デジタル大辞泉
「地頭」の意味・読み・例文・類語
じ‐とう〔ヂ‐〕【地頭】
1 平安末期、所領を中央の権門勢家に寄進し、在地にあって荘園管理に当たった荘官。
2 鎌倉幕府の職名。文治元年(1185)源頼朝が勅許を得て制度化。全国の荘園・公領に置かれ、土地の管理、租税の徴収、検断などの権限を持ったが、しだいに職域を越えた存在となり、室町時代には在地領主化が進行した。承久の乱以前のものを本補地頭、以後のものを新補地頭という。
3 江戸時代、知行取りの旗本。また、各藩で知行地を与えられ、租税徴収の権を持っていた家臣。
じ‐あたま〔ヂ‐〕【地頭】
1 大学などでの教育で与えられたのでない、その人本来の頭のよさ。一般に知識の多寡でなく、論理的思考力やコミュニケーション能力などをいう。「地頭がいい」「地頭を鍛える」
2 かつらなどをかぶらない、そのままの髪の頭。地髪。
じ‐がしら〔ヂ‐〕【地頭】
1 能で、地謡の統率者。横2列に並んだ後列の中央に位置する。狂言の地謡にもある。
2 能の大鼓・小鼓の特殊な手配りの名称。舞の中で、テンポを速めるために用いられる。
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じ‐とうヂ‥【地頭】
- 〘 名詞 〙
- ① その場所。その地。現地。
- [初出の実例]「仰云、早遣二使於地頭一可レ被レ決歟」(出典:中右記‐元永元年(1118)九月九日)
- ② 平安時代、土地を開拓して地主となった人。また、領主との私的な契約によって、在地にあって荘園管理にあたった荘官をいう。地頭職。⇔上頭(うえとう)。
- [初出の実例]「而件玄阿大法師左右遁避、不レ向二公験一、暗領地頭、其由在二条司并刀禰日記文一」(出典:薬師院文書‐延喜一一年(911)四月一一日・東大寺上座慶賛愁状)
- ③ 鎌倉時代、幕府によって公的に任命された一種の荘官職、また、その人。地頭職。
- [初出の実例]「毎二国衙庄園一、被レ補二守護地頭一者」(出典:吾妻鏡‐文治元年(1185)一一月一二日)
- ④ 室町時代、③の系譜をひく在地領主。また、守護大名のもとで、知行地を与えられていた家臣を、守護の家臣というほどの意味で呼ぶことがある。地頭職。
- [初出の実例]「百姓など地頭におさめずしてかなはぬねんぐ」(出典:さるばとるむんぢ(1598))
- ⑤ 江戸時代、地方(じかた)知行を持つ幕府の旗本や私藩の給人(きゅうにん)の通称。小領主。また、一地域の領主の俗称。
- [初出の実例]「さる程に、百姓共はこの鳫を代官の如く、地頭(ヂトウ)の如く恐しがりて」(出典:仮名草子・浮世物語(1665頃)三)
地頭の語誌
( ③について ) 文治元年(一一八五)一一月、源義経・行家の追捕を名目に源頼朝が勅許を得て各地の荘園・公領に設置し、御家人を任命したのをはじめとする。権限として、下地(したじ)の管理権・警察権・徴税権を持ち、ほかに反別五升の兵糧米を年貢官物の中から取得することが認められた。のち承久の乱の結果、三千余か所の没収領に新しく地頭を任ずる際には田畑一一町別一町の給田畑と、反別五升の加徴米の徴収権を認めた。この方式により任命される地頭は新補地頭と呼んで、旧来の本補地頭と区別された。御家人は数か所の地頭職を各地に分散して保有するのが普通であったが、本拠地を離れて新任地に赴いてその地に勢力を得て領主化するものも多く、さらに所領を一地域へ集約するようになり、また、現地では領主方と紛争をくり返した。幕府は立法によって、こうした地頭在地領主の動きを制御し、荘園制の保持をはかったが、これに対応し切れず、元弘三年(一三三三)に倒壊した。
じ‐がしらヂ‥【地頭】
- 〘 名詞 〙 能楽、謡曲の演奏で地謡方(じうたいかた)の統率者をいう。二列に並ぶうち後列の中央に位置する。
- [初出の実例]「たかひ事・地頭ねめるやり子」(出典:雑俳・田みの笠(1700))
じ‐あたまヂ‥【地頭】
- 〘 名詞 〙 かつらなどをかぶらないそのままの毛髪の頭。
- [初出の実例]「『文治が演劇(しばゐ)をするてエが地天窓(ヂアタマ)か知ら』『イエ髢(桂)』」(出典:落語・恵方詣(1890)〈三代目三遊亭円遊〉)
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地頭 (じとう)
平安末期~鎌倉時代に特徴的な職(しき)の一つ。
鎌倉以前の地頭
地頭の語は〈地頭に臨む〉などの用法にみられるように当初は現地もしくは土地そのものの指称であった。後に転じてその土地を領有する在地の領主を意味するようになり,さらに12世紀半ばごろには特定の人または職を表現する用語として現れてくる。地頭ないし地頭職が国衙領に多く散見されるところから,荘園所職として一般化する下司職と対比し,これが国衙領的であるとの見解もある。地頭,下司ともに開発領主に由来しながら,地頭のみが幕府の制度として定着することは,その意味で重要である。この点,いまだ確説をみないが,地頭の語自体の中に権門への勤仕を固有の属性とした武的性格を指摘し,これが武門としての幕府地頭制度に吸収された前提をなすとの理解もある。平氏政権下の安芸国高田郡7ヵ郷地頭職・壬生郷地頭職をはじめ,平氏の家人が地頭として補任されたのも,叙上の地頭の有した基本的性格による。もっとも〈前々地頭と称するは多分に平家の家人なり。これ朝恩にあらず。あるいは平家領の内,その号を授けてこれを補置し,あるいは国司領家,私の芳志としてその荘園に定補す〉(《吾妻鏡》)とある文言からも知られるように,平氏政権が統一的制度として地頭職補任を行ったか否かは疑問である。地頭が一個の制度として定着するには,少なくとも勅許による公認が必要となる。
文治地頭
1185年(文治1)末の地頭職補任の勅許はその意味で地頭制度成立の契機をなすものであった。いわゆる〈文治地頭〉がこれである。源頼朝は挙兵以来,御家人となった在地領主を対象に,本領安堵や新恩給与を実施したが,その中には地頭職補任を私的成敗として進めたケースもあった。こうした地頭職の補任は平氏政権下でのそれを継承するものであり,私的な域を出ないものであった。これが国制レベルの公的制度に転化するには,文治の勅許が必要とされた。おりしもこの時期における義経追捕問題を契機に頼朝は勅許の獲得に成功する。しかし,この勅許の内容や設置された地頭職の意味についてはなお議論が一定しない。従来,この文治勅許によって設置された地頭は一般の荘郷地頭と考えられてきたが,近年ではこれと類型的に区別される国地頭であるとの理解が一般化しつつある。その際,文治勅許によって成立した地頭制を国地頭のみと限定するか,あるいは在来の指摘を認めつつ,荘郷地頭,国地頭双方であったとするかの両様の見解が提起されている。ただここで留意すべきは前者すなわち国地頭制を主張する論者が意味する地頭とは,後の守護に発展する実態を有するもので,内実としては惣追捕使に近似する存在であった点である。したがって,この理解にあっては,地頭という名を共有するにしても,荘郷地頭の延長上に位置する意味で国地頭とは意味が異なる。他方,荘郷・国地頭双方が文治勅許により実現したとする見解は,国地頭は惣追捕使(守護)と区別されるべきもので,荘郷地頭の進退,成敗権を固有の職務とするというものである。加えて,国地頭制をとる理解にあっては,幕府地頭制度の根幹となった荘郷地頭制の成立時期は1184年(寿永3)3月に頼朝が平家没官領を惣領したときに始まり,これが以前の本領安堵の地頭と統合され,幕府荘郷地頭制へと発展したとする。以上のように文治勅許をめぐり両様の見解がみられるが,いずれにしても幕府の地頭制度は治承・文治・建久・承久とそれぞれの政治的画期を通じて,制度的発展をみる。
地頭の諸類型
地頭職には前述の荘郷地頭や国地頭以外にも,(1)補任された所領の性格,(2)地頭職の補任の動機,(3)地頭職の得分の形態等々の基準により以下のようなものがある。まず(1)の所領の性格についてみれば,一般の荘官職としての地頭のほかに公領の地頭職がある。国衙領の郡地頭職,郷地頭職はその代表的なものである。また(2)の補任の動機からこれを分類すれば,本領安堵の地頭職と新恩の地頭職があった。このうち前者は自己の開発私領を地頭職の安堵という形式で認められるもので,新恩のそれは御家人の勲功に対して恩賞として与えられた地頭職である。これには平家没官領や承久の乱における3000余ヵ所の没収地,そのほか畠山,和田,三浦,安達など族滅された諸氏の所領,さらには一般犯罪人跡などが対象とされた。(3)については,承久の乱後に制定された率法に基づく得分を内容とする新補地頭(新補率法地頭)とそれ以外の本補地頭ということになる。ただしかかる本補・新補の区別は時代が下るにつれ混乱し,鎌倉末期の《沙汰未練書》などには〈承久兵乱の時,没収の地をもって宛給所領等の事なり〉とあり,承久の乱後に設置された地頭をすべて新補地頭とする観念が一般化する。このほか,鎮西に顕著な惣地頭・小地頭の制や,地頭職の分轄相続にともなって一分地頭や惣領地頭の語も生じた。
職権内容
これら地頭職の職権内容についてみると,得分の定められた新補地頭は別として,一般に地頭の職権とされるものには,(1)下地管理権,(2)徴税権,(3)警察および裁判権,などがあった。(1)は具体的には領有権者の委任をうけて土地を管理し,いわゆる勧農の沙汰,荒地開発などを遂行する権限を含むものであり,下地に対する沙汰権を意味する。一般に地頭職で安堵の対象とされた御家人の所領は,単なる所当・上分の知行ではなく,直接的な土地支配を通じて得分の知行を実現する下地知行=領掌に存した。かかる意味での土地支配権を下地管理権と称し,地頭職の職権においてその中核をなすものであった。(2)の徴税権とは,本所・領家,国衙,並びに自己のための年貢公事の徴収の権である。その場合,自己の得分知行権の範囲においての徴税行為は当然としても,本所・領家に対する年貢公事を,その責任において徴収する権限を地頭一般が有したか否かは,本領安堵や新恩給与の地頭で異なり,また本所・領家との関係によっても異なった。(3)の犯科人を捜査逮捕する警察権は,いわゆる検断権の一側面であり,その意味で地頭は幕府の検断権の一部を分担したと考えられる。これら地頭一般の職務・職権はそれ自体地頭に固有のものではない。荘園管理の面では下司その他の荘官と共通する面も多い。しかしその職務遂行が公法的なものとして認められているところに,幕府補任による地頭職の意義があった。
変遷
以上のような職権を有した地頭は承久の乱後,設置地域の拡大に伴い貴族・寺社を本所・領家とする公家領にも任命され,多くの荘園において幕府の任命した地頭と荘園領主の任命した預所・下司双方の二重支配が進展した。こうした中で,地頭は荘園領主に送るべき年貢を抑留するなど,地頭の荘園領主に対する非法・不法が目だつようになり,両者の対立が激化した。その結果,下地中分や地頭請による方法がとられるに至った。和与(わよ)にもとづくこれらの方法は,荘園に対する地頭の支配権強化を示すものであった。地頭のもつ下地管理権,年貢徴収権,検断権はしばしば領家側(荘官)所職の権限と重なり,対立をひきおこしたが,領家側が年貢等の収益を確保すべく行う地頭請や下地中分は,地頭の土地(下地)に対する支配を強化させた。いずれにせよ,これらは領主側が荘園の実質支配権を地頭にあたえたことを意味し,その結果,地頭の一円領主化が促進され,荘園制の崩壊を早める一因となった。南北朝時代以降,守護領国制の展開とともに地頭は有力守護の支配下に組み込まれ,鎌倉時代のような地頭の実体は意義を失っていった。
執筆者:関 幸彦
地頭 (じがしら)
能楽用語。(1)地謡(じうたい)の統率者。謡い出しの間を計り,音高を定め,全体のテンポや位取りをリードしつつ謡い進める。謡は声楽とはいえ,旋律楽器の伴奏もなく指揮者もいないので,地頭の占める役割はきわめて重要である。昔は前列の向かって右端に位置したといわれ,黒川能などはその古態を踏襲しているが,現在は後列中央に位置する。通常は1列4名なので,観世,金剛,喜多の三流は中央の右側,宝生,金春(こんぱる)は中央の左側に位置する。この位置関係は舞囃子・仕舞のときも同様である。(2)大鼓・小鼓の手組(てくみ)の名称。単調さを避け,テンポを速める働きをする。舞事(まいごと)の二・三・四・五段目,カケリの初段目などにある。
執筆者:羽田 昶
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地頭
じとう
日本中世の在地領主の一類型、または荘園(しょうえん)・公領(こうりょう)ごとに置かれた鎌倉幕府の末端の所職(しょしき)をいう。
[義江彰夫]
地頭の原義は明治以来現地をさす語とされてきたが、近年では単なる現地にとどまらず、とくに紛争の生じる現場という意味を含むとの見方が強くなってきている。したがって、派生語としての人や職をさす地頭の語も、開発(かいほつ)在地領主一般をさすとする古典的見解にかわって、平安末期に複雑な領有関係の下で頻発する紛争を武力で解決する条件を備えた特殊な在地領主をさす語と解されるようになってきた。
地頭は元来地頭人ともよばれ、12世紀前半ごろまず前記のような特殊な場で、前述のように独特な条件を備えた者として登場するが、やがてそのような場からなる荘園や公領で、この条件を生かして収取その他の職務を担う役人に組織されて地頭職(しき)という一所職となった。平家はその全盛時代の12世紀後半に、地頭を必要とする所領の増加に対応して積極的に地頭の設置を行った。しかしその方法は、荘園や公領の一所職として任命する従来のやり方を超えるものではなかったと考えられる。やがて平家支配の下で所領紛争、治安の紊乱(びんらん)が全国的に極限状態に達し、その下でそれらと結び付いた百姓一般の抵抗が活性化してゆく。
[義江彰夫]
鎌倉幕府の地頭制度は、平家の制度を前提とし、このような在地領主一般の地頭化の動きを踏まえて地頭を国家的制度に転化させる必要が生じてきたという状況下で成立した。すなわち、源頼朝(よりとも)は、まず1180年(治承4)の挙兵直後から武門の家人(けにん)への恩給として郡郷司(ぐんごうじ)、下司(げし)、公文(くもん)などのなかから地頭職を重視し、これを荘園・国衙(こくが)とは別個の次元から安堵(あんど)・補任(ぶにん)し、権益の保証と検察・収取の義務を与えた。これを基礎として平家滅亡後の1185年(文治1)11月源義経(よしつね)追討のために上洛(じょうらく)させた北条時政(ときまさ)を代理人として後白河(ごしらかわ)院と交渉させ、いわゆる文治(ぶんじ)勅許の一環として総追捕使(そうついぶし)(守護)、兵粮米(ひょうろうまい)などとあわせて地頭を朝廷公認の制度として幕府が組織することを認めさせた。
この文治地頭勅許の内容については、明治以来長い論争の歴史があり、設置範囲を全国とみるか西国のみとみるか、設置された所領を平家没官領(もっかんりょう)のみとみるかより広く荘公一般とみるか、恒久的制度とみるか義経追捕までの制度とみるか、勅許された地頭のタイプを荘郷地頭とみるか国地頭(くにじとう)とみるか、権限内容を所領支配全般とみるか検察・収取など限定的にとらえるか、などの諸点について諸説が対立し、解決をみていない。しかし、これらの論争を経て、現在少なくとも、文治勅許によって地頭が国家的制度となり、幕府が国ごとに統轄する者を通して、前述の検察・収取の職権をもつ地頭を組織する体制をつくりだしたことは、疑いない事実として認められるようになった。設置範囲、所領類型、制度の恒久性などについては、13世紀初頭までの鎌倉幕府の歴史のなかでいずれも全国荘公一般を対象とする恒久的制度に発展したことを考えれば、そこへ至る段階の問題として処理できる。
幕府草創期に前記のような形で登場した地頭制度は、13世紀初頭までの曲折を伴う漸次的拡大を踏まえて、1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱の幕府方の勝利によって飛躍的に設置範囲を広げる。すなわち上皇方の膨大な没官領に一律に地頭が設置され、これらは新補(しんぽ)地頭とよばれ、否定された上皇方の武士の所職の権益を受け継ぐか、それがなくとも最低限11町ごとに1町の給田(きゅうでん)、反別(たんべつ)5升の加徴米、山野河海所出物(さんやかがいしょしゅつぶつ)の国司領家(こくしりょうけ)との折半、犯罪人跡所領3分の1の収得など制限付きながら権益が保証された。この新補地頭に対する規準設定にうかがえるように、幕府は地頭の存在や機能を積極的に肯定・拡大しようとした反面、一貫して一定の枠内に封じ込め無制限な成長を抑止しようとした。それは、鎌倉幕府が朝廷や荘園領主勢力と妥協した武家公権であり、かつ地頭の無制限な成長が幕府の存立を揺るがすと判断された結果と解されている。
[義江彰夫]
しかし地頭は前記の枠内に収まる存在ではなく、幕府の抑制を踏み越えて鎌倉時代を通して一貫して所管荘公所領の全一的支配を志向し、地頭請(うけ)、下地中分(したじちゅうぶん)などを通して、全一的所領支配の制度的な足掛りをつくりだすようになった。こうして地頭は南北朝時代にはますます幕府の地方職員としての枠を超える者になっていったので、室町幕府は地頭を地方幕府行政の末端の役人として組織しないようになった。その意味で南北朝から室町初期に至る時代は幕府制度としての地頭の消滅期といってよいが、平安末期の発生以来の実態上の武力領主としての性格は、この間むしろ発展したとみるべきである。戦国・江戸時代においても、伝統的な開発領主の系譜を引き、検察力を背景として在地を領域的に支配しつつ大名の給人や軍役衆に連なる領主は、各地で地頭とよばれ続けた。
地頭の中世社会のなかにおける位置については、荘園・公領や幕府の職の枠内の未成熟で制約された存在にすぎないという見方と、実態面を重視して中世領主の典型とする見解とがあるが、それらは制度と実態のいずれの側からみるかによって生ずるずれで、実際には両面をもっていたものとみるべきであろう。
[義江彰夫]
『三浦周行著『続法制史の研究』(1924・岩波書店)』▽『牧健二著『日本封建制度成立史』(1935・弘文堂)』▽『中田薫著『法制史論集 第2巻』(1938・岩波書店)』▽『石母田正著『鎌倉幕府一国地頭職の成立』(石母田正・佐藤進一編『中世の法と国家』所収・1960・東京大学出版会)』▽『上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房)』▽『大山喬平著『日本の歴史9 鎌倉幕府』(1974・小学館)』▽『義江彰夫著『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』(1978・東京大学出版会)』▽『安田元久著『地頭及び地頭領主制の研究』(1985・山川出版社)』
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地頭
じとう
鎌倉幕府によって設けられた職名。「地頭」という言葉は 10世紀初め頃から用いられ,平氏政権のもとでも荘園の地頭にその家人が補任されたが,これは私的,非公法的なものであった。これに対して,鎌倉幕府においては,源頼朝が大江広元の献策により,文治1 (1185) 年 11月源義経,行家追捕を理由として諸国に守護,地頭の設置を奏請し,勅許を得た。この文治勅許の地頭設置の範囲については,(1) 日本全国,(2) 畿内および主として西国に属する 37ヵ国,鎮西9ヵ国,計 46ヵ国,(3) 西国 36ヵ国,(4) 地域的限定はあるが確定しない,などの説があるが,荘園領主の反対によって翌年7月には,全国五百余ヵ所の平家没官領および謀反人跡に限定せざるをえなかった。承久の乱 (1221) の幕府側の圧倒的勝利の結果,京都方に味方した者の所領三千余ヵ所を幕府の支配下に入れ,その地頭職を恩賞として御家人に与えることによって,幕府の支配は全国に及ぶことになった。これらの地頭の種類は複雑多様で,荘,郷,保,村,名 (みょう) 地頭などのほか惣地頭,小地頭と呼ばれるものもあり,これらは本領安堵地頭,新恩地頭,臨時地頭に大別される。また得分率法の違いによって,本補地頭と新補地頭に分けられる。地頭の権限としては警察権,裁判権,徴税権,下地管理権,行政権などがあるが,地域,時代によって相違がある。地頭の設置により荘園制の解体が促進され,南北朝,室町時代になると,地頭は荘園における元来の性格を失い,幕府に対しても地頭職補任,安堵などによって制度的には一応関係を保ったが,実質的には守護大名の被官となりつつあり,この傾向は時代が進むにつれて顕著となった。戦国時代には地頭,地頭職の名称もほとんどなくなり,江戸時代には一部の地域で代官のことを地頭と呼ぶ以外には,まったく名残りをとどめなくなった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
地頭
じとう
平安末期から鎌倉時代末までを中心に,荘園や公領の現地を支配した職。地頭とは現地の意味で,転じて現地を領有する者とか,現地の有力者の称呼となった。平氏政権は,各地の荘園公領に平氏の家人となった武士たちを地頭職として送りこんだ。鎌倉幕府はこれを一般的な制度として広く全国化した。1185年(文治元)源頼朝は後白河上皇に迫って全国の荘園・公領に地頭を任命する権利を認めさせ,以後,機会をとらえては御家人を地頭に任命した。新たな地頭の任務は年貢の徴収・納入と土地の管理および治安維持であり,給与はとくに一定の規準はなく,先例にしたがった。これによって下司(げし)などの職にあった荘官の多くは新たに幕府の任免権に服する地頭職に任じられる形式で,将軍配下の従者に組織され在地領主としての支配を保障された。当初の地頭の任命される範囲は,頼朝か幕府に対する謀反人の旧領に限られたが,幕府勢力の拡大とともに全国にひろがった。とくに1221年(承久3)の承久の乱後,後鳥羽上皇方の貴族や武士の所領3000余カ所を没収,御家人を新たに地頭に任命した意義は大きい。このとき先例がないか少ない所領については新補率法を定め,地頭の給与の規準を示した。以後,鎌倉時代を通じて荘園の領主や国司などの勢力と対立しつつ,地頭の現地支配が進められ,幕府勢力の拡大と全国化の裏づけとなった。南北朝の争乱のなかで,地頭という職の意味はうすれていくが,中世を通じて地頭の役割は大きい。江戸時代にも,旗本や大名の家臣の通称・俗称として地頭の語が用いられた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
地頭
じとう
中世,荘園・国衙 (こくが) 領における荘官・下司 (げし) などの権限や得分を継承した一種の管理者
平氏がその家人を地頭に補任したことがあるが,公的なものとして制度化されたのは,鎌倉時代,1185年全国的に地頭設置の勅許を源頼朝が得たことによる。頼朝は地頭職補任の形で御家人の所領を安堵・給与することにより全国的な支配を実現した。地頭には御家人本来の所領を安堵された本補地頭と,恩賞として新たに与えられた新恩地頭がある。承久の乱(1221)後,全国的に設置された新補率法地頭(新補地頭)も新恩地頭の一種。権限は警察権・徴税権・下地管理権が考えられるが,一定しない。13世紀ころより地頭請・下地中分 (したじちゆうぶん) などにより,しだいに荘園を侵略し在地領主化していった。南北朝の動乱期に守護の大名化が進展すると,地頭の多くは有力守護の被官となった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
地頭
もとは平安後期の荘園の荘官。一一八五年、頼朝の命により荘園・公領の職として制度化され、荘内の管理・徴税・警備・司法に携わった。次第に領主として実権を握るようになり、「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざが示すような専横振りを発揮。幕府がこれを監察するため国々に派遣した地方官が守護。
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
地頭
平安時代末から鎌倉時代末に荘園[しょうえん]や国司[こくし]の土地を支配するために置かれた職です。税の取り立てや治安維持などが主な仕事でした。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
世界大百科事典(旧版)内の地頭の言及
【能】より
…地謡は前述のようにシテ方が担当するが,アイの部分の地謡は狂言方から出る。どちらもその統率者を[地頭](じがしら)と称する。
【流派】
各役籍の技法はいくつかの流れとなって伝承され,江戸時代になると,役籍別の流派制度として固定した。…
【加徴米】より
…これに対し88年(寛治2)の醍醐寺領越前国牛原荘内検帳によると,反別5斗の所当のほかに反別5升の加徴米がみえ,ここに加徴米の新しい形がみられる。備後国大田荘桑原方では1198年(建久9)に前地頭橘兼隆が先例の下司得分として反別5升の加徴米があったと述べており,平安時代の末には反別3升ないし5升程度の加徴米が下司などの荘官得分として一般に認められていたことがうかがわれる。このような加徴米は鎌倉時代の[地頭]にもうけつがれ,大田荘地頭三善氏ははじめ反別5升,1192年(建久3)以降は反別3升の加徴米を徴収した。…
【給人】より
…これらの人々は給主と呼ばれており,貴族社会において給人が給主と呼ばれていたことから考えると史料上には見えないが,彼らも給人と呼ばれた可能性がある。鎌倉時代に入ると荘園の下司職などの後身である地頭職などの所職を鎌倉殿より御恩として授かった人々を給人と呼び,その[職](しき)にともなう権利・義務の行使地を給地と呼んだ。そしてこの所職を授けられたことに対して給人は,鎌倉殿への[軍役]その他の奉仕を行う義務を負っており,前代の国衙領,荘園における給主たちと本質的な違いはない。…
【国地頭】より
…鎌倉幕府のはじめ,1185年(文治1)11月,源頼朝の代官北条時政の奏請によって,五畿山陰山陽南海西海の諸国を対象に,国ごとにおかれた[地頭]。このとき謀反人となって逃亡した源義経・同行家を追捕(ついぶ)するために,これらの国に地頭をおき,(1)荘園・公領をとわず,反別5升の兵粮米を徴収すること,(2)一国の田地を知行すること,(3)国衙の在庁や荘・公の下職(現地の役人)・惣押領使などからなる地頭の輩を幕府の支配下にくみこむことなどが予定されていた。…
【国衆】より
…一般的には南北朝・室町期の在地領主を指し,国人(こくじん)とも呼ばれた。鎌倉時代の在地領主の典型は地頭であるが,その地頭は幕府から地頭職という形で所領の充行(あておこない),安堵(あんど)を受け,血縁的結合を原理とする[惣領制]によってその所領を支配していた。所領規模は郡郷単位の大規模なものから,一村単位のものまで大小さまざまであったし,地域的にもまとまりを持っているとは限らず,数ヵ国以上にわたることもあった。…
【検断(撿断)】より
…日本の中世では司法警察・刑事裁判の行為・権限・職務を総称する。1177年(治承1)新興寺の寺領四至内に国衙検断使の不入が認められ,86年(文治2)の太政官符に諸国地頭が不法に検断を行うことを禁ずるなどとある例が,文書資料上の早い用例と思われる。もと朝廷―国衙の法体系で生まれた概念であろう。…
【職】より
…下司職のような下位の職に補任された者は,上位者に対して,その職務を忠実に履行する義務は負うが,それは封建的従者となったことを意味せず,したがって上位者に対し軍役奉仕義務を賦課されることはなく,またその上位者とは別人と封建的主従関係を結ぶこともありえた。ただ鎌倉幕府の成立とともに新たに源頼朝の申請により設置が勅許され,頼朝が全国にわたるそれの補任権を一括して獲得した地頭職は,頼朝がその家人に対し,主従制を前提として宛て行うものであって,これは封建的知行の対象であった。その意味で,荘園公領制的職の秩序は,地頭職の設置によって大きく性格を変えたのである。…
【地主】より
… 地主職は,この例にも見られるようにその土地は相伝・譲与され,また開発領主あるいはその所領の相伝者が,地主としての立場において所領を貴族・大社寺など有勢のものに寄進する場合もあった。1184年(元暦1)5月の後白河院庁下文(案)によれば,越前国河和田荘はもと藤原周子の先祖相伝の私領であったが,待賢門院のはからいで法金剛院に寄進し,その際〈地頭預所職〉は周子が留保して子孫相伝することになったという由来が述べられている。いわゆる寄進地系荘園成立の一例であるが,文中に〈当御庄者,是当預所帯本公験,代々相伝之地主也〉と記され,領家への荘園寄進によってその[預所]となった本来の領主が,その後も依然として地主と呼ばれていたことが判明する(仁和寺文書)。…
【新補地頭】より
…鎌倉時代,新たに補任した[地頭]の意。初めは本領安堵の地頭に対して新恩の地頭を意味した。…
【知行】より
…さらに,本来在地のものがみずから開発した所領も,その権益を保全するために国司や権門に寄進して,寄進者(開発者ないしその子孫)が国衙や荘園の職(郡司職,郷司職,下司(げし)職,公文(くもん)職,等々)に補任される,という形をとることが一般化するにつれて,職=所領という観念はいっそう強化されるようになった。鎌倉幕府下の地頭職はおおむねこれらの後身で,やはりこれを知行する[地頭]の所領と観念された。補任権者(国司,領家,幕府)の側でも,〈相伝の所領たるによって,○○職に補任する〉という趣旨の補任状を発給してなんらあやしまなかったのである。…
【中世社会】より
…しかし平民自身の生活のなかでは,布,小袖,帷子(かたびら)などは,鍬,犂(すき),手斧(ちような),鉞(まさかり)や鍋,金輪などの鉄製品,弓や刀などの武器とともにたいせつな財産であった。平民の負担にはそのほかに,年中行事の費用,荘園・公領の支配者の代官や使などの饗応,三日厨(みつかくりや),その送迎の人夫,佃(つくだ)の耕作などの公事・夫役があったが,[地頭],[下司](げし)や[預所](あずかりどころ)などの領主,その代官も,農事の開始に当たっての種子や農料の下行,出挙米(すいこまい)や利銭の貸与,行事のさいの酒などの給付を当然のこととして行わなくてはならなかった。 これらの年貢・公事などは,平民にとって公への奉仕と意識されていた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」