朝日日本歴史人物事典 「新発田収蔵」の解説
新発田収蔵
生年:文政3.6.26(1820.8.4)
江戸後期の地理学を得意とした蘭方医,篆刻家。佐渡宿根木(新潟県佐渡郡小木町)生まれ。名は耘,字は士登,号は拗斎,半嶋漁人。姓は本来柴田。少年時代佐渡の石井夏海,文海父子に絵画,篆刻を,のち江戸の中根半仙,伊東玄朴に医術を学び,郷里で開業したが,潔癖,頑固が災いして孤立化した。嘉永3(1850)年再び玄朴の塾生となり,念願の地図作製に励み,同5年『新訂坤輿略全図』,同7年『蝦夷接壞全図』を刊行し,江戸幕府の天文方雇として安政2(1855)年の官版『重訂万国全図』の完成にも貢献した。同3年蕃書調所絵図調出役に任ぜられ,在職中に死去(酒害による)。墓は宿根木称光寺にある。<参考文献>田中圭一編『柴田収蔵日記』
(海野一隆)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報