デジタル大辞泉
「ジョージ」の意味・読み・例文・類語
ジョージ(George)
英国王。
(1世)[1660~1727]在位1714~1727。ドイツのハノーバーの選帝侯であったが、迎えられて英国王位に就き、ハノーバー朝を創始。英語を知らずハノーバーにこもることが多かったので、国政は内閣と議会にゆだねられ、責任内閣制が発達した。
(3世)[1738~1820]在位1760~1820。君権拡大を図り、国政の指導に当たったが、米国の独立を招くなど失政が多かった。
(5世)[1865~1936]在位1910~1936。エドワード7世の子。第一次大戦中、王家付属のドイツ系爵位・称号を廃し、ウィンザー家を創立。立憲君主として国民に敬愛された。
(6世)[1895~1952]在位1936~1952。5世の次男。兄エドワード8世の退位により即位。エリザベス2世の父。第一次大戦に海軍士官として従軍。第二次大戦前後には国際親善に努めて英国の国際的地位の安定に努力した。
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ジョージ
- ( George ) イギリス国王の名。
- [ 一 ] ( 一世 ) 在位一七一四‐二七。ドイツのハノーバー家に生まれる。一七〇一年の王位継承法に基づきアン女王の死後イギリス国王に即位。英語を解さずハノーバーに留まることが多かったため、国政は内閣と議会にゆだねられ、責任内閣制を発展させる結果を生んだ。(一六六〇‐一七二七)
- [ 二 ] ( 二世 ) 在位一七二七‐六〇。ジョージ一世の子。治世中アメリカ植民地でスペインと開戦、オーストリア継承戦争に介入、七年戦争などを行なう。首相大ピットとともに植民地の基礎を築き、責任内閣制をさらに発展させた。(一六八三‐一七六〇)
- [ 三 ] ( 三世 ) 在位一七六〇‐一八二〇。ジョージ二世の孫。ジョージ一、二世と異なり王権の強化を試みたが、アメリカにおける植民地政策に失敗して独立戦争をひき起こした。(一七三八‐一八二〇)
- [ 四 ] ( 四世 ) 在位一八二〇‐三〇。ジョージ三世の子。乱れた私生活をおくったため、王権の失墜を招いた。(一七六二‐一八三〇)
- [ 五 ] ( 五世 ) 在位一九一〇‐三六。エドワード七世の次男。典型的な立憲君主で王室の地位を確立。第一次世界大戦中ハノーバー家に続くサックス‐コーバーグ‐ゴータ家をウィンザー家と改めた。(一八六五‐一九三六)
- [ 六 ] ( 六世 ) 在位一九三六‐五二。ジョージ五世の次男。兄エドワード八世(ウィンザー公)の退位により即位。在位中第二次世界大戦が起こったが、立憲君主としての責務を果たした。現女王エリザベス二世の父。(一八九五‐一九五二)
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ジョージ[1世]【ジョージ】
英国王(在位1714年―1727年)。ドイツのハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの子。イングランド王ジェームズ1世の曾孫であることからアン女王の没後王位を継承,ハノーバー朝の始祖となる。英語が話せず国情にも通じていなかったため,政治の実権をウォルポールにゆだね,ここから〈国王は君臨すれども統治せず〉という英国の立憲君主制が発展したといわれる。
→関連項目ジョージ[2世]|ヘンデル
ジョージ[4世]【ジョージ】
英国,ハノーバー朝4代目の国王(在位1820年−1830年)。ジョージ3世の長男。カトリック教徒の婦人と結婚したり,ブライトンの離宮に大金をつぎ込んだりして父の精神病をさらに悪化させ,1795年にブランズウイックのキャロライン王女と結婚したが,離婚をはかったりして醜聞はたえず,国民からはきわめて不評であった。1810年摂政になって統治にのりだしたが,カトリック教徒解放法案の成立(1829年)に反対するなど,国王の権威の失墜に一役買った。
→関連項目ウィリアム[4世]
ジョージ[5世]【ジョージ】
英国王(在位1910年―1936年)。エドワード7世の次男。第1次大戦と戦後の困難な時代に,公正・超党派的態度によって王室の威信を保った。1917年王家名をドイツ風のサックス・コーバーグ・ゴータから英国風にウィンザーと改めた。→ウィンザー[家]
→関連項目ジョージ[6世]
ジョージ[6世]【ジョージ】
英国王(在位1936年―1952年)。ジョージ5世の子,エリザベス2世の父。第1次大戦中は海軍士官として艦隊勤務。兄エドワード8世がシンプソン夫人との恋愛により退位した跡を受けて即位。第2次大戦中の苦難の時代に,国王としての責任を果たし,国民の敬愛を集めた。
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ジョージ
Henry George
生没年:1839-97
アメリカの経済学者,土地制度改革論者。主著《進歩と貧困》(1879)および土地単税single tax論によって名高い。ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれ,少年時代に水夫になったりしたが,やがてカリフォルニアへ移って印刷工,新聞記者として働く。サンフランシスコ周辺において投機業者による土地買占めの実情にふれ,人口増加にともない地価が上昇するが,その利益がすべて大土地所有者に独占されてしまうのを知ったことが,彼の思想形成の中心となり,著作に結実した。当時のアメリカにはまだ経済学界と呼べるものはなく,彼の著作はむしろヨーロッパで反響を呼んだ。とりわけ,アイルランド,ロンドンを訪れて多くの学者,思想家,社会主義者と親交を結び,フェビアン協会の創始者たちに影響を与えた。彼は土地私有制度の結果たる地代をすべて租税として国家が徴収し,他の租税をいっさい廃止すべきだ(土地単税論)と説き,この運動はアメリカでも19世紀末には各地にひろまった。なお1886,97年ニューヨーク市長選挙にも出馬した。
執筆者:岡田 泰男
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ジョージ
George, Henry
[生]1839.9.2. フィラデルフィア
[没]1897.10.29. ニューヨーク
アメリカのジャーナリスト,社会改革論者。 1880年ニューヨークを中心に改革運動を起し,D.リカード的地代論に立って人口の増加,機械使用による利益は土地の独占的所有者にほとんど吸収されてしまう結果,貧富の差が大きくなり,地代は上昇し,利子,賃金は低下すると述べた。したがって土地の共有の必要性を説き,その方法として全地代を租税として徴収し,それを社会福祉その他の支出に向けよと主張した。またこの税収は全財政支出をまかなって余りあるとし,他の租税を撤廃すべしと主張したため,単税論者とも呼ばれる。主著『進歩と貧困』 Progress and Poverty (1879) は国際的反響を呼び,19世紀末のイギリス社会主義に大きな影響を与え,広くジョージ主義運動を起し,フェビアン協会の発足 (84) に一つのきっかけを与えた。ほかに『土地問題』 The Irish Land Question (81) ,『社会問題』 Social Problems (83) ,"The Science of Political Economy" (98) などの著書がある。
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ジョージ(1世)
じょーじ
George Ⅰ
(1660―1727)
ハノーバー朝初代のイギリス王(在位1714~27)。ドイツのハノーバー選帝侯エルンスト・アウグストの子で、母はイギリス王ジェームズ1世の孫ソフィア(ゾフィー)。1698年父の後を継いでハノーバー選帝侯となり、ルイ14世のフランスと敵対して勇名をはせた。イギリスの王位継承法(1701)の規定により、アン女王の死後イギリス国王に即位した。即位翌年に起こったジャコバイトの反乱を抑えてスチュアート王家復活の野望をくじくとともに、従来よりハノーバー家の王位継承を積極的に支持していたホイッグ党の有力政治家を閣僚に任命して政治の安定化を図った。英語とイギリスの事情に疎いがゆえに政務を放棄したとの通説は誇張にすぎ、実際には外交、軍事問題にはきわめて積極的で、閣僚との意志の疎通も円滑であった。治世後半はウォルポール政権によって社会が大いに安定した。
[大久保桂子]
ジョージ
じょーじ
Henry George
(1839―1897)
アメリカの経済学者。土地制度改革論者。ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれる。船員になって各地を回ったのち、1857年カリフォルニアに移り、印刷工、新聞通信員、出版業などに従事した。この間、同地での経済発展に伴う地代の増大と貧富の格差の拡大を経験して、主著の『進歩と貧困』Progress and Poverty(1879)を書き、リカード地代論に依拠して、土地が地主に独占された社会においては、社会進歩に伴う富の増大は地主の所得する地代の増大となって彼らに独占され、貧困が存続する一原因になると考えた。それに基づいて彼は、地代をすべて租税として国家が徴収し、労働と資本への課税であるその他の全租税を撤廃すべきであるという土地単一課税を説き、富の偏在の是正と産業発展の促進を主張した。また、82年から2年間イギリスを訪れ、当時のイギリスの社会主義運動、とくにフェビアン協会の設立に影響を及ぼした。なお、86年と97年のニューヨーク市長選挙に立候補し、二度目の選挙戦中に病死した。
[藤田勝次郎]
ジョージ(3世)
じょーじ
George Ⅲ
(1738―1820)
ハノーバー朝第3代のイギリス王(在位1760~1820)。ジョージ2世の孫。大陸で育った先王と異なりイギリスで生まれた彼は、「愛国王」としての自覚をもち、1760年の即位以後、ホイッグ党の有力政治家を退けて親政を開始した。とくに治世初期の数年間は、自らの家庭教師であったビュート伯を重用し、次々と内閣を更迭したため、政界や世論の強い反発を買った。その間、ウィルクス問題や北アメリカ植民地課税問題がおこった。70年にノースを首相としてからは政局は安定をみたが、アメリカ独立革命を押さえることができず、合衆国の独立承認を余儀なくされた。83年にトーリー党のピット(小)を首相に任じて以後は、ピットのカトリック教徒解放政策を拒否するといったことはあったものの、政治の主導権を徐々に失っていった。晩年は精神に異常をきたしたため、1811年以降、皇太子が摂政を務めた。60年に及ぶ彼の治世中に、イギリスは産業革命を体験し大きく変貌(へんぼう)した。
[青木 康]
ジョージ(6世)
じょーじ
George Ⅵ
(1895―1952)
イギリス王(在位1936~1952)。ジョージ5世の次子。エリザベス2世の父。海軍兵学校で学んだのち、海軍に入り、第一次世界大戦にも参加した。1920年代から青少年のための活動に力を注ぎ、1936年、兄のエドワード8世(ウィンザー公)がシンプソン夫人との結婚のために王位を退いたため、国王の座についた。健康にあまり恵まれていなかったが、第二次世界大戦中は王妃とともに国内の各地を訪れて国民を励まし続け、国民の間での声望を大いに高めた。
[木畑洋一]
ジョージ(2世)
じょーじ
George Ⅱ
(1683―1760)
ハノーバー朝第2代のイギリス王(在位1727~60)。1714年、父ジョージ1世とともにイギリスに渡り、皇太子となった。27年に国王となり、治世前半はウォルポールに政権をゆだねた。彼の失脚(1742)後、寵臣(ちょうしん)を重用し、ピット(大)の国務相就任を拒否するなどして一時政局の混乱を招いたが、46年以後、ペラム兄弟を中心とするホイッグ党政府を支持して安定を回復した。その間オーストリア継承戦争では、故国ハノーバーを守るため自ら軍を率いてフランス軍と戦った。七年戦争の開始後はピット(大)に戦争指導をゆだね、戦争終結を待たず病死した。彼の治世は内閣や議会の成長期にあたり、国王の個人的意向によって政治を動かすことがしだいに困難になりつつあった。
[青木 康]
ジョージ(5世)
じょーじ
George V
(1865―1936)
イギリス王(在位1910~36)。エドワード7世の次子。海軍で少年期、青年期を送った。1910年、自由党が優勢な下院と保守党が優位を占める上院との間の争いが激化しているさなかに、父王の死によって王位につき(兄は1892年に死去)、上院の力の削減につながる方策に同意した。第一次世界大戦および戦後にわたる在位期間中、イギリスの政治構造は大きく変化したが、31年の「挙国」内閣の成立に際して彼が積極的役割を演じたことは、国制上の国王の権限をめぐる論議の的となった。なお、在位中(1917)、王家の名がサックス・コーバーグ・ゴータ家からウィンザー家と改称されウィンザー朝となった。
[木畑洋一]
ジョージ(4世)
じょーじ
George Ⅳ
(1762―1830)
ハノーバー朝第4代のイギリス王(在位1820~30)。ジョージ3世の長男。青年期には、父王に反対するホイッグ党の政治家と交わり、カトリック教徒である女性とひそかに結婚するなど、不品行がしばしば問題にされた。1811年に摂政となり、父王の死(1820)後国王となったが、この時期にはホイッグ党の政治家とはすでに疎縁になっており、カトリック教徒解放などの改革政策に強く反対した。正式の后(きさき)キャロラインとの離婚問題では、世論の強い非難を浴びた。
[青木 康]
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ジョージ(1世)
George Ⅰ
1660〜1727
イギリス王(在位1714〜27),ハノーヴァー朝(現ウィンザー朝)の祖
父はドイツのハノーヴァー選帝侯エルンスト=アウグスト,母はジェームズ1世の孫娘ソフィア。1701年の王位継承法にもとづき,14年アン女王の死後ハノーヴァー選帝侯のままイギリス王位についた。英語を知らず,イギリスの政治よりもハノーヴァーの政治・国土に愛着が強く,閣議の司会をやめて国政をホイッグ党のウォルポールらに委ねた。このことから,「王は君臨すれども統治せず」というイギリスの立憲君主制が発展することとなった。
ジョージ(3世)
George Ⅲ
1738〜1820
イギリス王(在位1760〜1820)
ジョージ2世の孫。彼の治世は60年に及んだが,その間にイギリスは産業革命を経験し,社会は大きく変貌した。「王の友」の側近を養成して議会勢力を抑え,首相ノース(トーリー党)によって親政を行った。治世中にアメリカ独立戦争・フランス革命・ナポレオン戦争などがあったが,トーリー党のピット(小)らに助けられて難局を切りぬけた。たびたび精神に異常をきたし,晩年は廃人となり長子(のちのジョージ4世)が摂政となった。
ジョージ(5世)
George Ⅴ
1865〜1936
イギリス王(在位1910〜36)
エドワード7世の次男。在位中,第一次世界大戦が起こり,アイルランドが自治領となった。困難な時代に公正な立憲君主として政治の安定につとめ,よく王室の権威を保った。第一次世界大戦中の1917年,王家の名を敵国ドイツ名のハノーヴァーから,ウィンザーに改めた。
ジョージ(2世)
George Ⅱ
1683〜1760
イギリス王(在位1727〜60)
ジョージ1世の子。治世の前半はウォルポール,後半はピット(大)の指導下に立憲政治が進展。前半は平和な繁栄期であったが,後半はスペイン継承戦争・オーストリア継承戦争・七年戦争を通じて植民地支配を強化した。
ジョージ(6世)
George Ⅵ
1895〜1952
イギリス王(在位1936〜52)
ジョージ5世の次男。エリザベス2世の父。兄エドワード8世がシンプソン夫人との結婚のために退位した後に即位。温厚質実で,第二次世界大戦中も立憲君主としての責任を果たした。
ジョージ(4世)
George Ⅳ
1762〜1830
イギリス王(在位1820〜30)
ジョージ3世の長子。生活は放縦,カトリック教徒解放法の成立に反対したり,離婚そのほかで世論の攻撃を浴び,王権を失墜させた。
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世界大百科事典(旧版)内のジョージの言及
【土地問題】より
…したがって社会改良家あるいは革命家とよばれる人々は,例外なく土地問題の解決を重要な政治綱領だと考え,土地所有権を棄揚すること,あるいは少なくとも土地所有権の絶対性を否定してこれに社会的な介入を行う必要を主張した。たとえば土地の国有化あるいは公有化は,社会主義者の政治綱領にとって欠くことのできないものと考えられ,19世紀末にアメリカ合衆国で大きな反響をよんだヘンリー・ジョージHenry George(1839‐97)や,その影響を強く受けたイギリスのフェビアン協会派の人々,さらに中国革命の父とよばれる孫文らは,土地に対する課税が土地問題の解決に貢献すると主張した。
【現代の土地問題】
地主小作の対立抗争は,現在でも多くの発展途上国において最も深刻な土地問題である。…
【フェビアン協会】より
…協会が採択した《フェビアンの基礎》(1887)は,土地と産業資本の個人的・階級的所有から社会的所有への移行を目標に掲げ,社会主義的世論の普及によってこれを達成するものとした。ショーが編集した《フェビアン社会主義論文集》(1889)は,J.S.ミルやH.ジョージの,社会進歩の結果得られる不労所得としての地代(レント)概念を拡大して資本の利潤に適用し,〈経済レント〉論を展開して,生産手段の社会化によるレントの社会化を提唱した。マルクスの剰余価値概念をレントで置き換えたように,階級史観に代わって社会進化論をとり,民主的,漸進的,平和的な社会の有機的変化を強調し,個人でなく集団を自然淘汰の基礎とみなし,共通の善のための自覚的調整・適応を説いた。…
【民生主義】より
…1896‐97年ヨーロッパ亡命中の孫文が先進資本主義国における資本主義の弊害,富の分配の不公平に基づく社会問題の発生をまのあたりに見て,将来中国でも起こるであろう社会問題を未然に防止するために構想した。1905年(光緒31)中国同盟会の結成とともに初めて民族・民権・民生が三大主義と名づけて発表され,[H.ジョージ]の土地単税論の影響を受けた〈地権平均〉(土地の申告価格に基づいて課税し,地価上昇分を国家に納め国民全体に還元する)を民生主義の最も重要な内容とした。辛亥革命後の12年〈地権平均〉と並んで〈[資本節制]〉が主要な内容として採り入れられ,24年には中国国民党第1回全国代表大会宣言で労働者農民への援助の方針が加えられ,また〈耕す者に田を〉の主張が掲げられて地主制廃止の方向が明確に示された。…
※「ジョージ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」