日本歴史地名大系 「捧庄」の解説 捧庄ささげのしよう 長野県:松本市捧庄「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日の条に「八条院御領 捧中村庄・捧北条庄」とあるのが初見。その後、徳治元年(一三〇六)六月一二日に後宇多上皇から所領を安堵された昭慶門院御領目録に「捧勅旨」また諏訪社上社の嘉暦四年(一三二九)の頭役状に「捧庄半分」と出ているのみである。捧中(ささげなか)村の領域は、現在の南松本を中心とする地帯、捧北条(ささげきたじよう)は現松本城のある地帯をさしていると思われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by