日本中世の武家勢力による政体。足利幕府ともいう。その呼称は1378年(天授4・永和4)足利氏3代将軍義満が京都北小路室町にその政庁として花御所(はなのごしよ)を営んだことにちなむが,1336年(延元1・建武3)の足利尊氏による建武政府打倒,新政権樹立以降,1573年(天正1)義昭の槙嶋城退去までの期間における,足利将軍家による政治体制をいうのが一般的である。
鎌倉幕府打倒に軍功のあった尊氏は建武政府の要路から締め出され,北条氏残党鎮圧に際しても征夷大将軍補任を拒否されたことから,1335年(建武2)11月,在地領主制を展開しつつあった諸国武士の輿望を担って建武政府に反旗を翻した。鎌倉から上洛した尊氏は,いったん敗れて筑前に退去するが,その間に東国,畿内,西国の急進派武士の大半を勢力下に組み入れ,翌年5月湊川で楠木正成を,次いで千種忠顕,名和長年ら宮方の有力者を撃破し,畿内を制圧して同年11月《建武式目》を制定,事実上幕府を発足させた。尊氏の将軍任官は38年(延元3・暦応1)8月だが,法的には36年8月の光明天皇即位,光厳院政開始をもって幕府開創の要件は満たされている。同式目にもうたっているとおり,施政発足に当たって鎌倉幕府の諸制度と吏僚が継承されたほか,前幕府倒壊の一因となった畿内近国の急進的在地武士や供御人(くごにん),神人(じにん)など非農業的商人集団をも懐柔すべく,政庁を京都に定めた。幕府開創期の権力構造における最大の特色は,尊氏が侍所(さむらいどころ),恩賞方,政所(まんどころ)を管轄して主従制的な支配権を掌握する一方,弟の足利直義(だだよし)が評定,引付,安堵方,問注所などを管轄して統治権的支配権を掌握し,兄弟で二元的政治を行った点である。直義の背後には王朝の本所,荘園領主の利害があり,尊氏や執事高師直(こうのもろなお)のもとには荘園制と対決を余儀なくされた急進的在地領主層の期待が集中し,この両者間に権力抗争を生じて,49-52年(正平4・貞和5-正平7・文和1)に及ぶ観応の擾乱(かんのうのじようらん)という紛争を招いた。
その過程で師直,直義らは殺害され,2代将軍義詮(よしあきら)の親裁権が強化されることになった。擾乱で没落した旧直義党は多く南朝方に加わったため,55年までの間,京都は3度南軍に占拠され,また仁木義長,細川清氏ら足利一門の有力守護が相次ぎ反乱を起こすなど,58年(正平13・延文3)の尊氏死去前後の幕政は混乱を極めたが,62年(正平17・貞治1)斯波高経,67年細川頼之が主導して幕府を安定に導き,内乱も北軍優勢裡に小康状態を迎えた。68年(正平23・応安1)頼之が制定した半済(はんぜい)令は中小荘園領主を切り捨てる一方,有力権門と在地領主(国人),守護権力の権益を一定度保護し,室町期を通ずる土地政策の基本となった。この前後,寺社公家などの本所領に関する裁判権は朝廷から漸次幕府に移行し,検非違使庁が握っていた京都市中の刑事警察権は幕府侍所に移され,段銭(たんせん)などの臨時財産税も守護にその徴収権が付与されるなど,頼之の執政は幕府権力確立の上できわめて重大な役割と画期を有している。
3代将軍足利義満の親政が始まる南北朝末期は,細川,山名,土岐,大内らの有力守護を巧みな懐柔と挑発によって弾圧し,92年(元中9・明徳3)には南朝の神器を接収して内乱を終息させ,将軍権力は比類ないまでに強化された。義満は従一位,内大臣,左大臣,准三后を歴任し,王朝の支配権をほとんど奪し,義満の意志による伝奏奉書を発給させて形式的にも公武両権力の頂点に立つ専制君主となり,1401年(応永8)の対明外交開始に当たって国書に〈日本国王〉と自署したのである(日明貿易)。こうして義満,義持,義教の3代の間に幕府は極盛期をむかえ,朝廷はわずかに祭祀,改元と一部寺社の人事権を掌握するにすぎない一権門に凋落する。
しかし6代義教は斯波,畠山,京極,山名,土岐,一色など有力守護家の家督継承に相次いで干渉し,とくに後2者を大和出征中に暗殺するという強引な手段をとったため,守護職没収を恐れる前侍所別当の赤松満祐に先手をとられて41年(嘉吉1)誘殺された(嘉吉の乱)。この前後,京都では大規模な徳政一揆が頻発し,関東8ヵ国と九州は幕府の統制から離脱して,戦乱状態に突入している。この変後,細川,山名両氏を除く有力守護家は家督紛争で弱体化し,近習や禅僧が幕政に介入して8代義政の施政は大いに乱れ,67年(応仁1)ついに応仁・文明の乱が勃発する。乱の結果,地方では守護領国制が進行し,荘園制は最後的に解体して,幕府の統制から離れた在地では戦国大名が登場した。畿内近国では細川氏ひとり勢力を維持し,93年(明応2)の政変で将軍廃立を強行して幕府権力を吸収,傀儡(かいらい)化し,以後細川氏家督が幕政を左右するという専制化を現出した。こうして幕府の権力の及ぶ地域は,細川氏領国を中心とする畿内近国に限定されたが,1549年(天文18)三好長慶が台頭して細川氏も没落し,65年(永禄8)には将軍義輝が松永久秀に殺される事態となり,名実ともに幕府は崩壊した。68年の織田信長入京で一時的に幕府は復活するものの,統一権力の障害物としての役割しか果たせず,73年信長の軍事力によって解体された。
将軍の代官としてはじめ執事が置かれたが,尊氏・直義両頭政治の間は訴訟機関たる引付を直義が一手に掌握しており,執事師直の立場は尊氏の代官にとどまっていた。義詮の代に将軍親裁権が強化されると引付は漸次縮小される。他方,1367年頼之の就任以来,執事は管領と称されて,将軍幼少の間すべての政務を総覧するようになった。従来分権的であった幕府諸機関の権限が,義満と頼之のもとで初めて集権的に統一されたのである。98年(応永5)畠山基国が管領に登用され,以後斯波,細川,畠山の3有力守護が交替で管領を務めたが,将軍義持の晩年より侍所家の一部を加えた数家の有力守護中の宿老が,重臣会議を開いて合議で重要政務を決するようになり,管領制は形骸化し,応仁の乱後は細川氏以外に管領を出す守護家はなくなった。なお訴訟関係は引付廃絶後,義教のころから御前沙汰(ごぜんさた)と呼ばれる将軍臨席の法廷が成立した。
鎌倉時代と同様,御家人武士の統括機関としては侍所があったが,観応の擾乱以降,侍所は山城守護の機能を兼ね,南北朝末に山城守護が分離してからは,洛中の刑事警察権をもっぱら分掌する機関となった。侍所も赤松,京極以下の有力5守護家が交替で歴任し,在任中は有力被官を所司代に任じ,京都の治安維持に当たった。侍所の事務官として開闔(かいこう)が奉行人中から選任され,文書行政を担当したが,応仁の乱後,頭人,所司代が廃絶すると,細川氏の指揮下に開闔が京中の取締りを行った。この開闔の下に小舎人,雑色という刑事が配属された。
政所は財政を担当したが,その長官である執事二階堂氏(のち伊勢氏)のもとに,将軍家の家産を奉行する政所代と,雑務沙汰と呼ばれる民事訴訟を扱う執事代が置かれ,前者は蜷川氏が世襲,後者は奉行人の最上首が交替で補任された。問注所は文書管理を行い,執事は摂津,町野氏ら評定衆から選任されたが,15世紀に入り早くも実質を失っている。ほかに洛中屋地の移転を管轄する地方(じかた)(地方奉行),伊勢両神宮の造営と裁許を扱う神宮方(じんぐうかた)があり,頭人は評定衆,開闔は奉行人の内より選任されている。御物(ごもつ)奉行,作事奉行には同朋衆(どうぼうしゆう)や結城氏が補任された。このように右筆方(ゆうひつかた)とも呼ばれた文書事務官僚集団があって,彼らは政所,侍所,地方などの各部局に配属されるほか,御前沙汰に係属した意見機関を構成し,将軍の諮問に応じて判決原案たる〈意見〉(意見状)を具申し,のちには最終判決もほとんどこれに拘束された。これら奉行人には,鎌倉幕府・六波羅探題の奉行を務めた家格の者が多い。また南北朝後期に朝廷本所の裁判権が幕府に移行すると,石清水奉行,東寺奉行など,有力荘園領主ごとに〈別奉行〉なる担当奉行制が成立し,彼らは領主の権益を代弁する一方,それに寄生して私曲を行うことも珍しくはなかった。応仁の乱後,幕府の領域が畿内近国に限定されてくると,諸部局における奉行人の役割は増大し,京都の支配は細川氏の有力被官とこの奉行人層が実質的に切り回すようになった。地方(ちほう)官制としては,南北朝後半期に関東8ヵ国に鎌倉府,九州と陸奥に探題が置かれ,将軍の一族ないし有力一門守護をこれに任じたが,永享の乱後はその機能を失った。
将軍家の直轄領として三河と畿内近国に散在する公方(くぼう)御料所が百数十ヵ所知られている。このほかに南北朝戦乱の過程で敵方から没収した膨大な闕所(けつしよ)地があり,恩賞地として勲功の将士に配分したほか,五山禅院や奉公衆(ほうこうしゆう)と呼ばれた親衛隊に給与され,常備軍を養うと同時に五山の経済機構から銭貨を貢献させるという,実質的直轄領の役割を果たした。南北朝末期には,従来延暦寺が保有していた洛中の土倉(どそう)・酒屋に対する課税権を幕府に没収し,これを政所要脚(ようきやく)(財政事務費)の財源とした。臨時財源としては日明貿易による勘合抽分銭(ちゆうぶんせん),社寺造営費や官庁営繕費に充当される段銭,棟別銭(むなべちせん)があるほか,都市民に有徳銭(うとくせん),地口銭(じぐちせん)を課し,五山や南都北嶺の有力寺社に対して巨額の出銭を命じたが,それらは幕府財政が窮乏化するに伴って重要な地位を占めるようになった。そのほか国ごとに守護役,御家人役という出銭を課し,それは管国内の農民に転嫁された。総じて,商工業や金融に対する賦課が大きいのが特色といえよう。幕府が容易に崩壊に至らなかった一因も,京都支配に伴う収益の存在が指摘される。このような財政構造は,政所執事伊勢氏や五山を統括する相国寺蔭涼軒主(いんりようけんしゆ)が幕政に介入する余地を与えた。
室町幕府は,重臣会議の運営に象徴されるように有力守護の連合政権的色彩を帯びているが,反面将軍は専制君主として奉行人という官僚集団や奉公衆なる常備軍を保持し,守護職の補任を通じて守護を更迭することが可能であった。しかし15世紀に入ると,反乱勃発でもないかぎり守護職は世襲され,分国支配を強化した守護または守護代の中から,幕府から自立した戦国大名へ成長する例が多く現れる。こうして戦国期の幕府は,半ば細川氏の傀儡と化した畿内政権に変質する。ただ守護や郡主(分郡守護)を通じて間接的に全国を支配する方式や,官僚・直轄軍の形成,奉公衆の配置を通じて守護を牽制するという統治の性格は江戸幕府に継承されており,封建権力の過渡的形態としての性格は濃厚である。その中で,貿易・金融を含む流通過程への積極的賦課,大都市収益の吸収という点は江戸幕府にない体質であり,畿内の経済的先進性に適応した柔軟な政権として,改めて注目されるところである。
執筆者:今谷 明
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足利(あしかが)氏による武家政権。1378年(天授4・永和4)3代将軍義満(よしみつ)が京都北小路室町(むろまち)(京都市上京(かみぎょう)区)に邸宅を構え、政権の中心としたことにより、このように称される。足利幕府ともいう。
[桑山浩然]
足利尊氏(たかうじ)が征夷(せいい)大将軍に任ぜられた1338年(延元3・暦応1)とする説もあるが、通説では、後醍醐(ごだいご)天皇と光明(こうみょう)天皇の間で神器の授受が行われ、幕府の政策大綱ともいうべき「建武式目(けんむしきもく)」が定められた36年(延元1・建武3)11月とする。幕府の主要政務機関である引付方(ひきつけかた)、侍所(さむらいどころ)、政所(まんどころ)、問注所(もんちゅうじょ)などは、いずれも36年ないし37年ころより活動の跡が認められる。
[桑山浩然]
成立当初の幕府は、「建武式目」に明示しているように、鎌倉幕府執権(しっけん)政治全盛期といわれる北条義時(ほうじょうよしとき)・泰時(やすとき)の時期を模範と考えていた。鎌倉幕府時代の諸機関や職員の多くはそのまま継承され、鎌倉幕府の「御成敗(ごせいばい)式目」や追加法は武家法の先例として尊重された。3代義満のころになると、鎌倉幕府における最重要機関であった評定(ひょうじょう)・引付の制度が形骸(けいがい)化してくることに象徴的に示されるように、室町幕府独自の体制ができてくる。将軍を中心にして有力守護大名が幕政の主導権を握ること、公家(くげ)政権との融合が進むことがとくに目だつ点である。6代義教(よしのり)は、義満の先例を追いつつ一方で奉行人(ぶぎょうにん)とよばれる吏僚グループを重用し、守護に対して将軍権力の相対的向上を目ざしたが、嘉吉(かきつ)の乱により挫折(ざせつ)した。8代義政(よしまさ)の時期には、有力守護の対立を主要な動機に応仁(おうにん)の乱が勃発(ぼっぱつ)した。15世紀後半以降の幕府は、武家の棟梁(とうりょう)としての伝統的権威は保持し、守護大名の権威の源泉としての意味はもつものの、日常的には畿内(きない)の地方政権としての意味合いが濃い。
[桑山浩然]
幕府の初期は、建武政権を倒し、新しい政権の樹立に成功した政治的指導者である初代将軍尊氏と、その弟で権力機構の組織者として卓越した手腕を発揮した直義(ただよし)の2人に率いられていた。いわば尊氏、直義の二頭政治である。各国には鎌倉幕府に倣って守護を置くとともに、鎌倉には尊氏の息義詮(よしあきら)、ついで基氏(もとうじ)とその子孫を置いて関東公方(くぼう)(鎌倉御所、鎌倉公方)とし、陸奥(むつ)には奥州探題(おうしゅうたんだい)、出羽(でわ)に羽州(うしゅう)探題、九州に九州探題を置いた。鎌倉時代には限られた権限しかもたない地方官にすぎなかった守護は、この時代に入ると管下武士への軍事指揮権を強め、一方、半済(はんぜい)、守護請(うけ)、段銭(たんせん)の賦課などを通じて荘園(しょうえん)を侵略し、守護大名とよばれるように領主化していった。尊氏、直義の政治的バランスが崩れて対立、抗争が決定的になったのは1350年(正平5・観応1)である。これを年号にちなんで観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)とよんでいる。
[桑山浩然]
3代義満が将軍になった1368年(正平23・応安1)当時は、北陸に本拠を置く斯波(しば)氏と四国の細川氏が二大勢力を形成し、将軍はその均衡のうえにのっていた。義満は初め父義詮の遺命もあって細川氏(頼之(よりゆき))を管領(かんれい)にするが、79年(天授5・康暦1)の政変(康暦(こうりゃく)の政変)により細川氏が下野すると、斯波氏(義将(よしまさ))を管領にした。やがて有力守護の同族どうしを争わせて勢力をそぐ政策がとられ、土岐(とき)氏(濃尾伊勢(いせ)三国守護の分割)、山名(やまな)氏(明徳(めいとく)の乱)、今川氏(今川了俊(りょうしゅん)の九州探題解任)、大内氏(応永(おうえい)の乱)らが勢力を失った。義満を継いだ4代義持(よしもち)は畠山(はたけやま)氏を初めて管領に登用し、細川・赤松両氏を牽制(けんせい)した。一方関東では、幕府開設以来鎌倉にいた関東公方が京都に対し自立的な動きを示していた。1416年(応永23)には関東管領上杉(うえすぎ)氏内部に対立が起こり、将軍継嗣(けいし)をめぐる思惑も絡み、前管領上杉禅秀(ぜんしゅう)のクーデターによって関東公方持氏(もちうじ)は鎌倉を追われた(上杉禅秀の乱)。義持は早逝した5代義量(よしかず)の継嗣を定めぬまま没した。
義満の仏門に入った子息のなかからくじによって将軍職に迎えられた6代義教は、奉行人とよばれる事務官僚的な直臣団を重用して、義持時代の沈滞した雰囲気の打破に努めた形跡が認められるが、しだいに今川氏、武田氏、小早川氏らの一族争いに干渉するようになり、また、ささいなことで排斥した公家(くげ)、武家も少なくなかった。赤松氏一族の処遇問題を直接のきっかけとして、1441年(嘉吉1)義教は赤松邸の遊宴の席で暗殺された(嘉吉の乱)。義教ののち擁立された7代義勝(よしかつ)、8代義政(よしまさ)は将軍職就任当時いずれも幼少であったので、しばらくは有力守護による合議制が復活したが、義政が成人に達し、親政を行うようになる57年(長禄1)以降ふたたび諸家への干渉は激しくなり、将軍継嗣問題も絡んで1467年(応仁1)には応仁の乱の勃発をみるのである。
[桑山浩然]
幕府には幕府料所あるいは単に御料所とよばれる直轄領があり、将軍の直臣たちが管理していた。ただしその実態は荘園と異ならず、所領の数はともかく、収入額を過大視することはできない。むしろ、京都市中の商工業者を支配下に置き、これに財源を求めたのが室町幕府の大きな特徴である。とくに酒屋、土倉(どそう)からは納銭方を通じて多額の役銭が徴収され、その額は14世紀末の段階で年額6000貫といわれている。比較的手近にあって確実に徴収できる酒屋・土倉役は将軍の日常生活をまかなう有力な財源であった。また、恒常的なものではないが、15世紀以降の日明(にちみん)貿易による利益も大きな比重を占めていたものと考えられる。御所を造営したり、大規模な仏神事を修したりする際には、諸国や特定の国に段銭や国役(くにやく)が賦課されたり、守護出銭(しゅっせん)と称して守護に対して頭割りで賦課がなされることがあった。予算制度のない室町幕府にあっては、このような臨時的な収入も忘れてはならない。
[桑山浩然]
1467年に始まり、前後11年に及ぶいわゆる応仁の乱以降幕府の滅亡に至る時期を、幕府の権威が失われ、全国に戦乱が続いたとの意味で戦国時代とよんでいる。しかし義政から9代義尚(よしひさ)の時期にはまだ将軍の守護に対する影響力は残っていた。有名な東山(ひがしやま)の山荘(後の慈照寺(じしょうじ)、銀閣はその一部)が造営されたのはこの時期で、多くの守護が将軍の命によって造営費用を助成している。幕府の意義を将軍と守護との関係においてみるならば、むしろ10代義材(よしき)(後の義尹(よしただ)・義稙(よしたね))が細川政元(まさもと)に追われ、政元に擁立された義高(よしたか)(後の義澄(よしずみ))が将軍となった1494年(明応3)ごろを画期とすべきであるとの意見も出されている。京都を追われた義尹は、西日本において細川氏と勢力を二分していた大内氏を頼り、1508年(永正5)には再度将軍職に復する。しかし21年(大永1)細川高国(たかくに)の専横を怒って出奔し、その後には幼少の義晴(よしはる)が12代将軍となった。これ以降13代義輝(よしてる)、14代義栄(よしひで)の時期にかけて、将軍職とは名ばかりで、実権は細川氏、ついで細川氏の家臣三好(みよし)氏・松永(まつなが)氏らに握られていたと説かれることが多いが、越前(えちぜん)の朝倉(あさくら)氏、越後(えちご)の上杉氏など将軍の権威を慕ってよしみを通ずる大名もいたことは、室町幕府のなんたるかを考えるうえで興味深いことである。ことに15代義昭(よしあき)は、初め織田信長に擁されて将軍職につくが、信長と不和になると、毛利(もうり)・朝倉・武田・石山本願寺など反織田勢力の結集に努め、衰えたりとはいえその政治力は無視することはできなかった。しかし1573年(天正1)義昭は京都を追われ、室町幕府は名実ともに滅びた。
[桑山浩然]
『田中義成著『南北朝時代史』(1922・明治書院/講談社学術文庫)』▽『田中義成著『足利時代史』(1923・明治書院/講談社学術文庫)』▽『渡辺世祐著『室町時代史』(1948・創元社)』▽『佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』▽『林屋辰三郎著『南北朝』(1967・創元社)』▽『今谷明著『戦国期の室町幕府』(1975・角川書店)』▽『佐藤進一著「室町幕府論」(『岩波講座 日本歴史 中世3』所収・1963・岩波書店)』▽『赤松俊秀著「室町幕府」(『体系日本史叢書 政治史Ⅰ』所収・1965・山川出版社)』▽『百瀬今朝雄著「応仁・文明の乱」(『岩波講座 日本歴史 中世3』所収・1976・岩波書店)』
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足利尊氏が1336年(建武3・延元元)に開設した武家政権。名目的には15代将軍義昭が織田信長に追放される1573年(天正元)まで続いた。名称は3代義満が本拠を構えた京都室町邸にちなむ。鎌倉幕府にならい諸機関が設置されたが,室町幕府では将軍補佐の重職として管領(かんれい)がおかれ,評定(ひょうじょう)・引付(ひきつけ)は初期に衰退して将軍親裁の御前沙汰(ごぜんざた)にかわった。将軍は直轄軍の奉公衆と直轄領の御料所をもち,京都を支配して土倉(どそう)・酒屋に財源を求めたが,京都支配のうえで政所(まんどころ)・侍所(さむらいどころ)が重要な機関となった。地方には鎌倉府・九州探題,諸国に守護がおかれた。幕府は一門中心の守護配置策をとり,南北朝内乱の過程で強権を付与して幕府支配体制の根幹とした。義満は明徳・応永の両乱で強豪守護の勢力を削減,南北朝合一をはたして国内を統一し,朝廷勢力を圧倒して公武統一政権を樹立。中国の明との国交を開き日本国王の称号を得た。しかし守護は任国を領国化して分権的傾向を強めた。将軍は守護統制のため守護の在京を義務づけ,有力守護を幕府の要職に任じ幕政を担当させた。義満の死により有力守護の支持で義持(よしもち)が擁立されると,幕政は管領を中心に有力守護層の合議により運営された。6代義教(よしのり)は専制化を志向,将軍の親裁権を強化するとともに守護大名抑圧策を断行したが,その反動で嘉吉の乱に倒れた。義教が行った守護家家督への介入は守護家の内紛をあおり,かえって幕府の諸国支配を困難とし,守護勢力間の均衡関係を崩して応仁・文明の乱勃発の原因となった。乱ののち守護は在国化して,幕府に結集せず,将軍は守護に対する統制力を失った。将軍義尚(よしひさ)および義稙(よしたね)は奉公衆を基盤として権威回復をはかるが,明応の政変で幕府の実権は細川氏に掌握された。以後,義澄(よしずみ)・義晴・義輝が細川氏などに擁立されたが,各地に割拠する戦国大名に全国支配をさえぎられ,義輝は松永久秀に殺された。義栄(よしひで)ののち,織田信長に擁立された15代義昭も,1573年(天正元)信長と不和となって京都を追われ,室町幕府は滅びた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…南北朝・室町時代の社会構成上の概念。鎌倉幕府の中央集権的体制が崩れ,室町幕府の守護によってその領国に地域的封建制が形成されたとする形態を称する。室町幕府はいわばこのような権力である守護大名の連合政権であると理解する説である。…
…後醍醐天皇の討幕運動は,この天皇と治天の君の再統合を図ったものということもできる。
[鎌倉・室町幕府と天皇]
1185年(文治1),源頼朝は〈日本国総追捕使,日本国総地頭〉に任命され,全国の軍事警察権を一手に掌握し,武士勢力を直接,間接に支配するに至った。頼朝はさらに奥州征伐を前にして征夷大将軍の任命を奏請したが,後白河上皇はこれを許さず,上皇の没後,ようやくこれに任ぜられた。…
※「室町幕府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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