礪波郡(読み)となみぐん

日本歴史地名大系 「礪波郡」の解説

礪波郡
となみぐん

越中国の南西部に位置。西は宝達ほうだつ山系の倶利伽羅くりからの山並で加賀国、南は庄川上流の五箇山ごかやまで飛騨国と境し、東はうし岳から北へ延びる山地(庄東山地)を境として婦負ねい郡に接する。三方をこれらの山並に囲まれた礪波平野はおのずから半盆地状のまとまった地域を形成し、射水いみず平野が北に続く。飛騨の分水嶺山脈から流れ出る庄川は、五箇山を通って現庄川しようがわ金屋かなやで山峡を離れ、礪波平野の東端を北流して富山湾へ注ぐ。右岸四用水、左岸八用水によって庄川扇状地を潤す。平野の西端を流れる小矢部おやべ川はその受皿となり、さらに本流と各用水をさかのぼって舟運に利用された。江戸時代の郡域は現在の東礪波郡八町村・西礪波郡二町・小矢部市・砺波となみ市・高岡市南部にあたる。利波とも表記された。

〔古代〕

郡名は、平城宮跡出土の木簡に「(表)越中国利波郡川上里鮒雑」「(裏)一斗五升和銅三年正月十四日」とあるのが早く、「万葉集」巻一九にも「利波山」がみえる。「礪波」字は、「万葉集」巻一七の題詞「礪波郡雄神河辺作歌一首」をはじめ、天平宝字三年(七五九)一一月一四日の東大寺越中国諸郡庄園総券(東南院文書)、同日の礪波郡伊加流伎開田地図(正倉院蔵)などにみえる。礪波や利波の訓は「和名抄」東急本の国郡部に「止奈美」、「万葉集」巻一七・巻一八に「刀奈美」とある。「続日本紀」大宝二年(七〇二)三月一七日条に「分越中国四郡属越後国」とみえるが、これらの諸「郡」は大宝令の規定によって成立したものであり、それ以前は「評」と呼称された。越中国内の当郡も利波評として存立した可能性が高い。利波評について、越中石黒系図(石黒定治家蔵)中の「利波臣氏の系図」では、大河音宿禰の孫とされる波利古はりこ臣に「賜利波評」、その子孫の財古たからこ臣に「為利波評督」と記し、後世作成の系図(写本)ではあるが、郡制以前に「利波評」の呼称が存在したことを伝える点で注目される。奈良時代の越中国守大伴家持は、天平二〇年(七四八)春、出挙のため諸郡を巡行したさい礪波郡の雄神おがみ川辺りで「雄神川紅にほふ少女らし葦附採ると瀬に立たすらし」(「万葉集」巻一七)の歌を、天平勝宝二年(七五〇)二月、墾田地の検察のため礪波郡主帳多治比部北里家に宿ったさい「波の里に宿借り春雨に隠り障むと妹に告げつや」(同書巻一八)の歌を作っている。

「和名抄」では郡内の郷として、川上かわかみ八田やた川合かわあい拝師はやし長岡なかおか大岡おおおか高楊たかやき陽知やち三野みの意悲おい大野おおの小野おのの一二郷がみえ、等級は「養老令」が規定する上郡に相当する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報