東山山麓、旧東海道が東山にかかる
〈京都・山城寺院神社大事典〉
寺伝によればこの地は古く
願文には創建に至る法皇の心情、衆生の利生を目的とすること、寺領三ヵ所のこと、長老職は門流によらず器量の僧を選ぶべきことなどがみえる。ことに住持に「選器量卓抜」と記すのは、普門が東福寺法嗣にあったため南禅寺が東福寺末となるのを避けたからで、以後当寺には三世の一山一寧(一山派)、四世の絶崖宗卓(大応派)、五世の約翁徳倹(大覚派)など各門流から住持が選出されている(南禅寺史)。現在の南禅寺の寺名は弘安一〇年(一二八七)一〇月七日に離宮禅林寺殿のうちに一宇が新築され、従来からの離宮を下御所、新造の御殿を上御所(松下殿)とよび、上御所に営まれた持仏堂を南禅院と名付けたことに由来する(勘仲記)。「実躬卿記」嘉元二年(一三〇四)一一月五日条には「自六条院門下、御入御方丈 南禅寺禅林寺長老如鏡上人」と併記されるが、徳治三年(一三〇八)七月一九日の後宇多上皇院宣(南禅寺文書)には「加賀国得南・益延・長恒三名、為得橋郷加納、所被寄附南禅寺也、永代更不可有相違、者院宣如此、仍執達如件」と明確に寺名として記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の総本山。瑞竜山と号し,正式には太平興国南禅禅寺という。1264年(文永1)亀山天皇は現寺地の東山山麓に離宮を営んで禅林寺殿と称したが,のちに禅宗に帰依し,91年(正応4)東福寺3世の無関普門(むかんふもん)(大明国師)を開山に招いて,この離宮を寺に改めた。これが当寺の起源である。だが普門はその年に入滅,ために翌年規庵祖円(きあんそえん)(南院国師)が入寺し,勅を受けて伽藍造営に着手した。93年(永仁1)仏殿,95年僧堂,次いで三門や法堂(はつとう)などが相次いで完成し,14世紀初頭には七堂伽藍が完備した。開創当初は寺名を竜安山禅林禅寺と号したが,造営途次の正安年間(1299-1302)ごろ,現山寺号に改称した。天皇は1299年(永仁7)〈禅林寺御起願文案〉を草し,寺領に遠江国初倉荘,加賀国小坂荘,筑前国宗像(むなかた)荘を寄せ,また住持は開山の法流に限ることなく,人材を広く禅宗界全体に求め,器量と才知の人を補任すること,すなわち十方住持制を定めた。以来,当寺は亀山天皇の皇統である大覚寺統が管領する寺として建武新政を迎え,次いで新政が崩壊すると室町将軍家支配の官寺として中世を推移した。
寺格は後醍醐天皇が1334年(建武1)大徳寺とともに五山第1位に定め,足利義満が86年(元中3・至徳3)京都・鎌倉両五山の上に位置する〈五山之上(ござんしじよう)〉に昇格させたので,以後当寺は中世禅宗界最高の地位を占めるにいたった。この最高の寺格と十方住持制により,歴代住持には臨済界きっての名僧が輩出,とくに室町前期に黄金時代が現出した。しかし,1393年(明徳4)と1447年(文安4)大火災にあい,さらに67年(応仁1)兵火で全山烏有に帰した。室町幕府の衰微もあって,中世末には諸国の寺領も武士に押領され,復興も進まず寺勢は衰えた。近世になって,玄圃霊三(げんぽれいさん),以心崇伝(すうでん)が豊臣秀吉,徳川家康の援助を受けて再建をすすめ,17世紀初頭に法堂,方丈,三門など諸堂を再建し,諸塔頭(たつちゆう)も整備され,ようやく昔日の山容を復元した。江戸時代の寺領は892石余で推移し,明治維新で大きな打撃を受け,とくに多くの塔頭が廃滅した。現在,山内塔頭に鎌倉期の庭園で有名な南禅院,細川幽斎が復興した天授庵,山名宗全が建立した真乗院,黒衣の宰相といわれた以心崇伝が中興した金地院(こんちいん),元禄時代(1688-1704)から名物の湯豆腐を供する聴松(ちようしよう)院など11ヵ寺があり,また全国に末寺400余を数える。
執筆者:藤井 学
伽藍は西を正面とし,背後に東山を負う。勅使門(重要文化財)は慶長度の内裏日御門を移したもの。三門(1628,重要文化財)は五間三戸二階二重門の規模で左右に山廊をもち,禅宗(唐)様からなる三門正規の形式の雄大な建築。方丈(桃山期,国宝)は大方丈と小方丈からなる。大方丈は天正度の内裏清涼殿を移建したものとみとめられ,平面は6室に分かれ,中央南の御昼の間は清涼殿時代に昼の御座であった御帳の間の別称を残しており,広縁の欄間彫刻,天井,板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝える遺構である。内部の障壁画(重要文化財)は124面を数え,桃山前期の狩野派の手になるとされる。小方丈は伏見城の遺構というが確かではなく,内部に伝探幽筆の《群虎図》(重要文化財)40枚があり,〈虎の間〉の名がある。大方丈前面の庭園は俗に〈虎の子渡しの庭〉と呼ばれ,小堀遠州の作と伝える。寺宝として南禅寺創建の経緯を記した〈亀山天皇宸翰禅林寺御起願文案〉(1299,国宝),開山の頂相《大明国師像》(重要文化財)などがある。塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため,別格に扱われる。以心崇伝が住した金地院には重要文化財建築や寺宝が多い。天授庵には《細川幽斎像・同夫人像》など,聴松院には《細川蓮丸像》,法皇寺には《約翁徳倹像》の重要文化財絵画がある。
執筆者:谷 直樹
中国,山西省五台山李家庄にある仏寺。寺の規模は小さく,大殿は1953年の調査で発見された中国に現存する最古の木造建築で,唐の建中3年(782)の建立。寺の創建は唐代と伝えられ,小寺であったために〈会昌の滅法〉(845)を免れたらしい(三武一宗の法難)。大殿は低い基壇の上に立ち,前面に月台があり,間口3間(11.75m),奥行3間(10m),入母屋造の小さな建物である。梁下端の墨書により建立年代,および宋の元祐1(1086)に大修理されて柱の一部が取り換えられたことが知られ,また明・清時代にも部分修理が行われているが,基本的には原型をとどめる。屋根勾配は緩やかで,構架は虹梁,叉首(さす),通肘木,蟇股(かえるまた)からなり,斗栱(ときよう)は二手先で,初期の木造建築に特有の簡素な形式である。殿内の塼(せん)積み須弥壇上には釈迦如来,文殊・普賢菩薩,阿難・迦葉2弟子等,唐代の塑像17軀が立ち並ぶ。1974-75年,解体復原修理が行われ,面目を一新した。
執筆者:田中 淡
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京都市左京区南禅寺福地町にある臨済(りんざい)宗南禅寺派の大本山。正式には瑞竜(ずいりょう)山大平興国(たいへいこうこく)南禅禅寺といい、京都五山の首位にたつ禅寺である。1291年(正応4)亀山(かめやま)上皇が離宮を改めて建てた寺で、初め竜安山禅林禅寺と称していたが、南禅寺とするにあたって東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)の法を継いだ無関普門(むかんふもん)(仏心(ぶっしん)禅師、大明(たいみん)国師)を招いて開山とした。門下の規庵祖円(きあんそえん)が第2世となってこの寺の基礎を築いた。1299年(正安1)亀山上皇の勅命で諸山の禅僧のうちでとくに優れた者を住持させることになってからは、第3世一山一寧(いっさんいちねい)、第5世約翁徳倹(やくおうとくけん)、第9世夢窓疎石(むそうそせき)、第15世虎関師錬(こかんしれん)、第39世春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、第44世義堂周信(ぎどうしゅうしん)などの名僧が入山した。南禅寺の社会的な地位はきわめて高く、1335年(建武2)に京都五山の第一とされ、1383年(弘和3・永徳3)に足利義満(あしかがよしみつ)が京都鎌倉五山十刹(じっさつ)の制度をつくった際には、天下第一位として五山の上に置かれた。歴代の朝廷や足利、豊臣(とよとみ)、徳川諸家の保護を受け、江戸時代には第270世以心崇伝(いしんすうでん)が幕府の信任を受けて寺社関係の政策をつかさどり、1615年(元和1)寺社奉行(ぶぎょう)の前身である僧録司(そうろくし)となった。
諸堂伽藍(がらん)は1467年(応仁1)までに数度の火災で焼失し、山門(三門)、法堂(はっとう)、方丈、勅使門など現存の建物は安土(あづち)桃山時代以後の建造物である。山門(国重要文化財)は1628年(寛永5)大坂夏の陣に倒れた将士の菩提(ぼだい)を弔うため藤堂高虎(とうどうたかとら)によって再建されたもので、天下竜門といい、上層の楼を五鳳楼(ごほうろう)とよぶ。また歌舞伎(かぶき)の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の石川五右衛門(ごえもん)の伝説で有名。方丈(国宝)は大方丈と小方丈に分かれている。大方丈は1611年(慶長16)後陽成(ごようぜい)天皇より下賜された旧清涼殿(一説には正親町(おおぎまち)院御所対面所)を移建したもので、各室には狩野元信(かのうもとのぶ)・永徳(えいとく)筆と伝える豪華な桃山式の襖絵(ふすまえ)がある。小方丈は旧伏見(ふしみ)城の遺構で、狩野探幽(たんゆう)筆と伝える襖絵『水呑(みずのみ)の虎(とら)の図』は名高い。大方丈南面の庭園は慶長(けいちょう)年間(1596~1615)小堀遠州作と伝える禅院式枯山水(かれさんすい)庭園で、巨石の姿から俗に「虎の子渡しの庭」とよばれる。北側には宗徧(そうへん)流の茶室不識庵(ふしきあん)があり、露地を囲む竹垣は南禅寺垣といわれる。寺宝には、亀山天皇宸翰(しんかん)禅林寺御起願文案(国宝)をはじめ、開山の『頂相(ちんぞう)大明国師像』、『釈迦(しゃか)十六善神画像』、『薬山李翺(やくさんりこう)問答図』、『江山漁舟図』(蒋三松筆)、『達磨(だるま)像』(祥啓筆)などの絵画、彫刻では木造聖観音(しょうかんのん)立像、工芸では鎌倉彫牡丹模様香盒(ぼたんもようこうごう)(以上、重文)などがある。
塔頭(たっちゅう)は現在、金地(こんち)院、天授(てんじゅ)庵、帰雲(きうん)院、光雲(こううん)寺、聴松(ちょうしょう)院、真乗(しんじょう)院、高徳(こうとく)庵、法皇(ほうこう)寺、慈氏(じし)院、正因(しょういん)庵、正的(しょうてき)院、南陽(なんよう)院の12院がある。金地院には『渓陰小築(けいいんしょうちく)図』『秋景冬景山水図』二幅(ともに国宝)などや、小堀遠州が崇伝の依頼を受けて設計した茶室八窓(はっそう)席(重文)がある。また、別院南禅院は離宮禅林寺殿の「上の宮」遺跡で、南禅寺発祥の地といわれている。
[菅沼 晃]
『桜井景雄著『南禅寺史』(1977・法蔵館)』▽『荻須純道著『日本中世禅宗史』(1976・木耳社)』▽『『古寺巡礼 京都12 南禅寺』(1977・淡交社)』
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京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の大本山。瑞竜山と号す。正式には太平興国南禅禅寺。開山は無関普門(むかんふもん)。亀山天皇が1264年(文永元)に母大宮(おおみや)院の御所として離宮禅林寺殿を造営したが,91年(正応4)禅寺に改め,竜安山禅林禅寺としたのが始まり。14世紀初めには南禅寺が正式の寺名となる。1334年(建武元)に五山の第1位となり,86年(至徳3・元中3)には五山の上に位置づけられた。1467年(応仁元)兵火で全山焼失し,のちに再建されたが,明治期の神仏分離によって大打撃をうけた。方丈は国宝,三門・勅使門は重文。「禅林寺御起願文案」(国宝),南禅寺一切経・木造聖観音立像(ともに重文)などがある。境内は国史跡。
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…足利義輝の近臣一色藤長の孫。足利氏滅亡のとき父秀勝に死別し,京都南禅寺に入って玄圃霊三に師事する。かたわら醍醐三宝院に学び,相国寺の西笑承兌にも教えを受け,のち南禅寺金地院の靖叔徳林についてその法嗣となった。…
…鎌倉五山に対し,京都にある臨済宗の大禅刹,すなわち南禅寺・天竜寺・相国(しようこく)寺・建仁寺・東福寺・万寿寺をいう。中国南宋代の五山官寺制度が,日本に移植されたのは鎌倉時代末期のことで,はじめは建長寺・円覚寺など鎌倉の大禅刹をもって五山としていた。…
…京都市左京区にある臨済宗南禅寺の塔頭(たつちゆう)。徳川家康の側近として幕府の政治の枢機に列した黒衣(こくえ)の宰相,以心崇伝が住んだ寺である。…
…美福門院が亡くなると,娘の八条院子に伝領され,大覚寺統の最重要所領たる八条院領の一つとなった。1299年(正安1)亀山上皇によって南禅寺に寄進され,以後南禅寺領として戦国時代に至る。南禅寺の初倉荘支配は主として守護被官による代官請であり,国人領主層の蚕食が繰り返されて,その支配は不安定であった。…
…この間,亀山法皇は深く無関に帰依し,91年(正応4)離宮禅林寺殿を禅院に改め,無関を開山に請じた。これが南禅寺である。彼は東福寺と南禅寺を両摂したが,その年の12月12日東福寺において没した。…
…唐代以前の寺院建築は,会昌の廃仏(三武一宗の法難)や火災などでほとんど失われ,今日に伝わるものはきわめて少ないが,晩唐以降の木造寺院建築遺構は,都城,宮殿,壇廟の古い実例が残存しない中国建築の,様式,技術的発展を知るうえでの限られた貴重な資料である。現存する木造の遺構では,小規模ながら南禅寺大殿(山西省五台山。唐,782),広仁王廟大殿(山西省芮城。…
※「南禅寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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