日本歴史地名大系 「相生市」の解説 相生市あいおいし 面積:九〇・四三平方キロ県の南西部、東は龍野市・揖保(いぼ)郡揖保川(いぼがわ)町および同郡御津(みつ)町、西は赤穂市・赤穂郡上郡(かみごおり)町、北は揖保郡新宮(しんぐう)町に接し、南は播磨灘に面する。北境に三濃(みのう)山(五〇八・六メートル)があり、同山地を源流とする矢野(やの)川・小河(おうご)川が南流し、流域に狭小な河谷平地が開けている。南部は苧谷(おこく)川・鮎帰(あゆかえり)川流域で両川は相生湾に注ぐ。相生湾は約四キロ湾入した天然の良港である。〔原始・古代〕縄文時代の遺跡は後期の佐方(さがた)遺跡・壺根(つぼね)遺跡がある。弥生時代の遺跡は市域西部に集中し、中期後半の野々宮(ののみや)遺跡や奥野山(おくのやま)遺跡がある。古墳時代の遺跡は、東部の那波野(なばの)および佐方にまとまっている。那波野地区の前・中期古墳は、池(いけ)ノ上(かみ)・大塚(おおつか)ハザ・塚森(つかもり)各古墳などがあり、佐方地区では佐方一号墳・同二号墳がある。後期および終末期古墳には巨石石室墳の那波野古墳、石棺式石室の影響を受けた若狭野(わかさの)古墳がある。なお播磨最古の那波野丸山(なばのまるやま)窯跡をはじめ、奈良時代の光明山(こうみようさん)窯跡ほか市域全域に約一三〇基の窯跡があり、平安時代後期まで生産が行われていた。古代は赤穂郡八野(やの)郷(和名抄)が市域に含まれていた。相生湾の最奥の那波浦は「万葉集」に日置少老・山部赤人が詠んだ「縄の浦」に比定する説がある。矢野町森の磐座(やのちようもりのいわくら)神社は竜王(りゆうおう)山の岩峰を神体とし、古代にさかのぼる古社と考えられる。なお市域には秦氏にまつわる伝承が多く、秦河勝を祭神とする大避(おおさけ)神社が近世まで市内に六社存在した(相生市史)。古代官道の大路である山陽道(古山陽道)が矢野町二木(やのちようふたつぎ)から椿(つばき)峠にかけて横断していたが、市内に駅家は置かれていない。古代―中世の土地区画の遺構を示す条里地割が若狭野町八洞(わかさのちようはつとう)・出(で)・福井(ふくい)各地区に六四町と北部の二木地区に四町確認されている。一一世紀に播磨大掾秦為辰によって開発されたという久富(ひさとみ)保は播磨守藤原顕季からその孫娘美福門院に相伝され、矢野庄となった。〔中世〕保延三年(一一三七)に矢野庄が成立。成立時には田畠一六三町余と那波野・佐方野・莇(あぞ)野と雨内(あまうち)野からなり、矢野川沿いに田畠が開かれ、その周辺と相生湾沿岸に原野が広がる庄園であった(一〇月二三日「矢野庄立券文案」白河本東寺百合古文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「相生市」の意味・わかりやすい解説 相生〔市〕あいおい 兵庫県南西部,播磨灘にのぞむ相生湾岸にある市。北部は山地で,平野部は海岸沿いに東西にのびる。 1942年市制。 54年若狭野村,矢野村を編入。湾奥にある中心市街地の相生は,那波浦,相生浦の二つの風待ち港で知られたところで,1908年造船所が設立され,以後造船業の発達に伴う湾内の埋立てと施設の拡充,51年の国鉄赤穂線の分岐,60年からの陸上部門の機械類の生産開始などで重工業都市化が進展。 1960年代前半から国道2号線沿いの住宅地化も進んだ。相生湾口の金ヶ崎,釜崎,鰯浜,君島一帯は瀬戸内海国立公園に属する景勝地。北部の山岳地帯は西播丘陵県立自然公園に属し,矢野川上流部の瓜生には五百羅漢の石仏がある。山陽新幹線,JR山陽本線の相生駅は赤穂線の起点。山陽自動車道,国道2号線,250号線が通る。面積 90.40km2。人口 2万8355(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by