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室町幕府 むろまちばくふ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

室町幕府
むろまちばくふ

延元1=建武3 (1336) 年 11月7日,足利尊氏によって創設された武家政権。幕府創設時点については,延元3=暦応1 (38) 年尊氏が征夷大将軍に任じられた時点からとするなど諸説がある。

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デジタル大辞泉の解説

むろまち‐ばくふ【室町幕府】

延元元年=建武3年(1336)足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都に開いた武家政権。鎌倉幕府の制度をほぼ継承し、15世紀の後半、応仁の乱で無力化して戦国時代を招き、天正元年(1573)15代将軍義昭織田信長に追放されて滅亡。3代将軍義満が京都室町に造営した室町殿にちなむ名称。足利幕府
[補説]将軍は次の15人。
第1代 足利尊氏
第2代 足利義詮
第3代 足利義満
第4代 足利義持
第5代 足利義量
第6代 足利義教
第7代 足利義勝
第8代 足利義政
第9代 足利義尚
第10代 足利義稙
第11代 足利義澄
第12代 足利義晴
第13代 足利義輝
第14代 足利義栄
第15代 足利義昭

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百科事典マイペディアの解説

室町幕府【むろまちばくふ】

足利幕府とも。1336年足利尊氏が開設して以来京都に存続した足利氏を首長とする武家政権。室町の名は3代義満の邸宅(室町殿・花の御所)の所在地に由来。幕府の機構は鎌倉幕府にならい中央に評定衆引付方侍所政所(まんどころ)・問注所,地方に各国の守護,関東に関東管領,九州に九州探題を置いた。
→関連項目足利直義足利義稙足利義輝足利義尚足利義持伺事記録羽州探題大館氏恩賞方嘉吉の土一揆斯波氏南北朝時代日本日本国王幕府畠山政長日野家奉公衆室町時代室町通六角氏

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世界大百科事典 第2版の解説

むろまちばくふ【室町幕府】

日本中世の武家勢力による政体。足利幕府ともいう。その呼称は1378年(天授4∥永和4)足利氏3代将軍義満が京都北小路室町にその政庁として花御所(はなのごしよ)を営んだことにちなむが,1336年(延元1∥建武3)の足利尊氏による建武政府打倒,新政権樹立以降,1573年(天正1)義昭の槙嶋城退去までの期間における,足利将軍家による政治体制をいうのが一般的である。
[幕政の推移]
 鎌倉幕府打倒に軍功のあった尊氏は建武政府の要路から締め出され,北条氏残党鎮圧に際しても征夷大将軍補任を拒否されたことから,1335年(建武2)11月,在地領主制を展開しつつあった諸国武士の輿望を担って建武政府に反旗を翻した。

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大辞林 第三版の解説

むろまちばくふ【室町幕府】

〔1378年足利三代将軍義満が京都室町の新邸を幕府としたことによる〕
足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し、1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。足利幕府。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

室町幕府
むろまちばくふ

足利(あしかが)氏による武家政権。1378年(天授4・永和4)3代将軍義満(よしみつ)が京都北小路室町(むろまち)(京都市上京(かみぎょう)区)に邸宅を構え、政権の中心としたことにより、このように称される。足利幕府ともいう。[桑山浩然]

成立

足利尊氏(たかうじ)が征夷(せいい)大将軍に任ぜられた1338年(延元3・暦応1)とする説もあるが、通説では、後醍醐(ごだいご)天皇と光明(こうみょう)天皇の間で神器の授受が行われ、幕府の政策大綱ともいうべき「建武式目(けんむしきもく)」が定められた36年(延元1・建武3)11月とする。幕府の主要政務機関である引付方(ひきつけかた)、侍所(さむらいどころ)、政所(まんどころ)、問注所(もんちゅうじょ)などは、いずれも36年ないし37年ころより活動の跡が認められる。[桑山浩然]

政権の性格

成立当初の幕府は、「建武式目」に明示しているように、鎌倉幕府執権(しっけん)政治全盛期といわれる北条義時(ほうじょうよしとき)・泰時(やすとき)の時期を模範と考えていた。鎌倉幕府時代の諸機関や職員の多くはそのまま継承され、鎌倉幕府の「御成敗(ごせいばい)式目」や追加法は武家法の先例として尊重された。3代義満のころになると、鎌倉幕府における最重要機関であった評定(ひょうじょう)・引付の制度が形骸(けいがい)化してくることに象徴的に示されるように、室町幕府独自の体制ができてくる。将軍を中心にして有力守護大名が幕政の主導権を握ること、公家(くげ)政権との融合が進むことがとくに目だつ点である。6代義教(よしのり)は、義満の先例を追いつつ一方で奉行人(ぶぎょうにん)とよばれる吏僚グループを重用し、守護に対して将軍権力の相対的向上を目ざしたが、嘉吉(かきつ)の乱により挫折(ざせつ)した。8代義政(よしまさ)の時期には、有力守護の対立を主要な動機に応仁(おうにん)の乱が勃発(ぼっぱつ)した。15世紀後半以降の幕府は、武家の棟梁(とうりょう)としての伝統的権威は保持し、守護大名の権威の源泉としての意味はもつものの、日常的には畿内(きない)の地方政権としての意味合いが濃い。[桑山浩然]

初期の幕府

幕府の初期は、建武政権を倒し、新しい政権の樹立に成功した政治的指導者である初代将軍尊氏と、その弟で権力機構の組織者として卓越した手腕を発揮した直義(ただよし)の2人に率いられていた。いわば尊氏、直義の二頭政治である。各国には鎌倉幕府に倣って守護を置くとともに、鎌倉には尊氏の息義詮(よしあきら)、ついで基氏(もとうじ)とその子孫を置いて関東公方(くぼう)(鎌倉御所、鎌倉公方)とし、陸奥(むつ)には奥州探題(おうしゅうたんだい)、出羽(でわ)に羽州(うしゅう)探題、九州に九州探題を置いた。鎌倉時代には限られた権限しかもたない地方官にすぎなかった守護は、この時代に入ると管下武士への軍事指揮権を強め、一方、半済(はんぜい)、守護請(うけ)、段銭(たんせん)の賦課などを通じて荘園(しょうえん)を侵略し、守護大名とよばれるように領主化していった。尊氏、直義の政治的バランスが崩れて対立、抗争が決定的になったのは1350年(正平5・観応1)である。これを年号にちなんで観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)とよんでいる。[桑山浩然]

将軍と守護大名

3代義満が将軍になった1368年(正平23・応安1)当時は、北陸に本拠を置く斯波(しば)氏と四国の細川氏が二大勢力を形成し、将軍はその均衡のうえにのっていた。義満は初め父義詮の遺命もあって細川氏(頼之(よりゆき))を管領(かんれい)にするが、79年(天授5・康暦1)の政変(康暦(こうりゃく)の政変)により細川氏が下野すると、斯波氏(義将(よしまさ))を管領にした。やがて有力守護の同族どうしを争わせて勢力をそぐ政策がとられ、土岐(とき)氏(濃尾伊勢(いせ)三国守護の分割)、山名(やまな)氏(明徳(めいとく)の乱)、今川氏(今川了俊(りょうしゅん)の九州探題解任)、大内氏(応永(おうえい)の乱)らが勢力を失った。義満を継いだ4代義持(よしもち)は畠山(はたけやま)氏を初めて管領に登用し、細川・赤松両氏を牽制(けんせい)した。一方関東では、幕府開設以来鎌倉にいた関東公方が京都に対し自立的な動きを示していた。1416年(応永23)には関東管領上杉(うえすぎ)氏内部に対立が起こり、将軍継嗣(けいし)をめぐる思惑も絡み、前管領上杉禅秀(ぜんしゅう)のクーデターによって関東公方持氏(もちうじ)は鎌倉を追われた(上杉禅秀の乱)。義持は早逝した5代義量(よしかず)の継嗣を定めぬまま没した。
 義満の仏門に入った子息のなかからくじによって将軍職に迎えられた6代義教は、奉行人とよばれる事務官僚的な直臣団を重用して、義持時代の沈滞した雰囲気の打破に努めた形跡が認められるが、しだいに今川氏、武田氏、小早川氏らの一族争いに干渉するようになり、また、ささいなことで排斥した公家(くげ)、武家も少なくなかった。赤松氏一族の処遇問題を直接のきっかけとして、1441年(嘉吉1)義教は赤松邸の遊宴の席で暗殺された(嘉吉の乱)。義教ののち擁立された7代義勝(よしかつ)、8代義政(よしまさ)は将軍職就任当時いずれも幼少であったので、しばらくは有力守護による合議制が復活したが、義政が成人に達し、親政を行うようになる57年(長禄1)以降ふたたび諸家への干渉は激しくなり、将軍継嗣問題も絡んで1467年(応仁1)には応仁の乱の勃発をみるのである。[桑山浩然]

幕府の財政

幕府には幕府料所あるいは単に御料所とよばれる直轄領があり、将軍の直臣たちが管理していた。ただしその実態は荘園と異ならず、所領の数はともかく、収入額を過大視することはできない。むしろ、京都市中の商工業者を支配下に置き、これに財源を求めたのが室町幕府の大きな特徴である。とくに酒屋、土倉(どそう)からは納銭方を通じて多額の役銭が徴収され、その額は14世紀末の段階で年額6000貫といわれている。比較的手近にあって確実に徴収できる酒屋・土倉役は将軍の日常生活をまかなう有力な財源であった。また、恒常的なものではないが、15世紀以降の日明(にちみん)貿易による利益も大きな比重を占めていたものと考えられる。御所を造営したり、大規模な仏神事を修したりする際には、諸国や特定の国に段銭や国役(くにやく)が賦課されたり、守護出銭(しゅっせん)と称して守護に対して頭割りで賦課がなされることがあった。予算制度のない室町幕府にあっては、このような臨時的な収入も忘れてはならない。[桑山浩然]

幕府の終末

1467年に始まり、前後11年に及ぶいわゆる応仁の乱以降幕府の滅亡に至る時期を、幕府の権威が失われ、全国に戦乱が続いたとの意味で戦国時代とよんでいる。しかし義政から9代義尚(よしひさ)の時期にはまだ将軍の守護に対する影響力は残っていた。有名な東山(ひがしやま)の山荘(後の慈照寺(じしょうじ)、銀閣はその一部)が造営されたのはこの時期で、多くの守護が将軍の命によって造営費用を助成している。幕府の意義を将軍と守護との関係においてみるならば、むしろ10代義材(よしき)(後の義尹(よしただ)・義稙(よしたね))が細川政元(まさもと)に追われ、政元に擁立された義高(よしたか)(後の義澄(よしずみ))が将軍となった1494年(明応3)ごろを画期とすべきであるとの意見も出されている。京都を追われた義尹は、西日本において細川氏と勢力を二分していた大内氏を頼り、1508年(永正5)には再度将軍職に復する。しかし21年(大永1)細川高国(たかくに)の専横を怒って出奔し、その後には幼少の義晴(よしはる)が12代将軍となった。これ以降13代義輝(よしてる)、14代義栄(よしひで)の時期にかけて、将軍職とは名ばかりで、実権は細川氏、ついで細川氏の家臣三好(みよし)氏・松永(まつなが)氏らに握られていたと説かれることが多いが、越前(えちぜん)の朝倉(あさくら)氏、越後(えちご)の上杉氏など将軍の権威を慕ってよしみを通ずる大名もいたことは、室町幕府のなんたるかを考えるうえで興味深いことである。ことに15代義昭(よしあき)は、初め織田信長に擁されて将軍職につくが、信長と不和になると、毛利(もうり)・朝倉・武田・石山本願寺など反織田勢力の結集に努め、衰えたりとはいえその政治力は無視することはできなかった。しかし1573年(天正1)義昭は京都を追われ、室町幕府は名実ともに滅びた。[桑山浩然]
『田中義成著『南北朝時代史』(1922・明治書院/講談社学術文庫) ▽田中義成著『足利時代史』(1923・明治書院/講談社学術文庫) ▽渡辺世祐著『室町時代史』(1948・創元社) ▽佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社) ▽林屋辰三郎著『南北朝』(1967・創元社) ▽今谷明著『戦国期の室町幕府』(1975・角川書店) ▽佐藤進一著「室町幕府論」(『岩波講座 日本歴史 中世3』所収・1963・岩波書店) ▽赤松俊秀著「室町幕府」(『体系日本史叢書 政治史』所収・1965・山川出版社) ▽百瀬今朝雄著「応仁・文明の乱」(『岩波講座 日本歴史 中世3』所収・1976・岩波書店)』

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世界大百科事典内の室町幕府の言及

【守護領国制】より

…南北朝・室町時代の社会構成上の概念。鎌倉幕府の中央集権的体制が崩れ,室町幕府の守護によってその領国に地域的封建制が形成されたとする形態を称する。室町幕府はいわばこのような権力である守護大名の連合政権であると理解する説である。…

【天皇】より

…後醍醐天皇の討幕運動は,この天皇と治天の君の再統合を図ったものということもできる。
[鎌倉・室町幕府と天皇]
 1185年(文治1),源頼朝は〈日本国総追捕使,日本国総地頭〉に任命され,全国の軍事警察権を一手に掌握し,武士勢力を直接,間接に支配するに至った。頼朝はさらに奥州征伐を前にして征夷大将軍の任命を奏請したが,後白河上皇はこれを許さず,上皇の没後,ようやくこれに任ぜられた。…

※「室町幕府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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