ジョージ(読み)じょーじ(英語表記)Henry George

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジョージ」の意味・わかりやすい解説

ジョージ
George, Henry

[生]1839.9.2. フィラデルフィア
[没]1897.10.29. ニューヨーク
アメリカのジャーナリスト,社会改革論者。 1880年ニューヨークを中心に改革運動を起し,D.リカード地代論に立って人口の増加,機械使用による利益は土地の独占的所有者にほとんど吸収されてしまう結果,貧富の差が大きくなり,地代は上昇し,利子,賃金は低下すると述べた。したがって土地の共有の必要性を説き,その方法として全地代を租税として徴収し,それを社会福祉その他の支出に向けよと主張した。またこの税収は全財政支出をまかなって余りあるとし,他の租税を撤廃すべしと主張したため,単税論者とも呼ばれる。主著『進歩と貧困』 Progress and Poverty (1879) は国際的反響を呼び,19世紀末のイギリス社会主義に大きな影響を与え,広くジョージ主義運動を起し,フェビアン協会の発足 (84) に一つのきっかけを与えた。ほかに『土地問題』 The Irish Land Question (81) ,『社会問題』 Social Problems (83) ,"The Science of Political Economy" (98) などの著書がある。

ジョージ
George

南アフリカ共和国西ケープ州南東部の町。ポートエリザベス西方約 310kmに位置。1811年に建設され,イギリス国王ジョージ3世にちなんで命名。ホップ栽培,製靴,製材,家具製造,皮なめしが主産業。保養地としても有名。人口 7万8154(2001)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジョージ」の意味・わかりやすい解説

ジョージ(1世)
じょーじ
George Ⅰ
(1660―1727)

ハノーバー朝初代のイギリス王(在位1714~27)。ドイツのハノーバー選帝侯エルンスト・アウグストの子で、母はイギリス王ジェームズ1世の孫ソフィア(ゾフィー)。1698年父の後を継いでハノーバー選帝侯となり、ルイ14世のフランスと敵対して勇名をはせた。イギリスの王位継承法(1701)の規定により、アン女王の死後イギリス国王に即位した。即位翌年に起こったジャコバイトの反乱を抑えてスチュアート王家復活の野望をくじくとともに、従来よりハノーバー家の王位継承を積極的に支持していたホイッグ党の有力政治家を閣僚に任命して政治の安定化を図った。英語とイギリスの事情に疎いがゆえに政務を放棄したとの通説は誇張にすぎ、実際には外交、軍事問題にはきわめて積極的で、閣僚との意志の疎通も円滑であった。治世後半はウォルポール政権によって社会が大いに安定した。

[大久保桂子]



ジョージ
じょーじ
Henry George
(1839―1897)

アメリカの経済学者。土地制度改革論者。ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれる。船員になって各地を回ったのち、1857年カリフォルニアに移り、印刷工、新聞通信員、出版業などに従事した。この間、同地での経済発展に伴う地代の増大と貧富の格差の拡大を経験して、主著の『進歩と貧困』Progress and Poverty(1879)を書き、リカード地代論に依拠して、土地が地主に独占された社会においては、社会進歩に伴う富の増大は地主の所得する地代の増大となって彼らに独占され、貧困が存続する一原因になると考えた。それに基づいて彼は、地代をすべて租税として国家が徴収し、労働と資本への課税であるその他の全租税を撤廃すべきであるという土地単一課税を説き、富の偏在の是正と産業発展の促進を主張した。また、82年から2年間イギリスを訪れ、当時のイギリスの社会主義運動、とくにフェビアン協会の設立に影響を及ぼした。なお、86年と97年のニューヨーク市長選挙に立候補し、二度目の選挙戦中に病死した。

[藤田勝次郎]


ジョージ(3世)
じょーじ
George Ⅲ
(1738―1820)

ハノーバー朝第3代のイギリス王(在位1760~1820)。ジョージ2世の孫。大陸で育った先王と異なりイギリスで生まれた彼は、「愛国王」としての自覚をもち、1760年の即位以後、ホイッグ党の有力政治家を退けて親政を開始した。とくに治世初期の数年間は、自らの家庭教師であったビュート伯を重用し、次々と内閣を更迭したため、政界世論の強い反発を買った。その間、ウィルクス問題や北アメリカ植民地課税問題がおこった。70年にノース首相としてからは政局は安定をみたが、アメリカ独立革命を押さえることができず、合衆国の独立承認を余儀なくされた。83年にトーリー党ピット(小)を首相に任じて以後は、ピットのカトリック教徒解放政策を拒否するといったことはあったものの、政治の主導権を徐々に失っていった。晩年は精神に異常をきたしたため、1811年以降、皇太子が摂政を務めた。60年に及ぶ彼の治世中に、イギリスは産業革命を体験し大きく変貌(へんぼう)した。

[青木 康]


ジョージ(6世)
じょーじ
George Ⅵ
(1895―1952)

イギリス王(在位1936~1952)。ジョージ5世の次子。エリザベス2世の父。海軍兵学校で学んだのち、海軍に入り、第一次世界大戦にも参加した。1920年代から青少年のための活動に力を注ぎ、1936年、兄のエドワード8世(ウィンザー公)がシンプソン夫人との結婚のために王位を退いたため、国王の座についた。健康にあまり恵まれていなかったが、第二次世界大戦中は王妃とともに国内の各地を訪れて国民を励まし続け、国民の間での声望を大いに高めた。

[木畑洋一]


ジョージ(2世)
じょーじ
George Ⅱ
(1683―1760)

ハノーバー朝第2代のイギリス王(在位1727~60)。1714年、父ジョージ1世とともにイギリスに渡り、皇太子となった。27年に国王となり、治世前半はウォルポールに政権をゆだねた。彼の失脚(1742)後、寵臣(ちょうしん)を重用し、ピット(大)の国務相就任を拒否するなどして一時政局の混乱を招いたが、46年以後、ペラム兄弟を中心とするホイッグ党政府を支持して安定を回復した。その間オーストリア継承戦争では、故国ハノーバーを守るため自ら軍を率いてフランス軍と戦った。七年戦争の開始後はピット(大)に戦争指導をゆだね、戦争終結を待たず病死した。彼の治世は内閣や議会の成長期にあたり、国王の個人的意向によって政治を動かすことがしだいに困難になりつつあった。

[青木 康]


ジョージ(5世)
じょーじ
George V
(1865―1936)

イギリス王(在位1910~36)。エドワード7世の次子。海軍で少年期、青年期を送った。1910年、自由党が優勢な下院と保守党が優位を占める上院との間の争いが激化しているさなかに、父王の死によって王位につき(兄は1892年に死去)、上院の力の削減につながる方策に同意した。第一次世界大戦および戦後にわたる在位期間中、イギリスの政治構造は大きく変化したが、31年の「挙国」内閣の成立に際して彼が積極的役割を演じたことは、国制上の国王の権限をめぐる論議の的となった。なお、在位中(1917)、王家の名がサックス・コーバーグ・ゴータ家からウィンザー家と改称されウィンザー朝となった。

[木畑洋一]


ジョージ(4世)
じょーじ
George Ⅳ
(1762―1830)

ハノーバー朝第4代のイギリス王(在位1820~30)。ジョージ3世の長男。青年期には、父王に反対するホイッグ党の政治家と交わり、カトリック教徒である女性とひそかに結婚するなど、不品行がしばしば問題にされた。1811年に摂政となり、父王の死(1820)後国王となったが、この時期にはホイッグ党の政治家とはすでに疎縁になっており、カトリック教徒解放などの改革政策に強く反対した。正式の后(きさき)キャロラインとの離婚問題では、世論の強い非難を浴びた。

[青木 康]

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