日本大百科全書(ニッポニカ) 「西面武士」の意味・わかりやすい解説
西面武士
さいめんのぶし
後鳥羽(ごとば)上皇院政時代に設けられた院司(いんじ)の一つ。白河(しらかわ)上皇の院政のときに創設された北面(ほくめん)武士に対し、院御所(いんのごしょ)の西面に侍し院中の警固などを行った。院西面(いんのさいめん)ともいう。設置の時期は『吾妻鏡(あづまかがみ)』などから1206年(建永1)以前と推定されるが不詳。在京御家人(ごけにん)や検非違使(けびいし)、院分国・院御領などを通じて関係の深い武士で構成され、上皇の私兵としての性格が強い。『吾妻鏡』には後藤基清(もときよ)、五条有範(ありのり)、大江能範(よしのり)、佐々木広綱(ひろつな)らの名がみえる。『承久軍(じょうきゅういくさ)物語』には、武勇に優れた者や相撲(すもう)の達人が関東から召し出され、西面に任じられたとある。承久の乱(1221)では上皇方の兵力の中心となり、乱後は廃絶された。
[権平慶子]