精選版 日本国語大辞典 「地頭」の意味・読み・例文・類語
じ‐とう ヂ‥【地頭】
じ‐がしら ヂ‥【地頭】

じ‐あたま ヂ‥【地頭】
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日本中世の在地領主の一類型、または荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)ごとに置かれた鎌倉幕府の末端の所職(しょしき)をいう。
[義江彰夫]
地頭の原義は明治以来現地をさす語とされてきたが、近年では単なる現地にとどまらず、とくに紛争の生じる現場という意味を含むとの見方が強くなってきている。したがって、派生語としての人や職をさす地頭の語も、開発(かいほつ)在地領主一般をさすとする古典的見解にかわって、平安末期に複雑な領有関係の下で頻発する紛争を武力で解決する条件を備えた特殊な在地領主をさす語と解されるようになってきた。
地頭は元来地頭人ともよばれ、12世紀前半ごろまず前記のような特殊な場で、前述のように独特な条件を備えた者として登場するが、やがてそのような場からなる荘園や公領で、この条件を生かして収取その他の職務を担う役人に組織されて地頭職(しき)という一所職となった。平家はその全盛時代の12世紀後半に、地頭を必要とする所領の増加に対応して積極的に地頭の設置を行った。しかしその方法は、荘園や公領の一所職として任命する従来のやり方を超えるものではなかったと考えられる。やがて平家支配の下で所領紛争、治安の紊乱(びんらん)が全国的に極限状態に達し、その下でそれらと結び付いた百姓一般の抵抗が活性化してゆく。
[義江彰夫]
鎌倉幕府の地頭制度は、平家の制度を前提とし、このような在地領主一般の地頭化の動きを踏まえて地頭を国家的制度に転化させる必要が生じてきたという状況下で成立した。すなわち、源頼朝(よりとも)は、まず1180年(治承4)の挙兵直後から武門の家人(けにん)への恩給として郡郷司(ぐんごうじ)、下司(げし)、公文(くもん)などのなかから地頭職を重視し、これを荘園・国衙(こくが)とは別個の次元から安堵(あんど)・補任(ぶにん)し、権益の保証と検察・収取の義務を与えた。これを基礎として平家滅亡後の1185年(文治1)11月源義経(よしつね)追討のために上洛(じょうらく)させた北条時政(ときまさ)を代理人として後白河(ごしらかわ)院と交渉させ、いわゆる文治(ぶんじ)勅許の一環として総追捕使(そうついぶし)(守護)、兵粮米(ひょうろうまい)などとあわせて地頭を朝廷公認の制度として幕府が組織することを認めさせた。
この文治地頭勅許の内容については、明治以来長い論争の歴史があり、設置範囲を全国とみるか西国のみとみるか、設置された所領を平家没官領(もっかんりょう)のみとみるかより広く荘公一般とみるか、恒久的制度とみるか義経追捕までの制度とみるか、勅許された地頭のタイプを荘郷地頭とみるか国地頭(くにじとう)とみるか、権限内容を所領支配全般とみるか検察・収取など限定的にとらえるか、などの諸点について諸説が対立し、解決をみていない。しかし、これらの論争を経て、現在少なくとも、文治勅許によって地頭が国家的制度となり、幕府が国ごとに統轄する者を通して、前述の検察・収取の職権をもつ地頭を組織する体制をつくりだしたことは、疑いない事実として認められるようになった。設置範囲、所領類型、制度の恒久性などについては、13世紀初頭までの鎌倉幕府の歴史のなかでいずれも全国荘公一般を対象とする恒久的制度に発展したことを考えれば、そこへ至る段階の問題として処理できる。
幕府草創期に前記のような形で登場した地頭制度は、13世紀初頭までの曲折を伴う漸次的拡大を踏まえて、1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱の幕府方の勝利によって飛躍的に設置範囲を広げる。すなわち上皇方の膨大な没官領に一律に地頭が設置され、これらは新補(しんぽ)地頭とよばれ、否定された上皇方の武士の所職の権益を受け継ぐか、それがなくとも最低限11町ごとに1町の給田(きゅうでん)、反別(たんべつ)5升の加徴米、山野河海所出物(さんやかがいしょしゅつぶつ)の国司領家(こくしりょうけ)との折半、犯罪人跡所領3分の1の収得など制限付きながら権益が保証された。この新補地頭に対する規準設定にうかがえるように、幕府は地頭の存在や機能を積極的に肯定・拡大しようとした反面、一貫して一定の枠内に封じ込め無制限な成長を抑止しようとした。それは、鎌倉幕府が朝廷や荘園領主勢力と妥協した武家公権であり、かつ地頭の無制限な成長が幕府の存立を揺るがすと判断された結果と解されている。
[義江彰夫]
しかし地頭は前記の枠内に収まる存在ではなく、幕府の抑制を踏み越えて鎌倉時代を通して一貫して所管荘公所領の全一的支配を志向し、地頭請(うけ)、下地中分(したじちゅうぶん)などを通して、全一的所領支配の制度的な足掛りをつくりだすようになった。こうして地頭は南北朝時代にはますます幕府の地方職員としての枠を超える者になっていったので、室町幕府は地頭を地方幕府行政の末端の役人として組織しないようになった。その意味で南北朝から室町初期に至る時代は幕府制度としての地頭の消滅期といってよいが、平安末期の発生以来の実態上の武力領主としての性格は、この間むしろ発展したとみるべきである。戦国・江戸時代においても、伝統的な開発領主の系譜を引き、検察力を背景として在地を領域的に支配しつつ大名の給人や軍役衆に連なる領主は、各地で地頭とよばれ続けた。
地頭の中世社会のなかにおける位置については、荘園・公領や幕府の職の枠内の未成熟で制約された存在にすぎないという見方と、実態面を重視して中世領主の典型とする見解とがあるが、それらは制度と実態のいずれの側からみるかによって生ずるずれで、実際には両面をもっていたものとみるべきであろう。
[義江彰夫]
『三浦周行著『続法制史の研究』(1924・岩波書店)』▽『牧健二著『日本封建制度成立史』(1935・弘文堂)』▽『中田薫著『法制史論集 第2巻』(1938・岩波書店)』▽『石母田正著『鎌倉幕府一国地頭職の成立』(石母田正・佐藤進一編『中世の法と国家』所収・1960・東京大学出版会)』▽『上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房)』▽『大山喬平著『日本の歴史9 鎌倉幕府』(1974・小学館)』▽『義江彰夫著『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』(1978・東京大学出版会)』▽『安田元久著『地頭及び地頭領主制の研究』(1985・山川出版社)』
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平安末期から鎌倉時代末までを中心に,荘園や公領の現地を支配した職。地頭とは現地の意味で,転じて現地を領有する者とか,現地の有力者の称呼となった。平氏政権は,各地の荘園公領に平氏の家人となった武士たちを地頭職として送りこんだ。鎌倉幕府はこれを一般的な制度として広く全国化した。1185年(文治元)源頼朝は後白河上皇に迫って全国の荘園・公領に地頭を任命する権利を認めさせ,以後,機会をとらえては御家人を地頭に任命した。新たな地頭の任務は年貢の徴収・納入と土地の管理および治安維持であり,給与はとくに一定の規準はなく,先例にしたがった。これによって下司(げし)などの職にあった荘官の多くは新たに幕府の任免権に服する地頭職に任じられる形式で,将軍配下の従者に組織され在地領主としての支配を保障された。当初の地頭の任命される範囲は,頼朝か幕府に対する謀反人の旧領に限られたが,幕府勢力の拡大とともに全国にひろがった。とくに1221年(承久3)の承久の乱後,後鳥羽上皇方の貴族や武士の所領3000余カ所を没収,御家人を新たに地頭に任命した意義は大きい。このとき先例がないか少ない所領については新補率法を定め,地頭の給与の規準を示した。以後,鎌倉時代を通じて荘園の領主や国司などの勢力と対立しつつ,地頭の現地支配が進められ,幕府勢力の拡大と全国化の裏づけとなった。南北朝の争乱のなかで,地頭という職の意味はうすれていくが,中世を通じて地頭の役割は大きい。江戸時代にも,旗本や大名の家臣の通称・俗称として地頭の語が用いられた。
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…地謡は前述のようにシテ方が担当するが,アイの部分の地謡は狂言方から出る。どちらもその統率者を地頭(じがしら)と称する。
【流派】
各役籍の技法はいくつかの流れとなって伝承され,江戸時代になると,役籍別の流派制度として固定した。…
…これに対し88年(寛治2)の醍醐寺領越前国牛原荘内検帳によると,反別5斗の所当のほかに反別5升の加徴米がみえ,ここに加徴米の新しい形がみられる。備後国大田荘桑原方では1198年(建久9)に前地頭橘兼隆が先例の下司得分として反別5升の加徴米があったと述べており,平安時代の末には反別3升ないし5升程度の加徴米が下司などの荘官得分として一般に認められていたことがうかがわれる。このような加徴米は鎌倉時代の地頭にもうけつがれ,大田荘地頭三善氏ははじめ反別5升,1192年(建久3)以降は反別3升の加徴米を徴収した。…
…これらの人々は給主と呼ばれており,貴族社会において給人が給主と呼ばれていたことから考えると史料上には見えないが,彼らも給人と呼ばれた可能性がある。鎌倉時代に入ると荘園の下司職などの後身である地頭職などの所職を鎌倉殿より御恩として授かった人々を給人と呼び,その職(しき)にともなう権利・義務の行使地を給地と呼んだ。そしてこの所職を授けられたことに対して給人は,鎌倉殿への軍役その他の奉仕を行う義務を負っており,前代の国衙領,荘園における給主たちと本質的な違いはない。…
…鎌倉幕府のはじめ,1185年(文治1)11月,源頼朝の代官北条時政の奏請によって,五畿山陰山陽南海西海の諸国を対象に,国ごとにおかれた地頭。このとき謀反人となって逃亡した源義経・同行家を追捕(ついぶ)するために,これらの国に地頭をおき,(1)荘園・公領をとわず,反別5升の兵粮米を徴収すること,(2)一国の田地を知行すること,(3)国衙の在庁や荘・公の下職(現地の役人)・惣押領使などからなる地頭の輩を幕府の支配下にくみこむことなどが予定されていた。…
…一般的には南北朝・室町期の在地領主を指し,国人(こくじん)とも呼ばれた。鎌倉時代の在地領主の典型は地頭であるが,その地頭は幕府から地頭職という形で所領の充行(あておこない),安堵(あんど)を受け,血縁的結合を原理とする惣領制によってその所領を支配していた。所領規模は郡郷単位の大規模なものから,一村単位のものまで大小さまざまであったし,地域的にもまとまりを持っているとは限らず,数ヵ国以上にわたることもあった。…
…日本の中世では司法警察・刑事裁判の行為・権限・職務を総称する。1177年(治承1)新興寺の寺領四至内に国衙検断使の不入が認められ,86年(文治2)の太政官符に諸国地頭が不法に検断を行うことを禁ずるなどとある例が,文書資料上の早い用例と思われる。もと朝廷―国衙の法体系で生まれた概念であろう。…
…下司職のような下位の職に補任された者は,上位者に対して,その職務を忠実に履行する義務は負うが,それは封建的従者となったことを意味せず,したがって上位者に対し軍役奉仕義務を賦課されることはなく,またその上位者とは別人と封建的主従関係を結ぶこともありえた。ただ鎌倉幕府の成立とともに新たに源頼朝の申請により設置が勅許され,頼朝が全国にわたるそれの補任権を一括して獲得した地頭職は,頼朝がその家人に対し,主従制を前提として宛て行うものであって,これは封建的知行の対象であった。その意味で,荘園公領制的職の秩序は,地頭職の設置によって大きく性格を変えたのである。…
… 地主職は,この例にも見られるようにその土地は相伝・譲与され,また開発領主あるいはその所領の相伝者が,地主としての立場において所領を貴族・大社寺など有勢のものに寄進する場合もあった。1184年(元暦1)5月の後白河院庁下文(案)によれば,越前国河和田荘はもと藤原周子の先祖相伝の私領であったが,待賢門院のはからいで法金剛院に寄進し,その際〈地頭預所職〉は周子が留保して子孫相伝することになったという由来が述べられている。いわゆる寄進地系荘園成立の一例であるが,文中に〈当御庄者,是当預所帯本公験,代々相伝之地主也〉と記され,領家への荘園寄進によってその預所となった本来の領主が,その後も依然として地主と呼ばれていたことが判明する(仁和寺文書)。…
…鎌倉時代,新たに補任した地頭の意。初めは本領安堵の地頭に対して新恩の地頭を意味した。…
…さらに,本来在地のものがみずから開発した所領も,その権益を保全するために国司や権門に寄進して,寄進者(開発者ないしその子孫)が国衙や荘園の職(郡司職,郷司職,下司(げし)職,公文(くもん)職,等々)に補任される,という形をとることが一般化するにつれて,職=所領という観念はいっそう強化されるようになった。鎌倉幕府下の地頭職はおおむねこれらの後身で,やはりこれを知行する地頭の所領と観念された。補任権者(国司,領家,幕府)の側でも,〈相伝の所領たるによって,○○職に補任する〉という趣旨の補任状を発給してなんらあやしまなかったのである。…
…しかし平民自身の生活のなかでは,布,小袖,帷子(かたびら)などは,鍬,犂(すき),手斧(ちような),鉞(まさかり)や鍋,金輪などの鉄製品,弓や刀などの武器とともにたいせつな財産であった。平民の負担にはそのほかに,年中行事の費用,荘園・公領の支配者の代官や使などの饗応,三日厨(みつかくりや),その送迎の人夫,佃(つくだ)の耕作などの公事・夫役があったが,地頭,下司(げし)や預所(あずかりどころ)などの領主,その代官も,農事の開始に当たっての種子や農料の下行,出挙米(すいこまい)や利銭の貸与,行事のさいの酒などの給付を当然のこととして行わなくてはならなかった。 これらの年貢・公事などは,平民にとって公への奉仕と意識されていた。…
※「地頭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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