南禅寺(読み)なんぜんじ

精選版 日本国語大辞典 「南禅寺」の意味・読み・例文・類語

なんぜん‐じ【南禅寺】

京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山。山号は瑞龍山。正称は太平興国南禅禅寺亀山上皇の離宮禅林寺殿にはじまる。正応四年(一二九一無関普門を開山として禅寺に改め、龍安山禅林禅寺と称した。建武元年(一三三四)後醍醐天皇によって五山の首位に列せられ、至徳三年(一三八六)には足利義満によって京・鎌倉両五山の上に位する禅寺最高の寺格とされた。石川五右衛門が隠れたという俗説をもつ山門(三門)は藤堂高虎が寄進した禅宗式の大楼門。国宝の方丈はもと清涼殿を移築した大方丈と桃山城の遺構である小方丈に分かれ、狩野元信・永徳・探幽らの襖(ふすま)絵で飾られている。小堀遠州作の「虎の子渡しの庭」と呼ばれる方丈の庭は国名勝。

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デジタル大辞泉 「南禅寺」の意味・読み・例文・類語

なんぜん‐じ【南禅寺】

京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の大本山。正しくは太平興国南禅禅寺。山号は瑞竜山。正応4年(1291)無関普門を開山とし、亀山法皇の離宮を寺としたのに始まる。足利義満のとき、五山の別格上位に列せられた。藤堂高虎造営の三門、国宝の方丈などのほか、小堀遠州の作と伝える枯山水庭園がある。江戸初期に以心崇伝が住した金地院をはじめ塔頭たっちゅうも多い。

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日本歴史地名大系 「南禅寺」の解説

南禅寺
なんぜんじ

[現在地名]左京区南禅寺福地町

東山山麓、旧東海道が東山にかかる蹴上けあげの北東に位置する。臨済宗南禅寺派の大本山。瑞竜山と号し、太平興国南禅禅寺という。本尊は聖観音。庭園は国の史跡・名勝に指定されている。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔成立〕

寺伝によればこの地は古く福地ふくちとよばれ、園城おんじよう(三井寺、現滋賀県大津市)別院の最勝光さいしようこう院の所在地であった。のち同院は衰退、文永元年(一二六四)亀山天皇が母大宮院の御所として離宮禅林寺ぜんりんじ殿を造営(「外記日記」伏見宮御記録)、正応四年(一二九一)殿を禅寺に改め竜安山禅林禅寺としたのが南禅寺の起源である。この禅寺の成立について暦応二年(一三三九)虎関師錬著の「文応皇帝外記」は、正応三年から翌四年にかけ禅林寺殿で最勝光院に住した者の死霊が出没、亀山法皇は奈良西大寺の叡尊を請じたが祈祷の験なく、京都東福寺三世の無関普門を招いたら妖怪は鎮まった。そこで法皇は普門に師事、普門を開山とする禅寺を創立したと記す。正応四年一二月に普門が没し、翌五年規庵祖円が二世として入寺、本格的伽藍の建立が開始された。永仁元年(一二九三)一一月に最初の堂宇として仏殿(金剛王宝殿)が完成(天下南禅寺記)、同三年には「家君御参禅林寺殿、宗氏朝臣同車、予同参、今日僧堂并明籠等柱立也、是堂御草創之故也、三門今出川相国可造進云々、今日事始也」と、僧堂・明楼の立柱、三門の立柱式が行われ(「実躬卿記」三月二四日条)、次いで昭堂・明楼・茶堂が完成、最後に法堂が落成した(南院国師語録)。主要伽藍のほぼ完成した永仁七年三月五日亀山法皇は「禅林禅寺起願事」の願文(南禅寺文書)を記し、禅寺としての基盤が確立された。

願文には創建に至る法皇の心情、衆生の利生を目的とすること、寺領三ヵ所のこと、長老職は門流によらず器量の僧を選ぶべきことなどがみえる。ことに住持に「選器量卓抜」と記すのは、普門が東福寺法嗣にあったため南禅寺が東福寺末となるのを避けたからで、以後当寺には三世の一山一寧(一山派)、四世の絶崖宗卓(大応派)、五世の約翁徳倹(大覚派)など各門流から住持が選出されている(南禅寺史)。現在の南禅寺の寺名は弘安一〇年(一二八七)一〇月七日に離宮禅林寺殿のうちに一宇が新築され、従来からの離宮を下御所、新造の御殿を上御所(松下殿)とよび、上御所に営まれた持仏堂を南禅院と名付けたことに由来する(勘仲記)。「実躬卿記」嘉元二年(一三〇四)一一月五日条には「自六条院門下、御入御方丈 南禅寺禅林寺長老如鏡上人」と併記されるが、徳治三年(一三〇八)七月一九日の後宇多上皇院宣(南禅寺文書)には「加賀国得南・益延・長恒三名、為得橋郷加納、所被寄附南禅寺也、永代更不可有相違、者院宣如此、仍執達如件」と明確に寺名として記される。

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改訂新版 世界大百科事典 「南禅寺」の意味・わかりやすい解説

南禅寺 (なんぜんじ)

京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の総本山。瑞竜山と号し,正式には太平興国南禅禅寺という。1264年(文永1)亀山天皇は現寺地の東山山麓に離宮を営んで禅林寺殿と称したが,のちに禅宗に帰依し,91年(正応4)東福寺3世の無関普門(むかんふもん)(大明国師)を開山に招いて,この離宮を寺に改めた。これが当寺の起源である。だが普門はその年に入滅,ために翌年規庵祖円(きあんそえん)(南院国師)が入寺し,勅を受けて伽藍造営に着手した。93年(永仁1)仏殿,95年僧堂,次いで三門や法堂(はつとう)などが相次いで完成し,14世紀初頭には七堂伽藍が完備した。開創当初は寺名を竜安山禅林禅寺と号したが,造営途次の正安年間(1299-1302)ごろ,現山寺号に改称した。天皇は1299年(永仁7)〈禅林寺御起願文案〉を草し,寺領に遠江国初倉荘,加賀国小坂荘,筑前国宗像(むなかた)荘を寄せ,また住持は開山の法流に限ることなく,人材を広く禅宗界全体に求め,器量と才知の人を補任すること,すなわち十方住持制を定めた。以来,当寺は亀山天皇の皇統である大覚寺統が管領する寺として建武新政を迎え,次いで新政が崩壊すると室町将軍家支配の官寺として中世を推移した。

 寺格は後醍醐天皇が1334年(建武1)大徳寺とともに五山第1位に定め,足利義満が86年(元中3・至徳3)京都・鎌倉両五山の上に位置する〈五山之上(ござんしじよう)〉に昇格させたので,以後当寺は中世禅宗界最高の地位を占めるにいたった。この最高の寺格と十方住持制により,歴代住持には臨済界きっての名僧が輩出,とくに室町前期に黄金時代が現出した。しかし,1393年(明徳4)と1447年(文安4)大火災にあい,さらに67年(応仁1)兵火で全山烏有に帰した。室町幕府の衰微もあって,中世末には諸国の寺領も武士に押領され,復興も進まず寺勢は衰えた。近世になって,玄圃霊三(げんぽれいさん),以心崇伝(すうでん)が豊臣秀吉徳川家康の援助を受けて再建をすすめ,17世紀初頭に法堂,方丈,三門など諸堂を再建し,諸塔頭(たつちゆう)も整備され,ようやく昔日の山容を復元した。江戸時代の寺領は892石余で推移し,明治維新で大きな打撃を受け,とくに多くの塔頭が廃滅した。現在,山内塔頭に鎌倉期の庭園で有名な南禅院,細川幽斎が復興した天授庵山名宗全が建立した真乗院,黒衣の宰相といわれた以心崇伝が中興した金地院(こんちいん),元禄時代(1688-1704)から名物の湯豆腐を供する聴松(ちようしよう)院など11ヵ寺があり,また全国に末寺400余を数える。
執筆者:

伽藍は西を正面とし,背後に東山を負う。勅使門(重要文化財)は慶長度の内裏日御門を移したもの。三門(1628,重要文化財)は五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊をもち,禅宗(唐)様からなる三門正規の形式の雄大な建築。方丈(桃山期,国宝)は大方丈と小方丈からなる。大方丈は天正度の内裏清涼殿を移建したものとみとめられ,平面は6室に分かれ,中央南の御昼の間は清涼殿時代に昼の御座であった御帳の間の別称を残しており,広縁の欄間彫刻,天井,板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝える遺構である。内部の障壁画(重要文化財)は124面を数え,桃山前期の狩野派の手になるとされる。小方丈は伏見城の遺構というが確かではなく,内部に伝探幽筆の《群虎図》(重要文化財)40枚があり,〈虎の間〉の名がある。大方丈前面の庭園は俗に〈虎の子渡しの庭〉と呼ばれ,小堀遠州の作と伝える。寺宝として南禅寺創建の経緯を記した〈亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案〉(1299,国宝),開山の頂相《大明国師像》(重要文化財)などがある。塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため,別格に扱われる。以心崇伝が住した金地院には重要文化財建築や寺宝が多い。天授庵には《細川幽斎像・同夫人像》など,聴松院には《細川蓮丸像》,法皇寺には《約翁徳倹像》の重要文化財絵画がある。
執筆者:

南禅寺 (なんぜんじ)
Nán chán sì

中国,山西省五台山李家庄にある仏寺。寺の規模は小さく,大殿は1953年の調査で発見された中国に現存する最古の木造建築で,唐の建中3年(782)の建立。寺の創建は唐代と伝えられ,小寺であったために〈会昌の滅法〉(845)を免れたらしい(三武一宗の法難)。大殿は低い基壇の上に立ち,前面に月台があり,間口3間(11.75m),奥行3間(10m),入母屋造の小さな建物である。梁下端の墨書により建立年代,および宋の元祐1(1086)に大修理されて柱の一部が取り換えられたことが知られ,また明・清時代にも部分修理が行われているが,基本的には原型をとどめる。屋根勾配は緩やかで,構架は虹梁,叉首(さす),通肘木,蟇股(かえるまた)からなり,斗栱(ときよう)は二手先で,初期の木造建築に特有の簡素な形式である。殿内の塼(せん)積み須弥壇上には釈迦如来,文殊・普賢菩薩,阿難・迦葉2弟子等,唐代の塑像17軀が立ち並ぶ。1974-75年,解体復原修理が行われ,面目を一新した。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南禅寺」の意味・わかりやすい解説

南禅寺
なんぜんじ

京都市左京区南禅寺福地町にある臨済(りんざい)宗南禅寺派の大本山。正式には瑞竜(ずいりょう)山大平興国(たいへいこうこく)南禅禅寺といい、京都五山の首位にたつ禅寺である。1291年(正応4)亀山(かめやま)上皇が離宮を改めて建てた寺で、初め竜安山禅林禅寺と称していたが、南禅寺とするにあたって東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)の法を継いだ無関普門(むかんふもん)(仏心(ぶっしん)禅師、大明(たいみん)国師)を招いて開山とした。門下の規庵祖円(きあんそえん)が第2世となってこの寺の基礎を築いた。1299年(正安1)亀山上皇の勅命で諸山の禅僧のうちでとくに優れた者を住持させることになってからは、第3世一山一寧(いっさんいちねい)、第5世約翁徳倹(やくおうとくけん)、第9世夢窓疎石(むそうそせき)、第15世虎関師錬(こかんしれん)、第39世春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、第44世義堂周信(ぎどうしゅうしん)などの名僧が入山した。南禅寺の社会的な地位はきわめて高く、1335年(建武2)に京都五山の第一とされ、1383年(弘和3・永徳3)に足利義満(あしかがよしみつ)が京都鎌倉五山十刹(じっさつ)の制度をつくった際には、天下第一位として五山の上に置かれた。歴代の朝廷や足利、豊臣(とよとみ)、徳川諸家の保護を受け、江戸時代には第270世以心崇伝(いしんすうでん)が幕府の信任を受けて寺社関係の政策をつかさどり、1615年(元和1)寺社奉行(ぶぎょう)の前身である僧録司(そうろくし)となった。

 諸堂伽藍(がらん)は1467年(応仁1)までに数度の火災で焼失し、山門(三門)、法堂(はっとう)、方丈、勅使門など現存の建物は安土(あづち)桃山時代以後の建造物である。山門(国重要文化財)は1628年(寛永5)大坂夏の陣に倒れた将士の菩提(ぼだい)を弔うため藤堂高虎(とうどうたかとら)によって再建されたもので、天下竜門といい、上層の楼を五鳳楼(ごほうろう)とよぶ。また歌舞伎(かぶき)の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の石川五右衛門(ごえもん)の伝説で有名。方丈(国宝)は大方丈と小方丈に分かれている。大方丈は1611年(慶長16)後陽成(ごようぜい)天皇より下賜された旧清涼殿(一説には正親町(おおぎまち)院御所対面所)を移建したもので、各室には狩野元信(かのうもとのぶ)・永徳(えいとく)筆と伝える豪華な桃山式の襖絵(ふすまえ)がある。小方丈は旧伏見(ふしみ)城の遺構で、狩野探幽(たんゆう)筆と伝える襖絵『水呑(みずのみ)の虎(とら)の図』は名高い。大方丈南面の庭園は慶長(けいちょう)年間(1596~1615)小堀遠州作と伝える禅院式枯山水(かれさんすい)庭園で、巨石の姿から俗に「虎の子渡しの庭」とよばれる。北側には宗徧(そうへん)流の茶室不識庵(ふしきあん)があり、露地を囲む竹垣は南禅寺垣といわれる。寺宝には、亀山天皇宸翰(しんかん)禅林寺御起願文案(国宝)をはじめ、開山の『頂相(ちんぞう)大明国師像』、『釈迦(しゃか)十六善神画像』、『薬山李翺(やくさんりこう)問答図』、『江山漁舟図』(蒋三松筆)、『達磨(だるま)像』(祥啓筆)などの絵画、彫刻では木造聖観音(しょうかんのん)立像、工芸では鎌倉彫牡丹模様香盒(ぼたんもようこうごう)(以上、重文)などがある。

 塔頭(たっちゅう)は現在、金地(こんち)院、天授(てんじゅ)庵、帰雲(きうん)院、光雲(こううん)寺、聴松(ちょうしょう)院、真乗(しんじょう)院、高徳(こうとく)庵、法皇(ほうこう)寺、慈氏(じし)院、正因(しょういん)庵、正的(しょうてき)院、南陽(なんよう)院の12院がある。金地院には『渓陰小築(けいいんしょうちく)図』『秋景冬景山水図』二幅(ともに国宝)などや、小堀遠州が崇伝の依頼を受けて設計した茶室八窓(はっそう)席(重文)がある。また、別院南禅院は離宮禅林寺殿の「上の宮」遺跡で、南禅寺発祥の地といわれている。

[菅沼 晃]

『桜井景雄著『南禅寺史』(1977・法蔵館)』『荻須純道著『日本中世禅宗史』(1976・木耳社)』『『古寺巡礼 京都12 南禅寺』(1977・淡交社)』


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百科事典マイペディア 「南禅寺」の意味・わかりやすい解説

南禅寺【なんぜんじ】

京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派大本山。山号は瑞竜山。最勝院とも称す。本尊聖観音。1291年亀山上皇がその離宮を寺に改め,無関普門〔1212-1291〕を開基とした。1334年後醍醐天皇により京都五山の第1位とされ,足利義満は天下第一とし,五山の上に置いた。1467年応仁の乱による焼失などで荒廃。豊臣・徳川氏の外護により再興した。三門は階上に釈迦・十六羅漢を蔵し,方丈は清涼殿を移したものと伝え,襖絵(ふすまえ)は狩野派のもの。また水墨画,仏画を多数蔵する。塔頭(たっちゅう)は12院あるが,金地院(こんちいん)は江戸時代五山の僧録の住所で,方丈は伏見城の遺構であり襖絵が名高く,八窓席の茶室は庭園(名勝)とともに小堀遠州作。
→関連項目異国日記義堂周信京都[市]玉【えん】梵芳倉月荘左京[区]障壁画橘御薗初倉荘本光国師日記妙心寺矢野荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「南禅寺」の解説

南禅寺
なんぜんじ

京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の大本山。瑞竜山と号す。正式には太平興国南禅禅寺。開山は無関普門(むかんふもん)。亀山天皇が1264年(文永元)に母大宮(おおみや)院の御所として離宮禅林寺殿を造営したが,91年(正応4)禅寺に改め,竜安山禅林禅寺としたのが始まり。14世紀初めには南禅寺が正式の寺名となる。1334年(建武元)に五山の第1位となり,86年(至徳3・元中3)には五山の上に位置づけられた。1467年(応仁元)兵火で全山焼失し,のちに再建されたが,明治期の神仏分離によって大打撃をうけた。方丈は国宝,三門・勅使門は重文。「禅林寺御起願文案」(国宝),南禅寺一切経・木造聖観音立像(ともに重文)などがある。境内は国史跡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南禅寺」の意味・わかりやすい解説

南禅寺
なんぜんじ

京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の本山。亀山上皇が正応4 (1291) 年頃離宮 (禅林寺殿) を寺とし,無関普門 (大明国師) を開山とした。鎌倉・室町時代には官寺として五山の首位の寺格をもった。明徳4 (1393) 年,文安4 (1447) 年,応仁1 (67) 年の火災で伽藍の大部分を焼失。現在の伽藍は慶長 10 (1605) 年に崇伝が再興したもの。天正内裏の清涼殿を同 15年に移建した大方丈 (国宝) には,伝狩野永徳筆の『二十四孝図』その他の襖絵の名品がある。また庭園は小堀遠州の作と伝えられ,俗に「虎の子渡し」の名がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「南禅寺」の解説

南禅寺
なんぜんじ

京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の本山
鎌倉末期に亀山天皇が創建,無関普門 (むかんふもん) が開創。1334年五山第1位となり,'86年には京都五山・鎌倉五山の上に置かれ禅宗最高の寺格を与えられた。火災のため一時衰えたが,江戸初期に金地院崇伝らによって再興された。

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デジタル大辞泉プラス 「南禅寺」の解説

南禅寺

京都府京都市左京区にある寺院。臨済宗南禅寺派大本山。正称は「瑞龍(ずいりょう)山大平興国南禅禅寺」。京都五山・鎌倉五山の上位に列せられる別格本山。1291開山。境内は国の史跡、方丈庭園は国の名勝、方丈は国宝に指定。

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事典 日本の地域遺産 「南禅寺」の解説

南禅寺

(京都府京都市左京区南禅寺福地町)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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世界大百科事典(旧版)内の南禅寺の言及

【以心崇伝】より

…足利義輝の近臣一色藤長の孫。足利氏滅亡のとき父秀勝に死別し,京都南禅寺に入って玄圃霊三に師事する。かたわら醍醐三宝院に学び,相国寺の西笑承兌にも教えを受け,のち南禅寺金地院の靖叔徳林についてその法嗣となった。…

【京都五山】より

鎌倉五山に対し,京都にある臨済宗の大禅刹,すなわち南禅寺・天竜寺・相国(しようこく)寺・建仁寺・東福寺・万寿寺をいう。中国南宋代の五山官寺制度が,日本に移植されたのは鎌倉時代末期のことで,はじめは建長寺・円覚寺など鎌倉の大禅刹をもって五山としていた。…

【金地院】より

…京都市左京区にある臨済宗南禅寺の塔頭(たつちゆう)。徳川家康の側近として幕府の政治の枢機に列した黒衣(こくえ)の宰相,以心崇伝が住んだ寺である。…

【初倉荘】より

…美福門院が亡くなると,娘の八条院子に伝領され,大覚寺統の最重要所領たる八条院領の一つとなった。1299年(正安1)亀山上皇によって南禅寺に寄進され,以後南禅寺領として戦国時代に至る。南禅寺の初倉荘支配は主として守護被官による代官請であり,国人領主層の蚕食が繰り返されて,その支配は不安定であった。…

【無関普門】より

…この間,亀山法皇は深く無関に帰依し,91年(正応4)離宮禅林寺殿を禅院に改め,無関を開山に請じた。これが南禅寺である。彼は東福寺と南禅寺を両摂したが,その年の12月12日東福寺において没した。…

【寺院建築】より

…唐代以前の寺院建築は,会昌の廃仏(三武一宗の法難)や火災などでほとんど失われ,今日に伝わるものはきわめて少ないが,晩唐以降の木造寺院建築遺構は,都城,宮殿,壇廟の古い実例が残存しない中国建築の,様式,技術的発展を知るうえでの限られた貴重な資料である。現存する木造の遺構では,小規模ながら南禅寺大殿(山西省五台山。唐,782),広仁王廟大殿(山西省芮城。…

※「南禅寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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