西奥村
にしおくむら
矢野庄例名(京都東寺領)内の村名。現矢野町榊を含む一帯に比定する説、矢野町瓜生・菅谷一帯に比定する説がある。建武二年(一三三五)五月一七日の雑訴決断所牒(南禅寺文書)に「矢野庄例名内西奥村海老名七郎跡」とみえ、建武新政権は那波浦とともに西奥村を京都南禅寺に安堵した。しかし海老名氏方がそれに抵抗したらしく、南禅寺は室町幕府に対して訴訟を起こしているが、幕府は暦応元年(一三三八)海老名氏に陳弁させ(同年一〇月六日「室町幕府引付頭人散位某奉書」同文書など)、南禅寺側は当地に対して支配を及ぼすことができなかったと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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