平敷屋村
ひしちやむら
内間村の南東にある。勝連半島のほぼ南東端に位置し、琉球石灰岩の高台・丘陵地が多く平地に乏しい。北は与那城間切饒辺村(現与那城町)、南東部は中城湾に面する。ヒシチャとよばれる。絵図郷村帳に「へしきや村」とある。琉球国高究帳によれば高頭一二五石余、うち田四石余・畠一二〇石余。里積記によれば田は下々、畑は下の村位。勝連間切の番所所在地である(琉球国旧記)。脇地頭は順治六年(一六四九)一一月六日から翌七年頃まで祖氏(小谷家)四世祖成俊平敷屋親雲上良光(祖姓小谷家家譜)、同一五年一〇月一日に久米村系の魏氏(慶佐次家初代)三世魏瑞麟が(魏姓慶佐次家家譜)、いずれも名島として勝連間切平敷屋を拝領している。王国随一の和文学者で尚敬王二二年(一七三四)に落書事件(平敷屋・友寄事件)で処刑された平敷屋朝敏(一七〇〇―三四)の旧領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報