手蔵田興屋村(読み)てぐらだこうやむら

日本歴史地名大系 「手蔵田興屋村」の解説

手蔵田興屋村
てぐらだこうやむら

[現在地名]酒田市熊手島くまてじま

大野新田おおのしんでん村の北東熊野田興屋くまのだこうや村の東にあり、最上川下流右岸に位置する。手蔵田興野村とも記した。天正一六年(一五八八)十五里ヶ原の合戦で戦死した東禅寺右馬守の孫の阿蘇弥八郎が、慶長六年(一六〇一)東禅寺とうぜんじ城落城後当地で開発に従事、藩主より堀姓を与えられたと伝える(「堀家系譜」堀家蔵)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二〇石余。同九年に田五町二反余・分米六六石余、畑三町三反余・分米二二石余、屋敷五反余・分米五石余、田畑分米合計八九石余(「検地帳」手蔵田興屋区有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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