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平惟仲 たいらの これなか

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平惟仲 たいらの-これなか

944-1005 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
天慶(てんぎょう)7年生まれ。藤原兼家に重用されて参議,中納言にすすみ,長保3年大宰権帥(だざいのごんのそち)。5年従二位にのぼるが,宇佐八幡宮宝殿に封をしたため宇佐宮にうったえられ,寛弘(かんこう)元年権帥を解任された。寛弘2年3月14日死去。62歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

平惟仲

没年:寛弘2.3.14(1005.4.25)
生年:天慶7(944)
平安中期の公卿。美作介珍材と備中国(讃岐国とも)の郡司の娘の子。24歳で文章生となり大学頭,蔵人頭を経て49歳で参議。長徳4(998)年,中納言に進む。俊才であったが藤原公任から「故実を知らず」といわれたことがある。摂政藤原兼家の家司となり藤原有国と共に「左右の眼」といわれ重用された。左京の三条高倉にあった邸宅で,一条天皇の中宮定子は長女の脩子内親王を出産,清少納言も滞在した。一条天皇の生母東三条院(詮子)も惟仲邸を御所とし,ここで死去した。一条天皇の乳母藤原繁子(右大臣師輔の娘)を妻としたが,晩年に大宰府(太宰府市)の長官となって下向したときも,この妻を伴っている。任地での3年目,宇佐神宮の宝殿を封じたことで訴えられ解任された。厠で倒れ腰を悪くし大宰府で死去。宇佐宮の祟りと噂された。遺骨は弟の生昌によって京へ運ばれた。

(朧谷寿)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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