ベトナム阮朝(グエン朝)初代の皇帝(在位1806~20)。廟号(びょうごう)世祖(せいそ)。諡(おくりな)は高皇帝。治世年間の年号によって嘉隆(かりゅう)帝(ザロン帝)と称される。黎(れい)朝(レ朝)後半期の南北抗争時代に南方を支配した広南(カンナン)の領主阮氏の10世、睿宗(えいそう)阮福淳(グエン・フク・トアン)の兄、阮福(こん)(グエン・フク・ルアン)の第3子。西山党(タイソン党)の革命軍と北方の領主鄭森(チンサム)の軍に挟撃された阮氏一族が、都城の順化(フエ)からベトナム南部の嘉定(ザディン)に追われて滅亡したとき(1777)、宗(そう)族のなかでわずかに生き残り、旧臣や在地の土豪を率いて西山軍と戦い続けた。1778年嘉定を奪回して大元帥摂国政を称し、西山党が鄭(てい)氏を倒し黎朝を滅亡させたのち、阮氏の王位を継いで国号を大越(ダイベト)ととなえ西山党と争ったが、82年タイランド湾(シャム湾)の富国島(プーコック島)に敗退した。ここでフランス人宣教師アドラン司教ピニョー・ド・ベーヌに長子阮福景(グエン・フク・カイン)を託してパリに赴かせ、ルイ16世に援助を請わせてフランス・安南攻守同盟条約を結ばせた。84年タイのクルンテープ朝(バンコク朝)ラーマ1世の支援を得てふたたび嘉定を奪回しようとしたが成功せず、翌年バンコクに亡命して反攻の機をうかがい、87年すでに全土を制覇していた西山党の内紛に乗じて河僊(ハティエン)に上陸し翌年嘉定を落とした。89年アドラン司教の斡旋(あっせん)で渡来したフランス人の加勢を得ると海陸より北伐を開始し、1802年に河内(ハノイ)を占領して国内を統一し、年号を嘉隆と定めた。04年清(しん)朝から越南国王に封ぜられると国号を越南(ベトナム)と改め、2年後に正式に即位して阮朝を創立した。
海内統一ののち国都を順化に移し、黎制を重んじながら中央集権的専制体制への改革を目ざして六部(りくぶ)を中心とする官制を確立し、北城(ハノイ)と嘉定の総鎮を含めて全国を23鎮4営2道の行政区に分けて統治機構を整備した。また均給公田公土例や大清律例に倣った新法典「皇越律例」を発布し、嘉隆通宝の鋳造や国土縦貫道の建設、各地の城塞(じょうさい)、橋梁(きょうりょう)、港湾の修築を行うなど、内乱によって疲弊した内治の復興に努めた。対外的にはカンボジアやビエンチャン王国を朝貢させ、カンボジアに出兵してタイと対抗するなど積極策をとったが、国内統一にフランス人の力を頼ったために即位後もフランス人を厚遇し、のちにフランスがベトナムを侵略する素地をつくった。
[川本邦衛]
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