〈京都・山城寺院神社大事典〉
「拾芥抄」に「在遍照寺西、嵯峨天皇御在所」とあるように、嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を皇女である淳和天皇皇后正子が寺院とした。「三代実録」貞観一八年(八七六)二月二五日条に
と記す。寺の前身嵯峨院の創立時期は不詳であるが、嵯峨天皇の皇子時代の山荘として造営され、即位後は離宮として利用されたものといわれる。「日本後紀」弘仁五年(八一四)閏七月二七日条に「遊猟北野、日晩御嵯峨院、賜侍臣衣被」とあるのが早い。同七年二月二七日にこの地に行幸した天皇は、文人に命じて詩をうたわせ楽を奏でさせたが(「類聚国史」巻三一)、この折の作と思われる詩が「文華秀麗集」に収められる。その後、度々の行幸があり、弘仁一四年四月の淳和天皇への譲位後も、後院を
大覚寺に改められた嵯峨院は、恒寂法親王(淳和天皇第二子恒貞・母正子)を開山とし(「大覚寺門跡次第」続群書類従)、僧尼の療病する済治院を建てるなど、寺院としての容相を整えた(「三代実録」元慶三年三月二三日条)。同書元慶五年(八八一)八月二三日条には、
と寺地が定まったが、その範囲は現在の北嵯峨一帯の地といえる。なお同年一二月一一日には大覚寺および近くに営まれた嵯峨上皇・檀林皇后・淳和太后の三陵と、檀林寺の管理が淳和院(淳和天皇の後院に置かれた公卿別当)に任されている(三代実録)。延喜一八年(九一八)八月仁和寺第一世となった宇多法皇は、大覚寺でのちに京都東寺(教王護国寺)一長者ともなった寛空に灌頂を行い(「仁和寺御伝」群書類従)、この寛空が大覚寺第二世を継ぐ。しかしすぐにその職を三世定昭に譲り、定昭が奈良興福寺に
江戸時代の
揖保川の左岸、同川に架かる
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市右京区嵯峨(さが)大沢町にある寺。真言(しんごん)宗大覚寺派の大本山。山号は嵯峨山。正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡(もんぜき)と称し、嵯峨御所ともいう。本尊は五大明王。平安初期、嵯峨天皇は当地に離宮をつくり、譲位後は仙洞(せんとう)御所とし嵯峨院と称したが、811年(弘仁2)に空海に勅して五大明王像を刻し、五大明王の秘法を修せしめた。818年(弘仁9)春、疫病流行の際、天皇は紺紙金泥(こんしこんでい)の『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を書写して心経堂を建て、空海が奉供した。この縁でいまでも心経写経を進めている。876年(貞観18)嵯峨天皇の皇女正子内親皇(淳和(じゅんな)天皇皇后)が嵯峨院を譲り受けて仏寺に改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂(こうじゃく)法親王が開山となり、以後、代々法親王が入った。1268年(文永5)後嵯峨(ごさが)上皇が、続いて亀山(かめやま)法皇が入寺。また1308年(延慶1)には後宇多(ごうだ)法皇が入寺して伽藍(がらん)の造営に努めたので、大覚寺法皇と称せられ当山の中興開山とされる。亀山院、後宇多院の皇統に属する皇族が代々住持を勤めたので、この皇統を大覚寺統とよび、後深草(ごふかくさ)天皇の皇統である持明(じみょう)院統と勢力を二分し、南北両朝分立の原因ともなった。1336年(延元1・建武3)兵火により全焼、のち再建された。1392年(元中9・明徳3)南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の講和のおり、南朝の後亀山(ごかめやま)天皇から北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器が授受された歴史的舞台としても知られる。応仁(おうにん)の乱でふたたび焼失したが、豊臣(とよとみ)・徳川両家の外護(げご)によりしだいに旧に復した。江戸末期から明治初期にかけて衰退し、一時無住となったが、1876年(明治9)に宮中から200石を受けて復興し、1900年(明治33)に大覚寺派として独立した。
[祖父江章子]
境内には宸殿(しんでん)、正宸殿(以上、国の重要文化財)、五大堂(本堂)、御影(みえ)堂などがある。正寝殿(客殿)は桃山時代の書院造の様式で、11間(ま)ある各室は狩野山楽(かのうさんらく)・探幽(たんゆう)らの豪華な障壁画で飾られている。宸殿は江戸初期の宮殿建築で、後水尾(ごみずのお)天皇(在位1611~29)の寄進と伝える。内部の襖絵(ふすまえ)『牡丹(ぼたん)図』『紅梅図』(国の重要文化財)は狩野山楽筆とされる桃山障壁画の傑作。寺の東には中国の洞庭(どうてい)湖を模したという大沢池(おおさわのいけ)があり、古来風光の美しさで知られる。池の北東の名古曽(なこそ)滝跡は藤原公任(きんとう)が百人一首に詠んでいる。寺宝には、後宇多天皇宸翰(しんかん)「御手印遺告(ごていんゆいごう)」、「弘法(こうぼう)大師絵伝」が国宝に指定されるほか、絹本着色五大虚空蔵(こくうぞう)像、木造五大明王像、障壁画など国指定の重要文化財が多数ある。おもな年中行事に華道祭、万灯万華会(まんどうまんげえ)、嵯峨菊花展、『般若心経』の写経会がある。なお、当寺には嵯峨天皇が始祖といわれる、いけ花の流派「嵯峨御流(ごりゅう)」が伝わり、華道専門学校が設けられている。
[祖父江章子]
『『古寺巡礼 京都 大覚寺』(1978・淡交社)』
京都市右京区にある真言宗大覚寺派の大本山。嵯峨山と号する。もと嵯峨天皇の離宮だった嵯峨院を,876年(貞観18)淳和天皇の皇后正子が寺に改め,所生の恒寂法親王を開山にして大覚寺と号したのが起りである。寺の東には嵯峨院時代の庭池である大沢池,西と南には有栖(ありす)川が流れ,池の北側にあった〈名古曾滝(なこそのたき)〉は有名で,平安時代から歌の名所としてもてはやされた。鎌倉時代後期には,後嵯峨・亀山の2帝が譲位したあと落飾して当寺に入り,ついで1308年(延慶1)後宇多法皇も入寺して当寺で院政を開始するに及び,嵯峨御所と呼ばれ,またこの時代に伽藍も整備された。これ以後,大覚寺には亀山・後宇多両帝の皇統に属する上皇や皇子が住持したので,この皇統を大覚寺統(のちに南朝)と称した。1392年(元中9・明徳3),南北朝動乱の終結をつげる両朝講和のとき,南朝の後亀山天皇は当寺で北朝の後小松天皇に神器をゆずり,そののち当寺に隠棲した。しかし,応仁の乱で兵火にかかり,中世末には寺運も衰退したが,近世に入ってとくに後水尾上皇が復興に尽力し,また江戸幕府も寺領1000石余を寄せ,明治初年まで多くの法親王が法脈をつぎ,門跡寺院として寺観が整備された。明治維新後の廃仏毀釈の世潮の中で一時衰微したが,そののち復旧につとめ,今日も皇室ゆかりの名刹として,王朝文化の香をただよわせている。
いま重要文化財の建物は客殿(正寝殿,対面所)と宸殿の2棟。客殿は桃山時代の書院造建築で多くの小間から成り,狩野山楽筆といわれる襖絵(重要文化財)がめぐらされ,付書院の桐竹の蒔絵は嵯峨蒔絵の名で知られている。宸殿は後水尾法皇が寄進した禁裏の旧御殿の移建と伝え,内部の《牡丹図》と《紅梅図》の襖絵(重要文化財)は客殿と同じく山楽筆の代表的作品とされて名高い。このほか主要な建物に嵯峨・後宇多両帝の像と歴代法親王の位牌を安置した御影堂,歴代天皇の宸筆心経を奉安する心経殿,本尊五大明王を安置した五大堂などがある。寺宝には,後宇多天皇宸翰(しんかん)の〈御手印遺告(ゆいごう)〉と《弘法大師伝》(以上国宝)をはじめとして,同天皇の宸影や歴代天皇の宸翰消息・聖教類が多数あり,多くが重要文化財に指定されている。なお,華道の濫觴といわれる〈嵯峨御流〉は,大覚寺に伝えられたもので,今日全国に多くの門弟があって,この伝統の流派の普及につとめている。
執筆者:藤井 学
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…嵯峨山荘,嵯峨別館などとも呼ばれた。大覚寺の前身。嵯峨天皇は唐風文化の興隆につとめたが,みずからは風流を好み,晩年を嵯峨院で送った。…
※「大覚寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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