日本歴史地名大系 「勝連町」の解説 勝連町かつれんちよう 沖縄県:沖縄島中部勝連町面積:一三・六八平方キロ沖縄島中部東海岸、太平洋に突き出た勝連(かつれん)半島のほぼ南側を占める本島部分と、与勝(よかつ)諸島に属する有人の島浜比嘉(はまひが)島・津堅(つけん)島および無人島の浮原(うきばる)島・南浮原(みなみうきばる)島からなる。本島部は東西に約六・五キロ、南北に約一・五キロと細長く、中央部を琉球石灰岩や島尻層群(ジャーガル)の丘陵地が東西に走り、南側に向かって傾斜し、沖積低地や海岸線に至る。東は太平洋、南は中城(なかぐすく)湾に面し、北西は具志川(ぐしかわ)市、北は与那城(よなしろ)町に接する。貝塚時代の遺跡としては、半島部に前期の平安名(へんな)貝塚、津堅島に前期から後期のキガ浜(はま)貝塚、後期の津堅(つけん)貝塚などがある。半島先端平敷屋(へしきや)にある平敷屋古島(へしきやふるしま)遺跡はグスク時代から近世に至る集落跡。半島の付根近く、南風原(はえばる)の独立丘陵上に築かれた勝連(かつれん)グスクは沖縄島中部の代表的なグスクの一で、世界遺産に登録されている。伝承では中山王察度の妻は勝連按司の娘であったとされる(「球陽」察度王附紀)。第一尚氏王朝末期時の城主とされる阿麻和利(あまわり)は「おもろさうし」にも謡われ、勝連の繁栄は日本の京都や鎌倉にもたとえられた。阿麻和利は天順二年(一四五八)中城(なかぐすく)グスク(現中城村)の護佐丸を滅ぼし、さらに首里攻撃を企てたが、王府軍に攻められ敗死したという(同書尚泰久王五年条など)。また勝連グスクの城主が日本・中国・朝鮮など海外と交易を行っていたことが、グスクからの出土品や「李朝実録」の記事で裏付けられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by