平生昌(読み)たいらのなりまさ

朝日日本歴史人物事典 「平生昌」の解説

平生昌

生年生没年不詳
平安中期の官人。美作介珍材の子。文章生出身で地方官も務めた。長徳4(998)年但馬守在任中,重任を願う申文を提出している。中関白家(藤原道隆家)に近く,一条天皇の中宮定子(道隆の娘)の中宮大進であった長保1(999)年には,生昌の三条宅(三条坊門北,東洞院東)が里第とされた。中宮はこの第で皇女を出産した翌日死去。その後,道隆の子の伊周が流罪に処せられたとき,配所に赴かずに秘かに入京したことを道長に通報するなど時流を巧みに遊泳した。寛弘1(1004)年,兄惟仲(大宰府長官)が宇佐神宮から訴えられたことにより,道長の命をうけて鎮西に下り,翌年,病死した兄の遺骨を携えて京に戻った。

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平生昌」の解説

平生昌 たいらの-なりまさ

?-? 平安時代中期の官吏
平惟仲(これなか)の弟。但馬守(たじまのかみ),中宮大進(ちゅうぐうのだいじょう),播磨守(はりまのかみ)などを歴任。長保元年(999)生昌の三条宅が中宮藤原定子(ていし)の産所となり,定子はここで親王を,翌年内親王を生んだ。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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