区にある真言宗大覚寺派の大本山。嵯峨山と号する。もと嵯峨天皇の離宮だった嵯峨院を,876年(貞観18)淳和天皇の皇后正子が寺に改め,所生の恒寂法親王を開山にして大覚寺と号したのが起りである。寺の東には嵯峨院時代の庭池である大沢池,西と南には有栖(ありす)川が流れ,池の北側にあった〈名古曾滝(なこそのたき)〉は有名で,平安時代から歌の名所としてもてはやされた。鎌倉時代後期には,後嵯峨・亀山の2帝が譲位したあと落飾して当寺に入り,ついで1308年(延慶1)後宇多法皇も入寺して当寺で院政を開始するに及び,嵯峨御所と呼ばれ,またこの時代に伽藍も整備された。これ以後,大覚寺には亀山・後宇多両帝の皇統に属する上皇や皇子が住持したので,この皇統を大覚寺統(のちに南朝)と称した。1392年(元中9・明徳3),南北朝動乱の終結をつげる両朝講和のとき,南朝の後亀山天皇は当寺で北朝の後小松天皇に神器をゆずり,そののち当寺に隠棲した。しかし,応仁の乱で兵火にかかり,中世末には寺運も衰退したが,近世に入ってとくに後水尾上皇が復興に尽力し,また江戸幕府も寺領1000石余を寄せ,明治初年まで多くの法親王が法脈をつぎ,門跡寺院として寺観が整備された。明治維新後の廃仏毀釈の世潮の中で一時衰微したが,そののち復旧につとめ,今日も皇室ゆかりの名刹として,王朝文化の香をただよわせている。

 いま重要文化財の建物は客殿(正寝殿,対面所)と宸殿の2棟。客殿は桃山時代の書院造建築で多くの小間から成り,狩野山楽筆といわれる襖絵(重要文化財)がめぐらされ,付書院の桐竹の蒔絵は嵯峨蒔絵の名で知られている。宸殿は後水尾法皇が寄進した禁裏の旧御殿の移建と伝え,内部の《牡丹図》と《紅梅図》の襖絵(重要文化財)は客殿と同じく山楽筆の代表的作品とされて名高い。このほか主要な建物に嵯峨・後宇多両帝の像と歴代法親王の位牌を安置した御影堂,歴代天皇の宸筆心経を奉安する心経殿,本尊五大明王を安置した五大堂などがある。寺宝には,後宇多天皇宸翰(しんかん)の〈御手印遺告(ゆいごう)〉と《弘法大師伝》(以上国宝)をはじめとして,同天皇の宸影や歴代天皇の宸翰消息・聖教類が多数あり,多くが重要文化財に指定されている。なお,華道の濫觴といわれる〈嵯峨御流〉は,大覚寺に伝えられたもので,今日全国に多くの門弟があって,この伝統の流派の普及につとめている。
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百科事典マイペディア 「大覚寺」の意味・わかりやすい解説

大覚寺【だいかくじ】

京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗大覚寺派の大本山。嵯峨御所とも。本尊五大明王。876年,恒寂法親王が開創,歴代天皇の尊信を受け,皇子が入山した。亀山・後宇多とその皇統に属する上皇や皇子が住持となったことから,この系統を大覚寺統と称した。桃山時代の書院造の代表とされる客殿(正宸(せいしん)殿),後水尾天皇寄進と伝える宸殿(江戸初期)等があり,狩野山楽の《牡丹(ぼたん)図》をはじめ,狩野派の手になる豪華な襖絵(ふすまえ)が多い。付近に大沢池(名勝)がある。華道の嵯峨御流は大覚寺より伝えられたもの。
→関連項目一円保小宅荘狩野山楽京都[市]嵯峨障壁画渡辺始興

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大覚寺」の意味・わかりやすい解説

大覚寺
だいかくじ

京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗大覚寺派の大本山。嵯峨山と号し,嵯峨御所,大覚寺門跡と称される。もとは嵯峨天皇の離宮であったのを貞観 18 (876) 年に寺としたもので,淳和天皇の皇子恒寂法親王を開基とする。歴代天皇に尊崇され,後宇多天皇もこの寺に住し,中興の祖とされた。応仁の乱後一時衰えたが,明治維新になって神海,玉諦らの住職によって再興され,独立して大覚寺派と称した。『不動明王像』を主とする五大明王像ほか,後宇多天皇の宸筆2巻 (国宝) を所蔵する。

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デジタル大辞泉プラス 「大覚寺」の解説

大覚寺

京都府京都市右京区にある寺院。真言宗大覚寺派大本山。山号は嵯峨山。嵯峨天皇の離宮「嵯峨院」を876年に寺に改めたもの。中興開山は後宇多天皇。嵯峨天皇が始祖と伝わる生け花の流派、嵯峨御流の総司所(家元)。境内全域が「大覚寺御所跡」として国の史跡に指定されている。

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事典・日本の観光資源 「大覚寺」の解説

大覚寺

(滋賀県東近江市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大覚寺の言及

【大沢池】より

…京都市右京区嵯峨の大覚寺東部にある池。庭湖,内沢,内池などの別称がある。…

【嵯峨院】より

…嵯峨山荘,嵯峨別館などとも呼ばれた。大覚寺の前身。嵯峨天皇は唐風文化の興隆につとめたが,みずからは風流を好み,晩年を嵯峨院で送った。…

※「大覚寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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