( 1 )荘園ははじめ国家に対して税を負担したが、平安中期以後には国家の徴税権と警察力の行使を拒否する不輸不入の権を得た。このような荘園を自墾地系荘園と呼ぶことがある。
( 2 )一一世紀末以後には、地方豪族がその私有地を守るために名目的に中央の権勢者に寄進して本所・領家と仰ぎ不輸不入権を得て荘園化するものが多く、このような荘園を寄進系荘園と呼ぶ。
( 3 )平安中期以後中世を通じて、荘園の支配所有関係は領家職・預所職・作人職などの職(しき)権に分化し重層化した。鎌倉幕府成立以後に多くの荘園に設置された地頭職は幕府が任命権を持つ荘官の一種であったが、荘園領主と在地支配をめぐって対立し、地頭請所・下地中分などによって荘園内部に領有権を確立した。
( 4 )室町時代には領主の代官である土豪層が荘園を実質的に支配し、農民も村落結合を強めて領主側と対立するなど荘園制は次第に変質。戦国大名の領国経営、豊臣秀吉による統一政権の樹立と土地制度の改革によって消滅。
日本の荘園についての従来の研究は大きく二つの潮流に分かれる。
第1は荘園を私的大土地所有の形態とみて,その内部構造を究明しようとする流れで,近代史学史の主流をなし,中田薫,朝河貫一,牧健二らにより,西欧との比較を通して確立した見方である。ただ中田薫が荘園領主権を公法上の支配権とし,朝河貫一が荘園とマナーの相違を強調,牧健二が職(しき)の官職的・公法的側面に着目するなど,西欧の封建制との違いにそれぞれ注目していることは見のがせない。その後,竹内理三,今井林太郎らは活発な個別荘園研究を背景に,荘官・荘民,年貢・公事(くじ)の実態など,内部構造の解明を進めたが,土地公有制をとる律令制との対立の中で荘園をとらえる一方,地頭・守護などの武士に荘園を変質・崩壊させる力を見いだす点では共通した見方に立ち,荘園整理令や下地中分(したじちゆうぶん),半済(はんぜい)などもその観点から追究した。こうした蓄積に裏づけられて第2次大戦後,石母田正,永原慶二らはマルクス主義の立場から,荘園制を古代的な大土地所有の体系とし,在地領主によるその克服に中世封建制の成立をみる見方を定式化したのである。
これに対し第2の潮流は,荘園を公的な意味を持つ国制の一環としてとらえ,荘園の伝領関係に目を向け,国衙領に注目する見方で,水戸学,国学など江戸時代にその根を持つものから,逆に荘園を制度的な外被とみて,その枠にとらわれぬ庶民の生活を追究する方向まで含んでいる。天皇による国家的土地支配を崩壊させた荘園の〈弊害〉を探るため国衙領にも着目した栗田寛,清水正健,天皇家領の伝領を研究した八代国治は前者に属する。伝領関係とともに荘民の多面的な生活を解明しようとした中村直勝,牧野信之助,荘園を律令制以前の田荘(たどころ)と結びつけ荘園絵図や牧,倉庫,港湾にまで視野をひろげた西岡虎之助は後者に属する。その両者を結びつけたのが清水三男であった。清水は国衙領,守護制度の研究に力を注ぎ,民俗学,地理学などとの協力によって村落生活の実態を追究し,荘園を国制とみる観点を打ち出したが,それが天皇支配の積極的肯定につながっていった点も見のがすわけにはいかない。
第2次大戦後の10年間は第1の潮流が支配的であったが,1955年以後,それ自体の中に反省がおこるとともに,第2の潮流の再評価が進み,あらためて2潮流の弱点をそれぞれに克服,総合する道が模索された。現在では荘園=国衙領体制,荘園公領制などの用語も用いられ,諸学の協力の下に荘園・公領の実態を解明する努力が進められつつある。
荘は本来,本宅に対する別宅を意味し,倉庫などを含む建物をさす語で,律令制以前の田荘も家宅とそれに付属する田地であった。公地公民を原則とした律令制の下においても貴族の別宅,寺院の荘は交通の要衝など各所に設けられていた。8世紀に入ると,王臣貴族による山川藪沢の占取がしきりに禁制され,地方有力者の中にも開墾を進める動きが現れてくる。政府はこの動きにこたえつつ墾田に対する統制を強化すべく,723年(養老7)の三世一身法につづいて,743年(天平15)墾田永年私財法を発した。この法は位階に則した墾田制限額を定めているが,東大寺などの寺院には広大な墾田を認めており,寺院は造寺司,国司などの国家機関に依存しつつ各地に荘を設け,地方有力者の墾田を買得,さらに未墾地を占定して開墾を進めた。東大寺は越前国桑原荘,道守(ちもり)荘をはじめ,北陸を中心に多くの荘を設定,墾田を開いたが,その開墾は郡司などの地方有力者に依存しつつ周辺の農民を雇って進められ,開墾後は農民の賃租によって地子(じし)を徴収する方式で経営された。また天皇の命により,国衙が未墾地を開発した勅旨田を寺院に施入することも行われた。これが初期荘園であり,主として墾田を契機に成立しているので墾田地系荘園ともいわれる。
初期荘園は輸租(田租を国家に納める)を原則とし,その多くが低湿地に開かれ,分布も畿内周辺に限られていた。寺院の荘園の場合,しだいに寺院自体が経営に関与するようになり,なかには太政官から不輸租を認められた官省符荘もあったが,特定の荘民はなく,国家機構やその地域の有力者に依存するところが大であった。9世紀に入ると東国まで含む諸国に勅旨田が活発に設定され,大宰府も公営田(くえいでん)の方式を採用するが,その経営は初期荘園と共通するものがあった。私出挙(しすいこ)(出挙)や営田を通して富裕になった人々--〈富豪の輩〉(富豪層)はこうした経営を支え,貧窮の百姓の調庸を代納する一方,高位の貴族と結びついてみずからの私宅を荘家(しようけ)と称し,稲穀を蓄え,貴族の派遣する使,検校,専当,預(あずかり)などとともに営田,出挙を行い,しだいに国司に従わなくなった。こうして班田制を基本とする律令制の土地制度は大きな改革を余儀なくされることとなる。
902年(延喜2)藤原時平の名において行われた延喜の改革は,班田の励行とともに,最初の荘園整理令を発した。それは勅旨田を開くことを停止するとともに,さきのような富豪の輩の荘家を禁じ,その貴族との結びつきを断ち切ろうとするものであった。しかし班田はこれを最後にもはや行われず,まもなく政府は国守に検田,徴税,軍事等の権限を大幅にゆだね,朝廷・官司への納物,貴族・寺社の封戸(ふこ)納物等,一定額の貢進物を請け負わせるという,国制の大転換にふみ切った。この結果,基準とされた国図に載せられて固定した公田から,官物(かんもつ)や臨時雑役(ぞうやく)を徴収することになった国守は,富豪の輩や負担にたえうる有力な農業経営者たる田堵(たと)に国内の公田を請け負わせ,それを新たな徴税単位として収取を行うようになっていった。おのずとこの単位は国ごとに多様で,おおよそ畿内とその周辺を中心に西国では,東西南北の方位に分かれた郡や《和名抄》の郷(ごう)をはじめ院・条が見られ,その下に名(みよう)が広範に現れてくるのに対し,東国では方位に分かれた郡・条が基本で,名の単位は明瞭でない。これらの単位は当初は固定しておらず,請負人も流動していたが,みずから開発を進め,それを根拠に一定の地域を私領とするようになった武勇の輩すなわち開発(かいほつ)領主が,その地域を請け負う郡司,郷司,名主等の地位を世襲しはじめ,11世紀に入るころにはそれを職(しき)として確保するにいたって,状況はまた大きく変化しはじめる。
この間,国守は寺院などの荘園については基準国図に載せられた不輸租の免田のみを認め,それ以外の荘園の新開田からは官物を徴収する方式(免除領田制)でのぞんだので,9世紀以前の荘園はその発展を著しく制約され,多くは消滅していった。しかし,ともあれこうした本免田を確保した寺院は,それを根拠に11世紀以後,国守と抗争しながら荘の拡大に力を注いでいくが,一方,寺社や高位の貴族の封戸をはじめとする納物についても,国守がそれに相当する田地を免田,雑役免の形で国内の田地を指定し,荘とする方向が現れてくる。これが雑役免系荘園あるいは免田系荘園といわれる型の荘園で,当初は浮免(うきめん)であったものが,11世紀以降,しだいに特定の田地に固定化され,さらに新免田,加納などを加えるようになってくる。それとともに高位の貴族や寺社は有力な農民を,課役の免除された寄人(よりうど)として,荘民の確保につとめ,その出作地を本免田に加えようと試み,同様に商工民などを寄人,神人(じにん)として組織しはじめた。
免田認定の権限をもった国守は,こうした貴族・寺社の動きと衝突,抗争する一方で,摂関家など高位の貴族や大寺院とのつながりを求めて,さかんに免判を発し,荘園を寄進するものも多くなってきた。こうした免判は国守の交替とともに変転し,各地で荘園や寄人をめぐる紛争が続発するとともに,〈倒れるところに土をつかめ〉といわれたほどの収奪をする国守=受領(ずりよう)に対する郡司や百姓たちの上訴が頻々とおこり,東国では国内の郡・条を固めた武将が自立の姿勢を示すなど,騒然たる状況の中で11世紀中葉,政府は再び国制の改革を迫られることとなった。
ここにいたるまで,政府は延喜荘園整理令以後(〈格後(きやくご)〉)の荘園の停止をたびたび令してきたが,1045年(寛徳2)あらためて前国守の任中以後の新立荘園を停止した寛徳荘園整理令を発し,それ以前の荘園を公認,それとともに在庁官人の所領や領主の新たに開発した地を別名(べちみよう)として認め,公田への官物賦課の率法(官物率法)を定め,臨時雑役も整理する方向を進めた。こうして官物は年貢に,臨時雑役は公事になっていくが,さらに後三条天皇の延久の改革はその上に立って,積極的に新たな体制を打ち出そうと試みたのである。
1069年(延久1)に発せられた延久荘園整理令は,寛徳以後の荘園を停止しただけでなく,平民をほしいままに寄人としたり,出作りや加納などの形で公田を荘園にとり込むことを禁止し,浮免の状態にある免田を停止,その実施のために初めて記録荘園券契所を太政官に置き,荘園の支配者から証拠文書(券契)を提出させる一方,国守からも言い分を聞いて,証拠が不備であったり,国務に妨げとなる荘園や寄人の停止を推進した。これはそれまで国守にゆだねられてきた荘園・寄人の存廃の権限を,太政官の手中に収めた処置で,増大してきた荘園と公領との区分や寄人と平民の区別を明確にするとともに,その全体をあらためて天皇の支配下に置こうとする意図がここに明らかにされたのである。荘園の所在,領主,田畠の総数の注進という,のちの大田文(おおたぶみ)作成につながる作業を国司に命じ,畠地の検注まで行わせ,宣旨枡(せんじます)を定めたのもその具体化にほかならない。
この改革は一方で,供御人(くごにん)や御稲田(みいねだ),御厨(みくりや),御薗(みその)などを確定し,後院領に加えて勅旨田(後三条院勅旨田)を設定するなど天皇家経済の充実に力を注いだが,院政期に入り,法勝寺をはじめとする御願寺領をふくむ天皇家領が拡大するとともに,摂関家もこれに対抗して渡領(わたりりよう)(摂関家渡領),祈願寺領など荘園の確保・拡大につとめ,大寺社もまた独自な経済体系を確立すべく神人・寄人の組織化をふくめ荘園の拡充に力を注いだので,政治情勢は急激に流動化した。中下流の貴族・官人もこれら諸権門の荘園の預所(あずかりどころ)などの職を確保しようと動くが,こうした動向に呼応して,新たに権門と結びつこうとする諸国の領主たちは,みずからの世襲的に請け負う郡・条・郷等の私領を,受領などを媒介として権門に寄進する動きが全国的に拡大し,ここに寄進地系荘園が全面的に展開しはじめる。領主はそこでは下司(げし)となり,寄進を取り持った国守などの貴族は領家といわれ,天皇,院,摂関家などの権門はやがて本家とよばれた。
この動きと並行して,貴族・寺社が封戸を,官司がその納物を,それぞれ特定地域の田畠から徴収する便補保(びんぽのほ)も立てられ,同様に国内の寺社も保を確保し,さらに供御人,神人,寄人などの免田を中心に御厨,御薗などを設定することも行われた。一方,国衙の徴収物を院宮や高位の貴族のものとする院宮分国,公卿知行国の制もひろがり,受領の役割はしだいに低下し,国衙領も荘園の預所に相当する目代(もくだい)の下で,在庁名を足場とする在庁官人が荘官に当たる役割を果たす,荘園と同様の実質をもつようになってきた。
この間,白河・鳥羽院政期を通じて荘園整理令がしばしば発せられたが,そこで正式に認められた荘園は太政官の下す官使,国衙の国使,荘園側の使者の立会いの下で四至(しいし)・坪付を調査し,券文を作成し,官符・官牒により正式に荘号を認められ(立券荘号),不輸,さらに官使・国使等の不入(不輸不入)を認められたのである。とくに白河院,鳥羽院,後白河院は御願寺領などの天皇家領荘園については院庁下文によって荘号・不輸不入を認めており,これは〈三代御起請地〉といわれて最も強い特権をもったのである。
白河院,鳥羽院の院庁下文と後白河天皇宣旨を得た荘園を停止の例外とすることを規定した1156年(保元1)の保元新制は,全国が天皇の支配下にあることを強調,荘園の廃立は宣旨のみによることを明らかにし,荘園・公領の分野をかく乱する出作り・加納を停止した。あわせてこの新制は神人・悪僧の濫行を抑制し,神人交名(きようみよう)を注進させ,さらに寺社領荘園と仏神事用途の注進を命じている。これは荘園の年貢・公事と神人・寄人の奉仕によって年中行事を運営し,その経済体系を整えつつあった寺社の掌握を意図したもので,荘園公領制はここに確立に向かってさらに一歩前進した。
ただ,それを現地で支えた領主,在地の武士の地位はなお不安定であったが,平氏政権を経て,動乱を通じて鎌倉幕府が成立するに及んで,その立場ははじめて確固たるものとなった。東国の荘園・公領は郡司,郷司,下司を地頭とし,その任免権を掌握した幕府の保証によってはじめて維持されえた。しかし西国については後白河をはじめとする貴族・大寺社の抵抗により,平家没官領のみに地頭は限定され,後白河は1191年(建久2)に新制を発し,保元新制の規定をさらに細かく繰り返すとともに,一宮・二宮,国分寺の修造を強調,官司年預と国雑掌の紛争を抑制するなど,幕府に対抗して体制を固めることにつとめた。後院領・諸司領・供御人などの天皇直領と天皇家領や諸国の奉仕による宮廷行事の運営,渡領・家領・寄人に諸国の奉仕を加えた摂関家の経済体系をはじめ,荘園・公領に基礎をおく貴族・寺社の経済も,ほぼ軌道にのるが,一方の幕府も建久年間に西国の御家人交名を注進させ,九州の大田文を作成するなど,着々とその体制を整えていった。そして後鳥羽上皇の挑んだ戦い,承久の乱に勝利した幕府は,西国の荘園・公領に新補された地頭の権限,得分の率法を定め,諸国の大田文を調進させて荘園・公領の実情,領主の実態を掌握,守護・地頭に対する領家や平民百姓の反発に対応し,荘園・公領における領家・国司と地頭・守護の分野を確定することにつとめた。これによって,荘園・公領の区分,荘・郷・保・名などの単位はほぼ確定し,大田文の田数(公田)も固定化,荘園公領制はここに確立したのである。
確立した荘園公領制は10世紀以降の徴税単位の多様な地域性を継承しており,おのずと国によって個性的であったが,概して東国や九州中南部では郡がそのまま荘に転化することもしばしばあり,広大な荘園が多い。これに対して西国,北九州の荘園は全体として小規模で,畿内とその周辺では諸荘の田畠が錯綜し,景観的なまとまりをもたぬ荘園も少なくない。
平安末期から鎌倉前期の荘園公領制の確立過程で,荘園支配者にも交替はあったが,そのつど行われた検注により,個々の荘園の体制も確立していった。西国の場合,荘園の田地は田代・年荒・常荒等の荒田(こうでん)と,見作田(げんさくでん)に区分され,見作田から損田・川成(かわなり)・不作が差し引かれた上で,除田(じよでん)と定田(じようでん)に分けられる。年貢・公事の免除された除田は,荘内の神田・寺田,地頭・預所・下司・公文・田所・惣追捕使等の荘官,鍛冶・番匠等の職人の給免田(人給)からなり,定田(公田ともいわれる)はその主要部分が,しばしば均等な面積をもつ百姓名(平民名,土名)に結(ゆ)われ,おもだった平民百姓たちがそれを請け負って年貢・公事負担の責任を負った。これとは別に領主名といわれ,公事を免除された多少規模の大きい荘官名,名に結われず年貢のみ賦課される一色田・余田・間田等があり,荘園支配者の直属地として,毎年預所等によって小百姓に割り当てられた(散田)。田地は年貢の賦課基準であり,反別に斗代(とだい)が定まっていたが,年貢は米のみであったのではなく,交易によって絹,糸,鉄などが年貢となることも広くみられた。
畠地は全体として検注が遅れているが,麦・豆類の畠は田地と同様に区分され,畠地子(はたじし)が賦課された。ただ伊予国弓削島荘のように交易畠があり,麦と塩を交易して塩年貢を出している場合もある。桑,漆は本数を検注され桑代などが賦課された。焼畑は検注から除かれたとみられるが,しだいに山畠として定畠に組み入れられていく。また林,塩浜などが検注されることもあるが,この場合も負担は地子であった。
これに加えて平民百姓の家屋が在家として検注され,それによって本在家の宇数が確定すると,新たに増加した小百姓などの在家は脇在家とされた。年中行事等のための雑物奉仕を主とする公事,佃(つくだ)の耕作,京上夫などの夫役は元来本在家に在家役として賦課されたが,本在家に田畠が付されて百姓名が結われると,名が公事・夫役の負担単位となった。
東国の場合も郷の中に平民百姓名が結われることもあったが,それは例外的で,大部分の広大な荘園は多くの郷に分かれ,名には結われていない。年貢は郷の田地に,公事等は在家に賦課され,人給田等も荘政所(しようまんどころ)の近辺にわずかにみられるにすぎない。公領においてもこうした地域差は同様であったが,鎌倉前期までの国検で確定した大田文,畠文,在家帳などが基本的な台帳として国衙に保持され,とくに大田文に載せられた荘,郷,保,名の田地は公田といわれ,一国的な賦課の基準となった。新たに検注によって勘出された出田や新田,新々田は西国ではふつう百姓名に付されたが,東国では源頼朝が地頭たちに荒野の開発を命じたとき新田の得分・下地は地頭の進止(しんし)と定めたとされ,しばしば村といわれた新田は地頭の支配下に入り,地頭は西国でもこの権限を行使しようとして紛争をおこしている。
荘園経営の出発点はこうした検注であり,荘務権をもつ本所・領家は,毎年春,勧農のために預所,代官を荘に遣わし,現地の荘官とともに田畠を百姓に割り当て,種子,農料を下して(出挙),できるだけ満作させるようにつとめた。そして秋にも同様に現地において年貢,地子などを収納したのである。西国の寺社・貴族の荘園は荘務権を持つ本所・領家が預所職を補任,預所が下司・公文等の荘官職を,鎌倉後期以降は百姓名の名主職を補任して荘園経営の体制を整えた。これらの職に補任された人は一定の得分を保証され,それぞれの職務を請け負ったので,この体制を〈職の体系〉とよんでいる。その中で幕府が補任権をもつ地頭は給田畠,給名のほかに荘の田地の加地子を加徴米として徴収,雑事を在家に賦課したほか,山野河海の得分の半分を保証され,預所とともに年貢・公事徴収や荘内の検断に当たり,検断得分の3分の1を与えられるなどの権限をもっていた。しかし年貢・公事・夫役の基本的部分は本所・領家の手中に入り,そのうちの一部が初穂の意味を持つ上分(じようぶん)として本家に納められる場合もあったのである。
これに対し東国の荘園は,多くの場合地頭が荘務を請け負い,荘内の諸郷に一族を配置して荘務のすべてを行っており,本所・領家は地頭に依存して年貢を請け取るのみにとどまった。これは〈職の体系〉とはいいがたく,東国と西国の異質さはこのような点によく現れている。もとよりそれは公領の場合も同じであった。
13世紀後半以降,荘園公領制は動揺の中で新たな展開をみせる。西国では地頭がその権限をこえて公事・夫役を平民百姓に賦課するなどの圧迫を加え,百姓を下人とすることによってみずからの支配を拡大しようとし,逃散(ちようさん)による抵抗や領家を通じての訴訟などによってこの非法を排除しようとする平民百姓との間に激しい紛争がいたるところでおこった。またこれにかこつけた平民百姓の損免要求,年貢未進等に起因する預所と領家,領家と本家との矛盾対立も顕在化してくる。こうした領家と地頭の相論について,幕府はそれぞれの得分に応じて下地を分割(折半のときは下地中分)することによって紛争の解決をはかり,その結果,得分と下地とを一円的に支配する地頭一円地(地頭方),本所領家一円地(領家方)が成立してくる。地頭請の場合も領家は年貢得分に応じた下地の割取を求め,一円領を確保しようとし,荘園支配者間の対立についても同じ方式で解決が行われ,本家分,領家分,人給分などそれぞれの一円領が形成されていった。
モンゴル襲来を契機に幕府は本所領家一円地の住人まで軍役に動員,悪党追捕についても守護入部を強行し,役夫工米(やくぶくまい)など一国平均役の徴収に守護を通じて関与するなど,各種の一円領を全体として支配する方向を進めた。鎌倉幕府滅亡後の建武新政で,後醍醐天皇は地頭支配下の田地の年貢の20分の1を徴収,これをさらに徹底しようとするが失敗,南北朝動乱の中で一円領化はさらに進行するが,本所一円地の荘官も戦乱にまきこまれ,その闕所(けつしよ)地を通して守護被官の力が荘内に浸透し,さらに半済によって半済給人が入部するなど,本所領は大きく侵害されるにいたった。これに対する寺社本所側の反発にも対応して,室町幕府は1368年(正平23・応安1)いわゆる応安半済令(応安の大法)を発し,天皇や院の料所,摂関家領,寺社一円の仏神領については半済を停止,とくに仏神領の保護を明確にするとともに,一般の本所領や人給領については半済を下地まで及ぼして(半済方)一円化をさらに徹底させ,地頭職など武家領に対しては守護を通じて軍役を賦課する体制を整えた。これによって天皇家・摂関家領および寺社領(仏神領),一般公家領,武家領の区分が一応安定したが,東国についてはごく一部が西国の荘園と相博(そうはく)されたにとどまり,動乱の終わるころには上分のみの伊勢神宮領などがわずかにみられるのみで,鎌倉や東国諸国の有力な寺社領と武家一円領で占められるようになった。しかし大田文に載せられた公田数を基準に,これらの一円領に一国平均の段銭を賦課,守護を通じて徴収させる室町幕府の体制はともあれここに軌道にのったのである。
一円領が形成されるころから,年貢を収取するその支配者は共通して公方(くぼう)とよばれるようになり,公方は荘務を掌握する預所に当たる所務職を補任,所務職保持者は現地での実務,地頭・守護との訴訟,交渉をその代官に請け負わせた。武家領でもすでに得宗(とくそう)領,北条氏所領は給主に与えられ,給主代が現地の政所で実務を行う体制がみられたが,それは足利氏所領から室町幕府,鎌倉公方の御料所にうけつがれ,御料所はその奉公衆に預け置かれたのである。
13世紀後半以降,流通経済の一層の発展とともに,年貢物を現地の市で銭にかえ,公事・夫役を銭に換算する代銭納がひろがり,年貢・公事・夫役の区別なく一括して荘園支配者に送進し,また代官が一定額の銭で荘を請け負うこともさかんに行われ,室町期には荘園・公領の単位を〈土貢何貫文の地〉のように貫文でとらえる貫文制の萌芽もみられた。こうした状況の中で,鎌倉後期にも山僧・借上を代官として年貢銭を前納させること(来納)が行われたが,南北朝期にかけて,土倉,商人,山伏,富裕な武士や僧侶などが請負代官として活動している。また守護との訴訟を有利にし,逆にその関係を円滑にするために国人や守護被官が代官となる場合もあり,守護請の形になることも多かった。室町期に入ると禅宗寺院が幕府と結びついて多くの所領を保持するようになるが,その経営に当たった荘主(しようす)とよばれる禅僧はすぐれた経営者,請負代官として広く各地の荘園を請け負って富を積んでいる。荘園支配者はこれらの人々を代官職に補任するさい,酒肴料(しゆこうりよう),補任料をとり,来納の名目で年貢銭を前借することもふつうに行われた。代官は職人ともいわれた公文,田所,惣追捕使(しばしば三職とよばれる)などの下級荘官とともに,出挙利銭を百姓に貸しつけて耕作を円滑にさせ,徴収した年貢を市場で和市(わし)によって売却,銭などで送進し,現地の守護代との交渉に必要な一献料,礼銭等の諸費用を支出,毎年の収支決算書(散用状)を作って荘園支配者側の監査を受けた。
しかしこうした請負代官は恣意的な雑事を百姓に課し,利銭をきびしく取り立てるなど収奪を強行することが多く,鎌倉後期以降,これを糾弾する平民百姓たちが下級荘官までまきこんで一揆・逃散し,その罷免を要求して強訴したり,損免を要求して一歩も引かぬ姿勢を示すこともしばしばおこった。年貢・公事が公平(くびよう)とよばれるようになるのもこのころのことである。東国や九州にもそれは確認できるが,とくに畿内周辺を中心とする西国ではこうした動きが顕著で,その中で名主たちを中心に荘内の寺社を精神的支柱とする惣荘(そうしよう),惣郷,惣百姓などの自治的な村落組織が姿を現してくる(惣)。老若の組織を持ち,番頭などの地位を持つおとな(老,乙名)に指導されるこうした自治的な村落は,年貢未進を立て替え,共同の仏神事,用水・山林等の管理を行い,代官の下で百姓請(地下請)の形で年貢を請け負ったが,一揆・逃散を繰り返すうちにしだいにその力を強め,室町期には未進年貢と借銭借米の破棄を要求する徳政一揆の基盤となっていった。
一方,この間にも荘園支配者による検注は行われ,新田・隠田の掌握の努力も放棄されたわけではなかったが,年貢・公事は早くから固定化する方向にあり,名主が地主(じしゆ)として加地子を収取することも鎌倉期からみられた。個々の田畠の名主職に付随するこうした加地子得分(片子(かたこ)ともいう)の売買もさかんに行われ,名主の下での耕作者,作人も加地子の一部を取るようになると,作人職,作職(さくしき)も現れてくる。こうした売買を通じて,室町期から戦国期にかけて,下級の荘官(小領主と規定される),上層名主,在地の寺庵などが加地子得分権を集積し,さきの村落の中心的な立場に立ち,村法を定め,独自に地下検断を行うようにもなってきたのである。
15世紀中葉になると,戦乱,土一揆(つちいつき)の中で,守護役,守護段銭の賦課など,守護の荘園に対する干渉,圧迫はしだいにきびしさを増し,この間に惣百姓が請負代官を排除して荘園支配者の直務を求める動きも畿内近辺の一部にみられたが,やがて東国でも動乱の中で寺社領の衰亡が顕著になり,西国でも応仁の乱とともに守護や国人たちによる押領(おうりよう),荘園の不知行化は一挙に増大,戦国の動乱の渦中で荘園公領制は崩壊期に突入する。
応仁の乱後,畿内近辺の本所領,寺社領は一応回復され,16世紀にもなお九条政基がみずから和泉国日根荘に下ったような直務の試みもみられたが,大部分の荘園は守護大名や有力な国人,戦国大名の保証,請負によってわずかにその生命を保つにとどまり,京都近郊の荘園が多少とも実質のある支配を行いうるのみとなっていった。しかし荘,郷,保,名などの単位は一応機能しつづけ,荘園・公領の年貢・諸公事物も一括して公方年貢(上米)などとよばれ,個々の田畠に則してなおその形を保っており,名主職,作職も依然として売買の対象となっているが,自治的な惣百姓,惣村と正面から対決しはじめた戦国大名が公方年貢に加地子,段銭を加えて新たな年貢の収取体系を創出すべく,本格的な検地を推進するにいたって,荘園公領制の命脈はほとんどつき,豊臣秀吉の太閤検地,石高制に基づく寺社・公家の知行地の確定によって,完全に息の根をとめられた。ただ長い間,百姓の自治組織の単位となった荘,保などの地域は各地に地名としてそのなごりをとどめている。
執筆者:網野 善彦
中国では土地制度と関係した荘,あるいは荘園という言葉は,5,6世紀から使われ,唐になって一般化した。さらに某々荘と荘の字をつけた地名は宋代に至ると著しく増加する。これらを拠所にして,唐から宋代を中国における荘園制の発達期と考え,荘園制は土地国有の均田制(均田法)崩壊のあとを継ぐものであり,同時に荘園の直接生産者を農奴とする見解がある程度有力である。しかし,この見解には強い反対意見もある。社会経済史的意味での荘園制は,荘の字は使わなくても後漢以後広範に存在し,南北朝,隋・唐の支配階級の経済的基盤となり,唐・宋の変革期の間に消滅していった。宋以後の土地所有制は,荘の字がいかに多く使われても,ヨーロッパのマナーや日本の荘園制とは同一平面で論じられぬというのがそれである。
王室や有力者が郊外に園囿(えんゆう)を別荘として所有し,広大な庭園,田地,娯楽設備を併置した例は漢代から知られる。また南朝の江南貴族も,謝霊運の始寧墅(しねいしよ)や孔霊符の永興墅のように広い別荘をもった。後者は周回33里(約14km),水陸地265頃(けい)で二つの山を含むといわれる。この時代はこうした土地には別墅,墅,山居,別業の字が使われた。唐になると画題としても有名な王維の輞川(もうせん)荘(陝西藍田(らんでん)),李徳裕(りとくゆう)の平泉荘(洛陽の南),中条山王官谷の司空図(しくうと)の荘のように周囲十数里,山川とかなりの田地を含む荘園の具体例も知られるようになる。唐の貴族,官僚,寺院などが社会経済史的意味での荘園を所有し,そこには主人の家屋=荘院,耕作者の住居=客坊や碾磑(てんがい)(水車)などの設備が設けられ,荘吏,監荘とよぶ監理者がいて農業経営を行っていたと考えられる。
荘園制をかりに一領主による一円的大土地所有,主たる耕作者が農奴,彼らに対する経済外強制,そして全体としての封鎖自給制といった条件からみると,中国では後漢の南陽(河南省)の樊(はん)氏の例から,宋初の汜水(しすい)(河南省)の李誠の荘に至る間,つまり3世紀後半から10世紀までの土地所有形態こそそれにふさわしいとする学者も少なくない。宋代にはたしかに荘のつく言葉が激増する。しかし荘田,荘園といえば田地,荘民といえば農民を指すほうが普通であり,田地が荘名でよばれるのは,官府の田籍に登記される土地名にそれが使われていたためにすぎず,場合によっては都市城内におかれた年貢徴収所あるいは米倉にも某々荘の名が冠せられている。要するに荘の字の普及は城居地主制の普遍化になっても,土地所有制としての荘園制の普及と直接には結びつかぬというのが一説である。
学説の相違は直接生産者=農民の性格規定ともつながる。宋代に荘園制が普遍化したという説では,荘客,地客,客戸などとよばれる佃戸(でんこ)と,家内奴隷や佃僕といわれる奴隷に近い者,雇用人が直接生産者であり,南北朝から唐の中ごろまでは奴隷が重要な生産者であったが,宋になると佃戸がその位置を占めるようになったとする。佃戸は地主から田地,家屋,農具,牛,穀種などを借りる。小作料には定額租と分益租があって,一般に収穫の5割から6割であったが,牛などの生産手段の借用,飢饉などのときの食糧の借入れの利息つき返済などで,佃戸の生活は地主に依存する度合が強く,社会的にも〈主僕の分〉という言葉であらわされるように隷属関係が生じ,佃戸の中には移転の自由のないものも多かったという説が展開される。
これに対して,唐までを荘園制の時代とする説では,漢代以後の僮僕,家僮,客,荘客,田客など,唐律で部曲,客女と総称される半賤民がいわゆる農奴で,荘園の直接生産者であると考える。そして宋以後の佃戸は,現実には地主とのさまざまな関係の中で,法制や社会的に多少の差等はつけられても,基本的には土地を媒介に契約によって地主と結びついた自由人であるとみなす。広大な中国のことであるから,場所によってはずっと後世まで古い荘園制の残存することは当然だが,江南などの経済的先進地では,近世的な地主・小作関係が宋代に成立していたというのがこの説の特徴である。そして,湖水を埋め立てたり河床を囲いこんだりした圩田(うでん),湖田,囲田などの新開発田を除くと,先進地の田地の一区画は著しく細分化されており,大土地所有の実態は,数多いしかも場所を異にした地段の寄せ集めにすぎず,一佃戸が数人の地主の土地を小作することも珍しくないと考える。そこには地主と小作人の支配被支配の関係よりも小作料だけを問題とする純経済関係が優越し,大土地所有は普遍的でも荘園制とはよびえないということになる。したがって某々荘という地名の増加も,荘園制の普及のメルクマールとしてよりも,それが解体した結果であると解釈される。
以上のように,大きく分けた二つの日本における中国荘園制の解釈の差は,同時に中国史全体の理解ともかかわっている。宋代荘園発達説は,唐の均田制を土地国有にもとづく中国的な奴隷制とでもよぶべき範疇でとらえ,その崩壊の結果生まれた新しい地主・佃戸制の具体的な姿が荘園制であるとする。唐以前荘園説では,3世紀の魏の曹操による屯田制,それに続く西晋の課田制,北魏から隋・唐の均田制を,いずれも国家,主権者としての皇帝の経営する荘園制とみなす。そして貴族,豪族などの私的荘園の併存を認め,西晋の占田制(占田法)から均田制のもとでの永業田の枠の中で,私的荘園制が展開していったと考える。したがって当然,均田制の崩壊と荘園制の崩壊は同じ次元のできごとに属し,宋以後の地主・佃戸制は,農奴制から次の段階への移行ということになる。
なお王室に直属する荘園は,唐代ではとくに内荘宅使という官を置いて管理していた。宋代にはそうしたものは姿を消したが,明・清時代になると諸王や勲戚の荘田や皇荘が再び現れる。とくに皇荘は北直隷に集中し,清代になると盛京,山西,直隷などに内務府官荘が多く設けられた。官荘は生産性や作物の種類で差等がつき,永小作権をもつ荘頭が,直接耕作者である壮丁から租米を徴収し,中間利潤をとる形式で経営された。
執筆者:梅原 郁
ヨーロッパ中世の農村における領主による在地的支配の場はマナー(イギリス),セニュリseigneurie,ドメンdomaine(フランス),グルントヘルシャフト(ドイツ)などとよばれ,日本では荘園(ないし所領)と訳される。しかし領主的支配そのものが,領民の人身そのものを把握する場合,土地所有の独占による場合,裁判権を槓杆(こうかん)として領域性を強く示す場合など,きわめて多様であるため,荘園の内容と範囲のとらえ方も一様ではない。しかし,一定の土地(必ずしも一円的なまとまりではない)を所有する領主が,そこに居住し,それを耕作する農民を支配する場合が荘園制とされることが多く,したがって,領主的支配一般を指す領主制よりは具体的な概念である。
荘園は,土地と人間に対する支配の場であるが,その内部は複層的な構成となっている。拠点をなす領主屋敷には多くの非自由人がいて,領主家計で使役され,一部は荘園の管理役人として登用されている。ここでは領主支配は最も濃密で,人身への強い処分権となっている。荘園で耕作に従事し,賦役(ふえき)や賦課租の形で搾取を受ける農民は,領主の人身的支配を受けるところからしばしば農奴とよばれたが,農民は領主から保有する土地に対し強い権利をもっており,荘園の範囲で共同体を形成して自治的な組織を確保している。したがってこれらに対する支配は時には過酷な形をとることはありえても,自律的な生活基盤を容認することを原則とする。さらに,領主とのきずなが弱く,自由人とされることの多いさまざまな住民もいて,荘園の周辺部を形づくっている。
家父長的性格をもつ領主的支配は,こうして,多様な階層に根拠と強度を異にして及ぼされていて,領民団体を示すファミリアfamilia(家)の語も,広狭さまざまな範囲を指しえた。同時に領主は,荘園をなるたけまとまりのある生活領域として,そこに平和と秩序を維持する役割をも果たしており,搾取を伴う支配は同時に住民の保護として,領主と領民の関係に双務的性格を与えていた。
荘園制の果たした役割は,商工業,都市,自由など中世の社会経済史の重要な諸問題と密接な関連をもっている。19世紀後半の古典的学説では,中世初期に農村住民全体を強く支配していた自給自足的な荘園が,中世盛期における商工業と都市の発達の影響下に力を弱め,中世末期には解体するという図式を提示したが,これは現在では,あらゆる点で批判され,とくに中世を通じて荘園の内外に自由人が存在しており,荘園自体が商業に開かれ,貨幣経済を内包していることが明らかにされて,荘園の意義は大きく相対化された。現在では,中世の社会・経済の絶えざる変動の中で荘園をとらえようとする研究傾向が強いが,その中で,当初は人身的支配の性格が強かった荘園制が,しだいに土地を媒介する支配に重点を移すとともに,領域的性格を強め,やがて,中世末期には農民層の上昇によって解体しながらも,領主層の世代の交替によって近世の地主制に続いていくという荘園の歴史的変遷が指摘されるとともに,中世初期にロアール・ライン間地域に成立した後,ヨーロッパ一円に広がっていくという荘園の地理的普及が明らかにされている。
→地主 →領主制
執筆者:森本 芳樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
西洋および日本では8世紀ごろから、中国では漢代(紀元前後)から行われた私的大土地所有のことで、所有者がなんらかの特権をもっていた。西洋ではイギリスのマナー、ドイツのグルントヘルシャフトが、普通、荘園と訳される。
[橡川一朗]
起源は、共和政後期(ほぼ紀元前3世紀以後)のローマで、元老院議員など有力者が別荘(ビラvilla)の周辺に農園をもち、これを奴隷に耕作させたことに始まり、中世でも荘園はラテン語でウィラとよばれた。ローマ共和政末期・帝政初期(紀元前後)には、有力者が広大な土地を獲得し、その一部を細分して多数の農民に賃貸し始めた。かかる賃貸地もビラとよばれ、しだいに増大した。しかも賃借農民(小作農)に対する大土地所有者の圧力が増し、小作農をコロヌス(半自由農)の地位に落とすに至った。西ローマ帝国滅亡(紀元後5世紀)の前後から、帝国領を占領したゲルマン諸族の王や将軍も、ローマ人の土地の一部を没収した結果、その大土地所有を継承した。
その間、大土地所有者は免税特権(インムニテートImmunität)を得、フランク王国時代(8世紀ごろ)には小作農に対する裁判権、行政権を得た。この二大特権すなわち不輸不入権(広義のインムニテート)によって荘園制度は確立され、国王、貴族および各地の大教会、修道院は、荘園領主として、それぞれ支配権を行使し、荘園は独立した政治体として小国家の観を呈するに至った。
荘園は、時代によって支配・経営の形態に差を生じ、その差異によって古典荘園および地代荘園に分けられる。
[橡川一朗]
古典荘園は、フランスではほぼ10世紀まで、ドイツでは12世紀ごろまで優勢な形態とみられ、領主直営地と農民保有地および共同地からなっていた。直営地はさらに領主屋敷地と直営農場からなり、屋敷地には領主自身もしくは荘官の住居兼管理事務所や倉庫があった。直営農場は、9世紀のパリのサン・ジェルマン修道院土地台帳(ゲラールB. Guérard編、1844)では、24荘園のうち22荘園までが備え、荘園ごとに平均約230ヘクタールに及んだ。その大部分は麦畑で、ほかにブドウ園、採草畑があった。農民保有地(永代小作地)は、多くはフーフェHufe(ドイツ語、フランス語ではマンスmanse)を単位とし、1フーフェは10~15ヘクタール程度の麦畑を主として、農民屋敷地・ブドウ畑などからなった。前記サン・ジェルマン修道院土地台帳では、各荘園に平均約60フーフェずつの農民保有地が属し、1戸の農家が1フーフェを保有する事例と、2~3戸で1フーフェを共同保有する事例とが、ほぼ相なかばしている。これら保有農の屋敷地は、多くは荘園ごとに1ないし数村落にまとまっていたが、ときには1荘園に属する農民が少数ずつ諸村落に分散して住み、したがって荘園が独立の政治体となりえない場合もあった。なお、ドイツの古典荘園は1村落を包摂しない事例が多く、11世紀のウォルムス司教領荘民団規則(グリムJ. Grimm編『村法類』Weistümer,1840~78)などによれば、荘園外の自由農民がかなり残存していた。これは、ドイツの荘園が、フランク王国時代を通じて、自由農民が領主の保護を求めて荘園に所属することにより、少しずつ拡大したためと思われる。
地代は、穀物、ぶどう酒、家畜や貨幣など広義の生産物地代と賦役(労働地代)とからなっていた。通説では、古典荘園の特徴は賦役による直営地経営にあった、と説明されるが、ドプシュらの有力な反対説もある。前記サン・ジェルマン修道院土地台帳によって検証すると、1フーフェ当り週2~3日またはそれに相当する賦役を農民から徴収したのは、24荘園中の10荘で、他の14荘は生産物地代を主とし、その生産量に対する比率(地代率)は10%前後とみなされる。
領主裁判権は、農民保有地の相続、売買などに関する民事裁判権のほか、犯罪に関する刑事裁判権を含み、国王から不輸不入権を得た大領主は、重罪裁判権を含む最高裁判権Hochgerichtsbarkeitをもっていた。なお修道院など教会領主は、しばしばその裁判権を俗人大領主に委託し、委託された俗人領主はドイツ語でフォークトVogt(ラテン語ではアドウォカートゥスadvocatus)とよばれた。
古典荘園時代の社会構成については、これを封建制(農奴制)の典型と考え、荘園領主は封建領主、荘園農民は農奴、とみるのが通説である。そのおもな根拠は、荘園農民が普通1フーフェ当り週3日という過重な賦役義務を負ったから、とされる。しかし、かかる賦役義務がかならずしも一般的ではなかったことが判明し、通説への批判が生まれた。とくにドランジェルは、賦役量が少なくてしかも広い直営地をもつ荘園の存在に着目し、このような直営地の経営はおもに奴隷の使役によったと考えた。彼の学説は、フランスの歴史学界では承認されているが、他の諸国ではほとんど無視されたままである。他方ブロックは、当時の農民家族を大家族と考え、古典荘園社会を家父長制的な前封建社会とみた。これに対してドランジェルは、農民の奴隷所有を示唆したが、それを確証するのは前記ウォルムス司教領荘民団規則第2条である。すなわち、そこでは農民保有地の単位フーフェは「土地と奴隷たち」と言い換えられており、標準的農民たるフーフェ保有農が奴隷所有者であり一種の富農だったことは、疑いの余地がない。したがって1フーフェ当り週3日という一見過重な賦役は、実は奴隷を含めて数人に及ぶ家内労働力のなかから半人分を提供するだけの、比較的軽微な負担にすぎなかったこととなる。
かように新しい研究を参考にして史料を精読すれば、古典荘園の農民を農奴とする通説は、かなり疑わしく、古典荘園社会を奴隷制社会とみることも可能である。すなわち、当時の領主と農民とが、奴隷支配者として同一の階級をなしたと考え、領主はいちおう裁判権をもちながら、農民を支配する立場にはなく、保護者の地位に甘んじたと考えることもできる。そこで、たとえば前記ウォルムス司教領荘民団規則第30条をみると、領主ウォルムス司教は、殺人事犯を裁判する能力を欠き、事件の結末は農民間の仇討(あだうち)にゆだねており、領主としてはせいぜい仇討の交戦を事前に調停する機能を認められていたにすぎない。
[橡川一朗]
地代荘園は、ブロックによれば、フランスではほぼ11世紀から18世紀に至るまで広く存在し、その特色は、生産物地代の優位、したがって直営地の消滅にあった。荘園農民は普通2~3ヘクタール(ほぼ4分の1フーフェ)を保有し、小家族の家族労働力をもってこれを耕作した。これらの農民は、当時の法律用語ではビランvilain(荘民)、俗称ではセルフserf(農奴)とよばれ、生産物の30%以上に及ぶ高率の地代を領主に支払った。かように地代荘園時代の農民は、典型的な小農民であり、古典荘園時代の富農的なフーフェ保有農民に比べて、領主への隷属性が強く、明らかに封建農民すなわち農奴とみなされる。また荘園領主は農民に対して民事、刑事両面の裁判権を行使し、それを利用して地代の増徴を図った。11~12世紀の恣意(しい)地代(恣意タイユ)taille à plaisirという高率地代がその表れである。
これに対して農民の抵抗が激化し、その結果、恣意地代は若干軽減されるとともに定額化された。他方、12世紀ごろから人頭税シュバージュchevageとよばれる少額の貨幣地代が農民に課せられたが、13世紀には農民の抵抗と大領主の農民懐柔策とによって廃棄された。14世紀には百年戦争による地代増徴に対して大農民反乱「ジャクリーの乱」が起こり、反乱そのものは鎮圧されたが、以後、農民の地位はしだいに改善された。その結果、18世紀にはラブルールlaboureurとよばれた中農以上の農民は、事実上の土地所有者(自作農)となり、なかには大借地農として農業資本家に上昇する者も現れた。1789年これらの農民はフランス革命に参加し、封建領主を追放し、荘園を解体して、真の自由農民となった。
ドイツの地代荘園時代はほぼ13世紀以降とされる。その下限は、市民革命としての三月革命(1848)が失敗に終わったため明確でないが、いちおう19世紀と考えてよい。古典荘園との違いは顕著ではないが、全体として賦役がやや減少した点と、荘園の範囲が広がって、残存自由農民を包摂した点は、特色といってよい。荘園農民の中核は、依然1フーフェもしくは半フーフェ以上を保有する富農であったが、ただ西南ドイツでは12~17世紀の間に、フランス地代荘園農民に類似の小農民が大部分を占めるに至った。すなわち、ドイツ地代荘園時代の社会構成は、西南ドイツでは徐々に農奴制社会に移行したといえるが、北部および南東部では、古典荘園時代と同様、農奴制社会とは断定しがたく、むしろ奴隷制の要素が多かった。すなわち、後者の諸地方では、前記『村法類』などをみると、富農は大家族の家長として、弟妹や次三男を支配し、さらに下人(げにん)Gesinde(下男、下女)を使役した。しかも農家の下人は法律用語で奴隷mancipiaとよばれ(グリム編『村法類』第3巻、1348年のメッペン領民規則第1条・第5条)、家長は下人に対して手討ち(私死刑)を含む懲罰権を行使した(『オーストリア村法類』Österreichische Weistümer第13巻、16世紀のシュタイル荘民法第7条)。このような農村の家父長的奴隷制が解体されたのは、19世紀後半の産業革命によって、農家の次三男や下人が工場に吸収されたためである。
なおドイツ人がスラブ人を征服して成立した東北ドイツ植民地では、16世紀ごろから古典荘園の再版といわれる賦役制荘園グーツヘルシャフトGutsherrschaftが成立した。そこでも領主直営地における大量の下人使用が認められ、下人は、主人の私的懲罰権に服するなど、奴隷的性格を帯びていた。グーツヘルシャフトは19世紀前半のプロイセン農業改革によって解体されたが、旧領主の下人使用はその後のユンカー農場に継承されて、第二次世界大戦後の大改革まで続いた。
イギリスでは11世紀までに古典荘園型の賦役制荘園が形成され、南東部には14世紀まで存続した。しかし全国的にみると、13世紀ごろから貨幣地代を主とする典型的な地代荘園が成立し、さらに15世紀末ごろから農奴は事実上の自由農民ヨーマンyeomanとなって、荘園は急速に解体した。他のヨーロッパ諸国でも中世以降19世紀まで、荘園は広く存在した。
[橡川一朗]
中国で荘園にあたるものは、墅(しょ)、別墅、田墅、山墅、村墅、園、園墅、別業(べつぎょう)、荘、荘子、荘田、荘園などとよばれ、王公、貴人、百官、富豪など前近代封建社会の大土地所有者が所有地の経営のために設けた家屋建造物、もしくは家屋建造物とこれに付属する田地とを一般的にさし、不輸不入の特権をもつ特殊な経済的組織体を意味するものではなかった。家屋建造物は、農耕の督察と田租の取り立てを行うための施設で、土塀(どべい)で囲み門楼を設けた屋敷内に、荘園主もしくはその代理人の住む荘屋、田租を収納する倉廩(そうりん)、耕牛、農器具、車両を置く舎屋、常時荘内にあって雑役に従う僮僕(どうぼく)を住まわせる客屋などが置かれていた。荘園が未開地を開発して置かれる場合には、このほかに、耕作者を集住させる屋舎がつくられていた。墅、荘、荘墅、荘子、荘院は、本来、郷村(ごうそん)に置かれたこれらの管理施設をさして用いられた呼称で、荘園主は荘園所在地の地名や縁起のよい美名を選んで某々荘と名づけていた。土地は、蔬菜(そさい)・果樹を植える園圃(えんぽ)、穀物をつくる田地、農器具の製造補修に必要な竹木や柴薪(さいしん)建築物料などをとる竹園山林があった。荘園は、本来の形態をいえば、中心部に荘院園圃があって周辺に田地山林が広がるものであったと考えられる。
[草野 靖]
このような荘園がいつごろどのようにして発生したか明らかでない。前漢末(前1世紀ころ)にはすでに出現していた。当時、耕地は泉源や渓流を利用して山麓(さんろく)丘陵地帯の緩やかな傾斜地や山あいの平地に開かれていたが、有力な豪族たちは県、郷(きょう)、亭などの現住地から遠く離れた場所に新しい土地を求めて大規模な開発を行い、荘園を設けていた。別墅、別業はこうして別所に設けられた田園屋舎をさす呼称であった。荘園の開発は、後漢(ごかん)末三国初の混乱期に豪族の家が同族同郷の人々を率いて新しい土地に移住し、さらに西晋(せいしん)末の内乱や五胡(ごこ)の侵入期に華北の貴族豪族層が江南に移ったことによって、大いに進展した。南朝治下の江南では貴族豪族が盛んに山林沼沢を囲い取って流民(るみん)を収容し開発を進め、重大な政治問題となっている。唐のなかば以後は、商品貨幣経済が発達して流民客戸が増え、中央地方の官僚や寺院富豪の家が、これを耕作者として収容し開発を進めた。開発地は山陵丘陵地帯のほかに江河湖海沿岸の泥地が選ばれるようになり、砂泥地を堅牢(けんろう)な堤防で囲んで開墾した圩田(うでん)、囲田(いでん)が出現。新地を開発した荘園のほかに、没落した農民の土地を買い集めて置かれるものも現れた。
漢および魏晋(ぎしん)南北朝時代に新地に開発された荘園は規模が大きく、荘内に耕作者を集住させたものが多く、また貴族の荘園は別荘を兼ねて交遊の場とされていた。宋(そう)代の荘にも書楼学舎を設けて一族子弟の勉学の場としたものがみられた。しかし商品経済が発達してくると、田租の保管販売の便宜上、荘院を州県城内や鎮市(ちんし)などの郷間の小都市に置くものが現れた。この傾向は、没落農民の土地を買い集めて置かれた荘においてとくに著しかった。この種の荘では、地段は散在していて耕作者を集住させる必要もなく、荘院は田租を収納する倉房さえあれば用が足りたからである。
荘園の管理形態や耕作関係がやや明らかになるのは唐のなかば以後、とくに宋代である。荘院には平常、家僕数名が住んで管理にあたり、耕種収穫時には荘園主かその代理人が出向いて作業を督察し田租を収納していた。代理人は一般に幹人(かんじん)とよばれ、帳簿を管理し、収租・納税、田租の販売などにあたっていた。幹人と荘主は雇用関係にあり、納税や田租の販売の便宜上、州県の吏員の経験者や小商人が選ばれていた。耕作者には身分的な制約はなく、荘客、荘戸、佃(でん)客、佃戸などとよばれ、自ら耕牛、農具、種子などを所有して荘田を耕す場合は通常、定額の田租(およそ収穫の半分にあたる)を納め、荘主の耕牛、種子あるいは農具を使用して耕作する場合は7対3とか6対4とかの比率で主家と収穫を分かっていた。また農耕のほかに若干の雑役に従っていた。南北朝以前では耕作者は隷属的性格が強かったものと推測されるが、詳しいことはわからない。
荘園は民国時代にも存在した。1920~1930年代の多くの農村調査によると、大地主は消費生活の便宜や治安の関係から多く城内に住んでいたが、山東、江蘇(こうそ)江北、安徽(あんき)、江西、湖広などでは、比較的に多くの租田がまとまって存在する場所に、倉屋、荘房、倉房、禾房(かぼう)とよぶ倉庫兼住屋を置いて家僕を住まわせ、収穫期になると、老総(ろうそう)、管賬(ちょう)などとよばれる管理人を派遣して収租にあたらせ、収納した田租はいったん倉房に納めたのちに城内の地主の家に運んでいた。江蘇南部や浙江(せっこう)の一部では、巨大地主は城内に租桟(そさん)を設けて賬房(経理主任)以下の職員を雇用し、租田の貸出しや田租の収納などの業務にあたらせ、かたわら中小地主の依託を受けて、その所有地の収租事務を代行していた。これは、荘院の倉廩としての機能が最高度に発展した形態を示すものとみてよいであろう。
[草野 靖]
奈良時代に発生し戦国時代まで存続した、貴族・寺社の大土地所有の形態。本格的展開をみた平安時代後期以降は、荘園が政治・社会・経済の根幹を規定する地位を占め、その社会はしばしば荘園制社会とよばれる。およそ800年に及ぶ荘園の歴史は、通常、(1)形成期=8世紀後半から11世紀なかばころまで、(2)確立展開期=11世紀後半から14世紀前半ころまで、(3)動揺解体期=14世紀後半から16世紀末の太閤(たいこう)検地まで、の3期に区分される。
[永原慶二]
743年(天平15)の墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を転機として、8世紀後半以降、中央貴族・寺社と地方豪族との結び付きのもとに、山野未墾地の囲い込みが進められ、荘所とよぶ倉庫兼開発拠点を中心に開墾が行われ、これが荘園の発端となった。越前(えちぜん)など北陸地方に数多く設定された東大寺(とうだいじ)領の荘園群はその代表的なものである。これらは墾田を基軸とした経営であることから、墾田地系荘園ともよばれた。しかし荘園とはいっても、これらの初期荘園は輸租(ゆそ)地で専属荘民はおらず、主として周辺の公民(こうみん)に賃租に出し、地子(じし)を収める経営方式をとった。その限りでは初期荘園はまだ律令制(りつりょうせい)の公地公民原則を基本的に否定するものではなかったが、9世紀には財政難から政府も勅旨田(ちょくしでん)・官田などとよぶ荘園類似の直轄地を設定することもあり、支配層の未墾地囲い込みが農民の共同用益地を圧迫し、その没落を促した。その結果、農民のなかには流亡して荘園に流入し、荘民化するものも増え、荘園増加はしだいに深刻な政治社会問題となりだした。
[永原慶二]
902年(延喜2)、政府はいわゆる荘園整理令を発して、貴族・寺社の山野囲い込みや農民の墾田・宅地の買取りを禁止した。しかしこのころを境に戸籍制度は破綻(はたん)し、班田制も廃棄されて、律令制土地制度の全面的変質が進みだした。荒廃した公田を再開発すると、負担が軽減されるばかりか、これも開発地とともに、「私領」として売買譲与することが許され、荘園と称さないが実質はそれに近いものとなった。荘園から荘民が出作(でづくり)している公領の耕地も荘園に取り込まれることが多くなり、本来の荘地よりも出作加納(かのう)とよばれる公領の不法取り込みによる荘地のほうが広い荘園さえ続出した。また10世紀から11世紀にかけて、貴族や寺社の封戸(ふこ)に指定された百姓を封主(ふうしゅ)が私民化することを梃子(てこ)として、その封戸のかかわる土地を荘園化してしまういわゆる雑役免(ぞうやくめん)荘園が急増し始めた。雑役免荘園はいわば土地支配よりも人間支配が先行した荘園で、官物(かんもつ)は国に出し雑役を貴族・寺社がとる、国と領主とに両属する所領であった。1070年(延久2)の興福寺(こうふくじ)領の荘園は151荘で面積計2357町余、うち1854町までが雑役免荘であった。さらに律令財政制度の崩壊につれて位田(いでん)・職田(しきでん)なども世襲されて荘園化し、官田は分割され、諸官衙(かんが)の経費にあてる諸司要劇田(しょしようげきでん)とされ、やがてその官衙の長官がその地位を世襲化するにつれて、要劇田は長官家の所領荘園化していった。
このようにさまざまの経路で荘園が増加し始めると、政府は984年(永観2)、1040年(長久1)、1045年(寛徳2)、1055年(天喜3)、1065年(治暦1)、1069年(延久1)と、繰り返し荘園整理令を発し、その増勢を抑えようとした。しかし、整理による収公が一時的なものに終わり、国司がその地位を利用して立荘することさえ少なくなく、結局その効果はあがらなかった。
[永原慶二]
11世紀から12世紀にかけて、地方豪族が「私領」を中央貴族・寺社などに寄進し、荘園化する動きが全国的に推進された。地方豪族は、国司の手による「私領」の収公を免れるため、中央権門貴族・寺社に「私領」を寄進し、その権威によって「私領」を確保しようとしたのであるが、立荘にあたっては、貴族・寺社は「私領」ばかりでなく、その周辺の公領をも広く荘域に取り込むのが普通であった。これをいわゆる寄進地系荘園という。寄進地系荘園の実態は、単なる開発私領に限らず公領の分割という性質を広くもっていたのであり、たとえば備後(びんご)の大田(おおた)荘は世羅(せら)郡の東半にあたる公領の桑原(くわばら)郷・大田郷をそっくり荘領としており、陸奥(むつ)の菊多(きくた)荘は菊多郡を一括して荘園化したのである。
立荘は名目的には寄進とはいえ、国家の承認を得、太政官符(だいじょうかんぷ)、民部省符(みんぶしょうふ)によって立券(りっけん)された。寄進を受けたものは上級領主たる領家(りょうけ)となり、寄進者は現地管理者たる下司(げし)となった。下司は、若干の免租地たる給田(きゅうでん)と下司が雑役をとることを許された雑免百姓に対する支配権を認められ、荘園全体の下地(したじ)管理、勧農、年貢雑役の徴取納入などにあたった。領家は検注(けんちゅう)権、年貢雑役の収納権、裁判権などを内容とする荘務権をもち、本所(ほんじょ)とよばれた。領家が一般の貴族・寺社である場合、さらに最高の権威をいただくため、摂関家・皇室などに重ねて寄進し、これを本家(ほんけ)と仰ぐこともあったが、本家の得分(とくぶん)は概して少額であった。その結果、一つの荘園に対する土地支配権は本家―領家―下司というように重層的な構成をとり、職権と得分を伴うそれぞれの地位は職(しき)として表現された。このような形で成立した寄進地系荘園は、臨時役たる勅事院事大小国役(ちょくじいんじだいしょうくにやく)以外は、国家に対していっさいの経済負担を免除されていわゆる不輸租であるとともに、国司の警察権をも排除した不入権ももつようになった。
寄進地系荘園の全国的展開と並行して、公領も、在地豪族の勢力範囲を反映しつつ、郷(ごう)、保(ほ)などとよぶ支配単位に分割され、彼らが郷司、保司などの地位につくとともに、国支配の基本たる国務権も中央権門貴族・寺社に知行(ちぎょう)国として配分されることが多くなった。知行国主は自分の腹心の者を形のうえでは国司に任命したが、経済的収益の基本部分を私的得分とした点で、荘園領主と似た性質をもつようになった。こうして平安末期ころまでに展開した荘園および公領のあり方を、通常、荘園公領制とよぶが、荘園と公領の割合は全国的にみるとほぼ6対4前後と推定されている。
[永原慶二]
荘園の領有・集積は、初め摂関家藤原氏が積極的だった。これは、後三条(ごさんじょう)天皇が親政して摂関家を抑え、白河(しらかわ)上皇の院政も皇室への権力集中を図ったので、これに対抗して経済的基礎を固めるねらいがあったようである。しかし摂関家の荘園集積に対抗し、皇室も鳥羽(とば)・後白河(ごしらかわ)時代には膨大な荘園を集積し、多数の知行国(院宮分国(いんぐうぶんこく))を設定した。それらの諸荘園は全国に分散し、個々の荘園についていえば重層的な領有権の一部をもつにすぎなかったから、その維持は独自の力だけでは困難で、周辺からの侵犯その他領有権が脅かされる場合は、国家体制に依存し、中央法廷での裁判に基づく国衙(こくが)の武力によってそれを排除するほかなかった。この点が後の大名領国の場合などと著しく異なるところである。また中位以下の貴族の場合、荘務権をもち自らが本所となりえた「家領(けりょう)」荘園の所有はごく少数で、他は、摂関家や皇室に家司(けいし)などとして仕える報酬として、その荘園の預所(あずかりどころ)などに一時的に任ぜられて得分を得る、一種の俸禄(ほうろく)的性質のものが多かった。有力荘園領主は、各地の荘園から上納されてくる年貢・雑公事物を中心に毎年の諸経費をまかなう家産経済体制を編成することに力を入れた。
こうして荘園の所有形態は、貴族・寺社のなかでも格式により多様であったが、皇室や摂関家のように荘務権のあるもの・ないものを含めその数が数百以上にも及んだ場合、それらは御願寺(ごがんじ)や氏寺(うじでら)などに分け付すとともに、一族に配分されることが多かった。皇室領荘園の多くが御願寺領・女院領などの形をとったのがそれでのちには、大覚寺(だいかくじ)統・持明院(じみょういん)統に伝領される荘園群や知行国が固定されるようになった。
[永原慶二]
個々の荘園についてみると、荘園の耕地は下司など荘官の給田・給名のほかは、大別して名田(みょうでん)と一色田(いっしきでん)とに区別された。名田は名主(みょうしゅ)に年貢・雑役などの徴収・納入責任を負わせた部分で、そのすべてが厳密な意味での名主の保有地ではない。領主権の強い畿内(きない)の荘園では、いわゆる均等名荘園のように名を均等規模に編成することもあった。名主は名田の大部分について作手(さくて)とよばれる保有権をもつ場合もあったが、一つの名田が何人もの作手農民に分割保有されていることも少なくなかった。荘官の名田と区別して、一般の名田は百姓名ともいわれたが、百姓名には田地1段当り3~5斗程度の年貢米(年貢はかならずしも米に限らず、布、絹、材木などのこともある)と、名単位にかけられる雑多な各種生産物および夫役(ぶやく)の負担があった。後二者はあわせて雑役(ぞうやく)あるいは公事(くじ)とよばれた。一色田は名田に編成された以外の田地で、名主が存在しない一種の領主直属地で、ここには概して高額の年貢だけが賦課された。このほか荘園領主直営地としての性質をもつ佃(つくだ)が設定されることもあったが、日本の場合、佃は、ヨーロッパのマナーmanorの直営地のように規模が大きく、農民の週夫役を大量に投入するような形をとることはなかった。
農民の基本的身分階層としては、名主と小(こ)百姓があった。両者は広い意味ではともに百姓という身分であるが、名主は百姓上層の有力経営農民であることによって、名主としての地位・特権を認められたのであり、年貢雑役などを納入したあとに余剰分である内徳(ないとく)を手元に残す可能性もあった。小百姓は名田や一色田の作手農民で、その保有権は強固なものでなく、しばしば散田(さんでん)という形で割り替えされることさえあった。名主クラスの有力農民は傍系親族や下人(げにん)という奴隷的従属労働力を従え、家父長制的な大経営を行い、それなりに安定していたが、小百姓層の経営は不安定で、しばしば経営が破綻し流亡化した。流亡民は下人に転落する場合のほか、縁を求めて移動し、他村に住み着くこともあった。そうした新入の農民は間人(もうと)とよばれ百姓身分より一段低いものとされたが、全体に経営条件の不安定な荘園農村では、絶家・流亡が反復的に発生し、荒廃、不作付田(ふさくつけでん)が増大したため、荘官は「浪人(ろうにん)を招きすえる」という形で荘園耕地の「満作(まんさく)」に努力した。しかし下司などの荘官も荘官佃という直営地をもち家父長制的な大経営をもっていたため、荘民の経営を全体的に安定させるよりも、百姓の夫役を恣意(しい)的に取り立てたり、用水を自分の田地に都合のよいようにかってに引き直したりするなどして、百姓の経営と対立することもまれでなかった。このため名主級の百姓は共同体的結合によってこれと対抗した。
これら農民のほか、荘園には若干の職人が存在することが多かった。番匠(ばんしょう)、鋳物師(いもじ)、鍛冶(かじ)、皮造(かわつくり)、土器作(どきつくり)、檜物師(ひものし)、紺掻(こんかき)などである。彼らは荘園領主側から、小面積ではあるが給免田(きゅうめんでん)を与えられるという形で保護を受け、半農半工の生活を営み、現地の需要に応ずる手工業生産を行った。しかし、一つの荘園内に、必要なすべての手工業者が居住するというわけではなく、彼らはいくつかの荘園公領などを含む一定の地域内に出職(でしょく)し、地域としての必要に応ずる活動形態をとっていた。さらに荘内には梶取(かじとり)とよぶ年貢輸送業務のかたわら商人的性質をもつ者も存在した。当時の年貢輸送には河川が広く利用されたから、そのような地理的条件をもつ所では梶取が活動し、荘園市場も設けられた。これもどの荘園にもかならず開設されるというものではないが、荘官としても荘内の再生産条件を確保するとともに、自らが流通機能を掌握することを通じて支配力を強めることができたから、市場の開設や商人の招致には力を注ぐことが多かった。市(いち)は月に一~三度程度開かれることが多かったが、中世後期になると、有力な市場には、市場在家(ざいけ)という定住商人が出現し、定期市でも月6回の六斎市(ろくさいいち)に発展した。
[永原慶二]
鎌倉幕府が成立したころに、荘園の寄進の動きはほとんど停止した。おそらく寄進の主体たる在地豪族層が御家人(ごけにん)となることによって国司の収公圧力を排除できる条件が成立してきたからであろう。源頼朝(よりとも)は平氏を滅ぼしたのち、義経追捕(よしつねついぶ)を名目に守護、地頭(じとう)設置を朝廷側に認めさせた。地頭設置は公家(くげ)・寺社の強い反対にあったが、しだいに荘郷に広く設置され、とくに承久(じょうきゅう)の乱(1221)以降は新補(しんぽ)地頭によって、その設置はほとんど全国に行き渡った。本補(ほんぽ)地頭の職権は先に存在した下司(先(せん)下司)の権限を継承するものとされ、新補地頭にはいわゆる新補率法(りっぽう)が適用された。しかしいずれにせよ地頭の地位は勅許によって新設された武家専属の職(しき)であるとともに、主従制を前提として御家人にだけ与えられるものであり、実質的には荘園領主権に対して巨大な圧力を加え、年貢徴収・下地進止(したじしんし)・検断(けんだん)などの権能を奪い取るものであった。とはいえ原理的には荘園公領制の職の秩序のなかに位置づけられるものであった。頼朝の挙兵、鎌倉幕府の成立は、一面では公家政権から独立の武家政権の樹立を意味するが、半面では鎌倉殿(将軍)自身も大荘園領主であり多数の知行国の国主であったから、荘園制を根本的に否定するものではなかったのである。頼朝は荘園公領制の枠組みを存続させたまま、地頭設置によって現地支配の実権を握ろうとしたのである。また国別に置かれた守護も国司の行政権を直接否認するものではなかったが、その設置により守護は事実上国司の権能を逐次吸収し、国支配の実質を掌握する方向に進んだから、国支配の実権はしだいに守護の手に移っていった。国ごとに荘園公領の面積・領主・地頭などを調査した国支配の基本台帳たる図田帳(ずでんちょう)も鎌倉時代には守護を介して作成管理されるようになり、これがのちに守護の領国大名化していく梃子ともなった。こうして鎌倉幕府の成立以降は、荘園公領の現地支配の実権が、主従制に基づいて将軍から補任(ぶにん)された御家人たる地頭・守護の手に移ったから、荘園制の変質は避けられなかったし、とくに元来中央政府の統治力の浸透が弱かった東国では、荘園領主はその支配を地頭に請け負わせ、地頭が荘園支配の実権を完全に掌握してしまう場合が多かった。
[永原慶二]
鎌倉中期以降、地頭は荘園公領制の職の秩序の枠を乗り越えて、領主的権限を拡大し現地支配権を独占しようとする動きをとった。その種の動きはさまざまであるが、なかでも、百姓名を地頭名(じとうみょう)に取り込み、その百姓を身分的に隷属させ夫役を奉仕させる動き、荘園領主に送るべき年貢を「抑留(よくりゅう)」したり「押領(おうりょう)」したりする動き、検断権を梃子に百姓から科料銭(かりょうせん)を取り立て、あるいはその妻子を召し捕り下人にしてしまう動き、などがおもなものであった。名主・小百姓層もこうした地頭の行為を新儀非法(しんぎひほう)として領主へ申状(もうしじょう)で訴えたり、さらに逃散(ちょうさん)などによって抵抗し、荘園領主側の荘官である雑掌(ざっしょう)などは、地頭非法をしばしば幕府に訴えた。幕府も職の枠を超えた地頭の行為に対しては一貫してこれを抑制する方針で臨んだが、地頭の領主化を抑えることはほとんど困難であった。地頭は公然たる非法といった形でなくとも、荘園領主側が実施しようとする検注を拒否して、多くの隠田(おんでん)を支配し、場合によっては新田は地頭の進止という主張を公然と認めさせた。また田地の裏作につくる麦に対して地頭が麦年貢を賦課したり、山野河海所出物(さんやかかいしょしゅつぶつ)とよぶ農地以外の土地生産物ないし収穫物に対しても追求の圧力を強めていった。そのような各種の動きによって荘園領主側の支配が事実上麻痺(まひ)状態に置かれると、領主側はやむなく、法的にも譲歩を与えて、それ以上の地頭の侵略的行為を食い止めようとした。その方式もさまざまあったが、領主側が幕府法廷に訴え、法廷において領主と地頭との間の和与(わよ)すなわち和解関係を確定するのが一つであった。また下地中分(したじちゅうぶん)といって、荘園の土地を半々とか2対1といった形で分割してしまう方式もあった。下地中分は、荘地を分割して地頭一円地として引き渡すことになるからその打撃は大きいが、鎌倉後期になると、それでも残り部分が地頭を排除した形で確保できればよいとされ、中分は荘園領主側から求められた。
このような地頭の非法は、承久以後の新補地頭が西国の任地に一族をあげて移住したり、代官を送り込んで、新たに領主権を拡大してゆこうとする場合とくに激しかった。また中央領主の拠点である畿内(きない)やその周辺地帯では、荘園領主側の抵抗も激しかったため、地頭は在地土豪層とも結んでしばしば武力行動に乗り出し、荘官を追い出すなどのこともまれでなくなった。荘園領主側はこれを悪党とよんで恐れ、幕府にその鎮圧を要求した。このように多様な契機を通して地頭の領主化は、鎌倉中期以降急速に進展してゆくのであるが、この間、幕府ももっぱら地頭非法の抑止だけに力を入れていたわけではなく、とくに蒙古(もうこ)襲来を契機に、従来地頭が設置されていなかった寺社本所一円地にも兵糧や兵員の賦課を行い、守護が国衙に結び付いていた在地豪族を被官化するなどの形で、荘園制に対する全体的圧迫を強めたから、その動揺は避けられないものとなった。
[永原慶二]
南北朝期以降、荘園制は本格的な解体段階に入った。荘民のなかでは小百姓の自立性が強まり、名主・小百姓を含む惣(そう)結合によって年貢や夫役の減免を要求する戦いが至る所の荘園で引き起こされ、それを抑圧しようとする代官の罷免を要求することもまれでなくなった。またそのような年貢減免要求の成果と土地生産力の上昇によって農村内部に剰余が成立するようになり、耕地を貸し付け加地子(かじし)という一種の小作料をとる関係が拡大し始めた。しかも単位面積当りの加地子の額は年貢(このころは荘園領主年貢を加地子に対し本(ほん)年貢というようになった)の量を上回るほどになったから、領主の土地に対する支配力は著しく後退したわけである。
一方、地頭および守護の荘園侵略も南北朝内乱期には一段と多角化した。地頭は年貢抑留・下地押領などによって荘園侵略を推進するとともに、地頭請によって荘園の全面的支配権を掌握した。しかもそれは従来からの各地に散在する所領についてでなく、拠点所領に隣接する荘郷の請所(うけしょ)権を獲得し、事実上地域的にまとまりある領域支配体制を形成し始めたのである。このような在地領主はもはや地頭とはいわなくなり、国人(こくじん)(国人領主)とよばれた。また守護も守護請を拡大するとともに、管国内の諸荘園公領に対し臨時の守護役(兵糧米や人夫)をかけ、その量もしだいに本年貢を上回る場合さえあるほどになった。このころになると国衙の権能のみならず機構そのものも守護側に吸収されてしまったから、公領は守護領化し、従来国司の賦課徴収権に属していた一国平均国役(へいきんのくにやく)の類も守護の権限に転化し、やがて守護段銭(たんせん)は管国内一律に恒常的な形で賦課されるものとなっていった。
こうした動向をさらに促進したのが半済(はんぜい)令である。1352年(正平7・文和1)に出された最初の半済令は、初め近江(おうみ)以下3か国、ついで8か国に限り、その年1年の年貢米半分を兵糧米として武家方に引き渡させるものであったが、1368年(正平23・応安1)の半済令は、国も期限も定めず、守護が荘園公領の土地そのものの半分を分割して、半分をその地の国人に給付するというものであったから、特権的な性質の強い寺社本所一円地は適用外という留保があったにしても、全体としては荘園制に強烈な打撃を与えることになった。このことは、鎌倉時代のように荘園制の職の秩序を王朝と幕府とが一体として擁護する段階が終わり、それが根幹から揺るがされる段階に入ったことを意味する。それにつれて中央貴族・寺社の全国散在的な荘園所有は不可能になり、遠隔地の荘園の多くが国人に抑えられ、「不知行」あるいは「相論(そうろん)(訴訟)中」という状態に陥った。とくに皇室や摂関家のように最高の権門として、荘務権をもたず、得分だけを入手していた本家職が多かった場合の打撃は決定的だった。荘園領主側は、散在・重層という特徴をもつ職の知行がその国家的保障をまったく失った事態に達すると、重層関係を清算し、同時に地頭職も入手して、一円的な支配関係の確保できる荘園所領を少数でもつくりだそうと努力した。しかし直接武力をもたない貴族にはそれは事実上不可能なことであって、わずかに比叡山(ひえいざん)や高野山(こうやさん)のような大寺院が本寺の周辺地帯において荘園支配の立て直しに一定の効果をあげたにとどまった。
そのため、室町時代に入ると、荘園領主の経済的窮乏は深刻となり、その年および明年以降の先物年貢を担保として土倉(どそう)から借財することが恒常化した。しかし負債の返還はほとんど困難であり、土倉は担保として質入れされた荘園の代官となって直接取り立てにあたった。土倉に借財の担保として質入れされない荘園でも、領主側は自力による取り立てが不可能なため、当時金融活動を行っていた比叡山の山僧や、財務能力と同時に幕府守護側と交渉力をもつ五山禅寺の東班衆(とうはんしゅう)とよばれた実務僧たちを代官に取り立てるなどして、一定の年貢を入手するだけの状況に陥った。
[永原慶二]
このような荘園制の解体の動きは、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~1477)を経て戦国時代に進むとともに最終局面を迎えた。戦国大名の権力は国人領主の地域連合的な性質をもっており、その初期においてはまだ国人の荘園請負関係が基盤に存在することもあり、初めから荘園制を全面的に清算した存在とはいえなかった。しかし、戦国大名は結集した国人領主をしだいに強固な家臣団に組織し、領域支配権力を固めるにつれて、逐次検地を行い、「守護使不入」という形で大名権力を排除していた寺社領などに対しても上位権力としての立場を確立していった。また畿内やその周辺で中央貴族の荘園得分をある程度保障する場合も、新たに大名がそれを安堵(あんど)するという形をとったから、もはや荘園は国家的職秩序のもとで独自に存続しているのでなく、領国大名によって個々に保障されつつ残存しているだけになった。
豊臣(とよとみ)秀吉の統一に伴う太閤検地は、そのような残存物をも最終的に一掃するものであった。大和(やまと)一国に支配的実力をもち多数の荘園を保有した興福寺でさえ、一定の石高(こくだか)を寺領として与えられただけで、ほかはすべて否定し去られた。太閤検地は、全国の検地実施権、石高知行の宛行(あておこない)権を秀吉が集中行使することを意味しており、それによって荘園制は原理的に消滅するとともに、荘という地名表示さえも抹消されることになったのである。
[永原慶二]
『ドプシュ著、野崎直治・石川操・中村宏訳『ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎』(1980・創文社)』▽『マルク・ブロック著、飯沼二郎・河野健二訳『フランス農村史の基本性格』(1959・創文社)』▽『Ph. DollingerEvolution des classes rurales en Bavière (1949, Société d'édition : Les Belles Lettres, Paris)』▽『橡川一朗著『西欧封建社会の比較史的研究』増補改訂版(1984・青木書店)』▽『草野靖著「大土地所有と佃戸制の展開」(『岩波講座 世界歴史9』所収・1970・岩波書店)』▽『周藤吉之著『中国土地制度史研究』(1954・東京大学出版会)』▽『宇都宮清吉著『僮約研究』(『漢代社会経済史研究』所収・1955・弘文堂)』▽『村松祐次著『近代江南の租桟――中国地主制度の研究』(1972・東京大学出版会)』▽『渡辺澄夫著『畿内庄園の基礎構造』(1956・吉川弘文館)』▽『佐々木銀弥著『荘園の商業』(1964・吉川弘文館)』▽『阿部猛著『中世日本荘園史の研究』(1966・新生社)』▽『稲垣泰彦編『荘園の世界』(1973・東京大学出版会)』▽『竹内理三編『土地制度史1』(1973・山川出版社)』▽『永原慶二著『荘園』(1978・評論社)』
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①〔ヨーロッパ〕Manor[英],Grundherrschaft[ドイツ]中世封建社会において,領主と農民の間で土地の貸与を通じて形成された社会的・経済的組織。7~9世紀頃に形成された中世初期の荘園の形態は,古典荘園と呼ばれ,荘園領主と不自由民,隷属農民,領主の土地(直営地)と農民の保有地からなっていた。修道院の大所領をはじめとする古典荘園では,荘司(ウィリクス)と呼ばれる所領管理人が経営を管理し,隷属農民から賃租を徴収し,荘園裁判所を主催した。領主直営地は,領主の不自由民と保有地を持つ隷属農民の賦役労働で耕作された。荘園には耕地のほか,森林,ブドウ畑,水車小屋なども付属していた。農民たちの賦役の負担はさまざまであったが,家禽(かきん)類や豚などの家畜,バター,織物など生産物貢租が中心であった。古典荘園は,ライン川とロワール川の間の北西ヨーロッパでまず形成され,三圃(さんぽ)制の普及や,冶金(やきん)術の進展による鉄製の有輪犂(ゆうりんすき)などの農業技術上の革新によって農業生産が増大するとともに,領主による定期市の開催を通じて,一定の商品=貨幣流通を実現していったとみられている。古典荘園の発達した北西ヨーロッパでは12~13世紀になると城を軍事的拠点として,一円的な領域の裁判権を持つ裁判領主が出現し,古典荘園はしだいに解体し,地代荘園へと移行していった。裁判領主は土地に対する支配ではなく,農民(領民)に対する身体的・人格的支配にもとづいていた。裁判領主は,流血裁判権を行使し,一村落全体の農民を支配して,小麦などの穀物や畜産物などの生産物貢租,賦役労働(城や道路の補修など),バナリテ(領主が独占するパン焼き竈(かまど)などの使用強制),タイユ(恣意(しい)税)などさまざまな賦課租を農民に課した。しかし,こうした裁判領主制は領主側の一方的支配としてのみ存在したのではない。それは農村共同体の成立を前提としており,領主と農村共同体は,両者の間での合意の確認(フランシーズ文書など)を通じて秩序と平和の確保と相互依存の関係をめざしたのである。荘園は商品経済の展開,集権的支配体制(国王支配)の強化などにより,しだいに弱体化して14世紀以降種々の農民反乱を招き,事実上解体していった。しかしエルベ川以東の地域では,15~16世紀以降も,グーツヘルシャフト(農場領主制)と呼ばれる裁判領主による荘園支配が行われた。
②〔中国〕中国における大土地所有制の名。本来貴族が別荘に田園を付属させて土地所有の拡大を図ったところから生じた。このような土地所有を漢では園(えん),六朝では別墅(べっしょ),別業などと呼んだが,唐以後荘園,荘田の語が多く用いられるようになった。荘園は特に均田制の崩壊後に発達し,地主の住む荘院,耕作者の住む客坊,田園からなり,監荘(かんしょう),幹人(かんじん)などと呼ぶ管理人を置いていた。田園は主に荘客(しょうかく),佃戸(でんこ)などと呼ぶ小作人によって耕作され,奴隷,雇傭人を用いる直営地は少なかった。朝鮮の農荘,田庄,日本の荘園などの名も中国の荘園に由来する。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
古代~中世に荘とよばれた領地のこと。史料上は「庄」の字が用いられた。古代では,743年(天平15)の墾田永年私財法にもとづいて東大寺などの中央官寺が集積した墾田をいい,10世紀以降の公田官物などを免除された田,院政期に成立する領域型荘園も荘園とよばれてきた。荘園の成立契機から,古代の墾田ないしはその系譜をひく荘園を墾田地系荘園といい,寄進を契機とする荘園を寄進地系荘園とよんで区別する。これに対して土地制度論の立場からは,古代の墾田を初期荘園,10世紀以降の官物などを免除された田を免田系荘園,領域型荘園を寄進型荘園(寄進地系荘園)とするなどの区別もなされている。また歴史教育の立場からは,それぞれ初期荘園,免田・寄人(よりうど)型荘園,領域型荘園と区別する見方もある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…郷里制社会の解体に伴って大土地所有が発達し,一方に奴婢・佃客が生み出された。この双方が結びついて豪族の荘園経営が行われた。当時の大土地経営は,商品生産を主目的とするものでなく,全体として自給生産のためのものであった。…
…中世において,荘園とならず諸国の国衙が支配した公領。国領とも称した。…
…寺院,神社の維持運営のために設置された所領。古代においては国家から給付される封戸(ふこ)を中心に,8世紀中ごろからの墾田開発によって出現する初期荘園が寺院経済の基盤であったが,9世紀~10世紀にかけて初期荘園の多くは没落し,封戸からの収入も11世紀後半までにはとだえてしまう。以上の事態に対処するため,中央の有力な寺院は支配組織を再編し,国家に頼らない自立した経営を目ざして,新たなる中世的な寺領の獲得をはかる。…
…室町幕府はいわばこのような権力である守護大名の連合政権であると理解する説である。室町幕府の地方行政官であった守護が付与された諸権限をてこにして任国を領国化していく事態は,具体的には国内の在地領主,荘園,国衙(領)の3者との関係において論じられた。まず領主層を服属させて直属家臣団を形成すること,次に中央所課段銭の徴収等を通して家臣を荘園に入部させ,荘園を守護請し,徐々に荘園領主権を後退させて自己の支配基盤に転化していくこと,また国衙在庁の被官化や国衙目代職の進退権を獲得して国衙機構を掌握するとともに国衙領を守護請すること,などである。…
…荘園において勧農,検注,年貢収納など現地の支配・管理を行うこと,またはその権限を与えられた者。例えば1217年(建保5)に高野山領備後国太田荘の地頭三善康信が定めた地頭方荘務十箇条には,加徴米,関東人夫,百姓逃亡跡名田,桑,佃(つくだ),勧農などについての規定がされている。…
… 実際,中世においても東国と西国の社会には明瞭な差異が認められる。東国も西国と同じ土地制度,荘園公領制の上に立ってはいるが,その単位は郡を基本とし,《和名類聚抄》に載る古代の郷が消滅したあとに成立した新たな郷がその下部単位をなし,名(みよう)は著しく未発達で,在家(ざいけ)が田畠とともに収取単位となっている。おのずと郡そのものが荘園になる場合が多く,荘の規模はきわめて大きい。…
…荘園等に対する国家権力の介入を排除する特権。不輸は不輸租(ふゆそ)に由来し,租以下の税を国家に貢納する必要のないことであり,不入は検田使以下の国衙使の立入りを拒否することのできる特権である。…
…中世イングランドの領主の所領。ドイツの〈グルントヘルシャフト〉,フランスの〈セニュリseigneurie〉とともに〈荘園〉の訳語をあてることがある。典型的なマナーは領主直営地と農民保有地から成り,また農民の社会的集団の単位である村落共同体をその基礎としている。…
…古代・中世の皇室や伊勢神宮などの大神社に付属する,食料品調達にかかわる所領。平安時代末から鎌倉時代ごろには荘園とほとんど変わらないものとなったが,本来は荘園のような所領ではなく,厨は台所を意味し,むしろ供御(くご)物や神饌を調達するために,皇室や神社に所属した山民・海民集団の構成する機関とでもいうべき実態のものであった。御厨の名称は文献上では8世紀末ごろから見られるが,近江国筑摩(つかま∥ちくま)御厨のように天智天皇時代に建立されたという伝承をもつものもあり,実際にはもっと古くから存在していたと考えられる。…
…幕府関係の寄人は,問注所寄人が問注所公人(くにん)とも呼ばれたように,公人とも呼ばれた。(2)平安中・後期の荘園における農民の一つの存在形態を示す呼称で,一般的には,自分が耕作している土地の領主(公領を含めて)と異なる領主に人身を隷属させているという,二元的な性格をもった農民をいう。しかし,このような性格の寄人が現れるのは11世紀以後のことで,10世紀の寄人は,その初見である951年(天暦5)の太政官符案にみえる醍醐寺領伊勢国曾禰荘の場合も含めて,公民が臨時雑役の免除という特権を得て特定の荘園の荘民化したことを示している例がほとんどである。…
…また,多数の小領主も没落して,有力領主の領民になっていく。こうして9世紀初頭までには,当時の先進地帯であったロアール~ライン川間地域に,古典荘園(ビリカチオンVillikation制)と呼ばれる大所領が族生するに至る。その規模は1000haを超えることが多かったが,半分以上の土地が,農民保有地として,マンス=フーフェに分割されており,領主直営地は従来よりも格段に広くなってはいたが,所領内部での比重を低めている。…
※「荘園」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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