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院政 いんせい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

院政
いんせい

平安時代末期に,摂関政治が衰え,武家政治が成立するまでの過渡期に現れた政治形態で,天皇の地位を退いた太上天皇が引続いて政務をとること。白河天皇は応徳3 (1086) 年堀河天皇に譲位ののち,院庁を開いて引続き政権を担当した。これが院政の始りといわれる。白河上皇は堀河,鳥羽,崇徳天皇の 43年間,鳥羽上皇 (→鳥羽天皇 ) は崇徳,近衛,後白河天皇の 27年間,後白河上皇 (→後白河天皇 ) は二条,六条,高倉,安徳,後鳥羽天皇の 34年間,後鳥羽上皇 (→後鳥羽天皇 ) は土御門,順徳,仲恭天皇の 23年間,それぞれ院政を行なったが,後鳥羽上皇の承久の乱の失敗によって院政はその実を失うにいたった。院政の目的には,摂関の権勢を抑制し皇権を伸長させるため,白河天皇の皇弟輔仁親王の勢力を押えて堀河天皇を即位させるため,天皇が律令制を脱却して一荘園領主に転化するためであるとするいろいろな説がある。院政創始の前提には後三条天皇による荘園整理の方針があった (→荘園整理令 ) 。延久1 (1069) 年設置された記録所は受領 (国司) らの荘園整理運動の表面化した結果であった。これを白河上皇が引継ぎ実現させたのが院政であった。院政の実務は院庁の院司によって担当された。彼らは院の近臣と呼ばれ,受領出身者が多かった。院には警固のために北面,西面の武士が設けられ,その武力は社寺や平氏政権と対立するものであった。院の経済的基盤は,院政の政治権力を頼って集中した多くの荘園にあった。こうして政治の実権が院に移ると,朝廷は単なる儀式のための府となり,摂関家の存在も有名無実となり,院と朝廷,摂関家との対立も表面化していった。鎌倉幕府の成立後は,二重政権の様相を呈したが,後鳥羽上皇の倒幕計画が失敗した (承久の乱) ことによって,公家勢力は完全に失墜し,院政の役割にも終止符が打たれ,二重政権は消滅した。しかし院政の政治形態は存続し,鎌倉時代にも後高倉院,後嵯峨院や,大覚寺,持明院両統迭立などにより院政が行われたが,元亨2 (1322) 年後醍醐天皇のとき院政が廃止され,天皇親政とした。南北朝時代にも院政が行われたが室町時代には行われず,江戸時代に入って後陽成天皇の譲位後再び院政が復活し,後水尾,霊元,光格上皇が行なったが,天保 11 (1840) 年光格上皇の死によって消滅した。

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デジタル大辞泉の解説

いん‐せい〔ヰン‐〕【院政】

院の庁で、上皇または法皇が国政を行っていた政治形態。応徳3年(1086)白河上皇に始まり、天保11年(1840)光格上皇崩御まで断続して行われた。
現職を引退した人が、なお実権を握っていること。「会長が院政をしく」

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百科事典マイペディアの解説

院政【いんせい】

上皇(じょうこう)または法皇(ほうおう)が行う政治。白河院の1086年から平家滅亡のころまで約100年間を院政時代といい,院宣(いんぜん)が詔勅宣旨(せんじ)よりも重んじられた。
→関連項目院庁王朝国家亀山天皇公家法光厳天皇後宇多天皇光明天皇後嵯峨天皇後深草天皇荘園(日本)成功白河天皇高倉天皇高階氏治天の君中右記重任伝奏天皇鳥羽作道日本伏見天皇平安時代堀河天皇

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とっさの日本語便利帳の解説

院政

天皇が譲位した後、上皇あるいは法皇となって国政を執り行う政治形態。白河天皇(一〇五三~一一二九)が上皇となった一〇八六年に始まった。転じて、引退したはずの長が組織の実権を握っている様を指す。

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世界大百科事典 第2版の解説

いんせい【院政】

太上天皇(上皇,法皇)の執政を常態とする政治形態。律令政治が天皇と貴族の共同統治的官僚政治であり,摂関政治が上級官僚貴族の寡頭政治的色彩が強いのに対し,白河上皇の専制的な権勢のもとに定着した政治形態を,後世の史家が院政と名付けたのである。
[院政の成立]
 上皇の国政関与は,最初の太上天皇である持統上皇以来みられる現象で,その背景には中国における太上皇帝の執政の影響も推測されるが,平安時代初頭,薬子の変の反省に基づき,嵯峨上皇は大政不干渉を強調して,前代の風潮に終止符を打った。

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大辞林 第三版の解説

いんせい【院政】

上皇または法皇によって院庁で政治が行われたこと。また、その政治形態。1086年白河上皇に始まり、形式的には1840年光格上皇死去まで断続した。
俗に、会社・組織などで、現職を引退した実力者が経営や組織運営の実権を握っていること。また、その形態。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

院政
いんせい

院すなわち上皇の執政を常態とする政治形態。上皇がときとして政務に関与したことは、すでに奈良時代からしばしばみられた現象であるが、上皇の執政が常態となったのは、1086年(応徳3)譲位した白河上皇(しらかわじょうこう)に始まる。鎌倉初期に著された『愚管抄(ぐかんしょう)』に、後三条上皇(ごさんじょうじょうこう)は譲位後摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)にかわって国政をとる意向であったが、まもなく崩御してそれを果たさなかったので、白河上皇が父帝の遺志を継いで院中に政務をとったと記述して以来、これによって院政の成立を説明するのが通説とされたが、この説は具体的に裏づける明確な根拠に乏しいため、近年ではほとんど行われなくなった。後三条天皇は皇位を、藤原氏所生の貞仁(さだひと)親王(白河天皇)から源氏所生の実仁(さねひと)親王、さらにはその同母弟輔仁(すけひと)親王に伝える構想を抱いていたらしく、まず貞仁親王に位を譲り、実仁親王を東宮にたてて、その構想の実現を促進するのが、天皇の譲位の第一の理由であったと考えられる。そして白河天皇の譲位も、この皇位継承問題に強く結び付いている。その譲位の直接の動機は、1085年(応徳2)皇太弟実仁親王が病死した後を受け、皇弟輔仁親王を退けて、皇子善仁(たるひと)親王(堀河天皇(ほりかわてんのう))を皇位につけ、皇統が確実に子孫に伝えられるのを見定めることにあったと思われる。しかし譲位後も幼少の新帝を擁護後見する必要に迫られ、おのずと政務に関与するようになり、しだいにそれが常態化して一つの政治形態に固定し、後世それを院政と名づけたのである。院政は名目的には江戸末期の光格上皇(こうかくじょうこう)まで続いたが、いちおう政権としての機能を保ったのは、鎌倉末期の後宇多(ごうだ)院政までの250年間で、それは保元(ほうげん)の乱(1156)と承久(じょうきゅう)の乱(1221)を境として3期に分けられる。[橋本義彦]

第1期

第1期は白河・鳥羽(とば)院政で、院の政治権力が国政全般を主導した時期である。白河上皇の執政は、国政の主導権を摂関(せっかん)の手から天皇のもとに取り返した後三条、白河2代の親政を継承するものであったが、天皇と摂政、関白とは、制度的にも慣習的にも密接な関係をもったのに対し、それらにまったく拘束されない上皇の立場は、院政に専制的な色彩を強く与えた。政務はほぼ在来の機構と方式によって運営されたが、院はその背後にあって最終的な裁断と指示を与え、国政を領導したのである。そしてその院の手足となって活躍したのが、中流以下の貴族層に属する院近臣(いんのきんしん)である。彼らは有力院司として院中の実務を掌握するとともに、院の側近に常侍して諸人の奏請を取り次ぎ、院の指示を下達した。また院政開始以来、院庁(いんのちょう)の機構は拡充強化され、武士をもそのなかに組み入れて、院の政治権力の拠点としたが、この時期ではまだ院庁が直接国政に関与し、政務処理の機関となった事実はない。院の側近が命を奉じて書く私的な書状形式の院宣には、国政に関する内容のものも数多く含まれたが、この時期の院庁文書(下文(くだしぶみ)、牒(ちょう))はもっぱら院中の諸務に関するもので、国政一般にわたるものがないのもそれを裏づける。院政は院宣をもって旧来の太政官(だいじょうかん)組織を動かすことにより遂行された政治であるとする説明も、こうした事実を根拠としており、院政を単純に院庁政治と表現するのは適切でない。[橋本義彦]

第2期

第2期は後白河(ごしらかわ)・後鳥羽(ごとば)院政で、短期間の親政期を除いても、両者あわせて約60年に及ぶ。この時期はあたかも武家政権の成立期にあたり、いわゆる平氏時代と源氏将軍時代とに重なり、公武両政権の対立期といってよい。国政の主導権は、保元・平治の乱で実力を自覚した武士勢力の手にしだいに移っていったが、反面、院は武士勢力に対抗する貴族、社寺などの旧勢力の結集点となり、その限りでは院の権威を高め、安定させた。もともと院に付属する家政機関であった院庁が、直接国政運営の一端を担うようになったのもそのためである。1181年(養和1)九州大宰府(だざいふ)に菊池高直(きくちたかなお)追討の宣旨を下すにあたり、院庁から使者を派遣したこと、その翌々年奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に源頼朝(みなもとのよりとも)追討の院庁下文を遣わしたことなどは、その顕著な例である。しかし公武両政権の対立は妥協と抗争を繰り返しながら、しだいに破局へ進み、ついに承久の乱によって公家(くげ)政権は決定的な打撃を被り、武家政権の優位が確立した。[橋本義彦]

第3期

第3期は1221年(承久3)に始まる後高倉(ごたかくら)院政から、1321年(元亨1)に終わる後宇多(ごうだ)院政までをいい、この1世紀間に約80年間院政が行われた。その院政は武家政権の監視と保障のもとで、社寺を含む公家社会を支配し、一定の役割を果たしたのである。なかでも27年間に及んだ後嵯峨(ごさが)院政では、評定衆(ひょうじょうしゅう)と伝奏を2本の柱として政務を処理する体制が確立し、院文殿(いんのふどの)も雑訴の調査、予審などを中心とする重要な役割を与えられた。しかし一面、国政一般にかかわる重要問題はもちろん、皇位継承をはじめ、公家政権内部の重要人事なども、実際には武家政権の意向に大きく左右されたのである。南北朝時代に入って、北朝の朝廷ではふたたび院政が行われ、文殿庭中などの動きも知られるが、室町幕府が安定するに伴い、武家政権による国政の一本化が進み、院政の実質はさらに失われていった。ついで後陽成上皇(ごようぜいじょうこう)以下の江戸時代の各上皇についても、当時「御治世」とか「御政務」の称が用いられたが、それに国政上の機能が認められないことはいうまでもない。そして1840年(天保11)光格上皇の崩御とともに、院政の名目もまったく消滅したのである。
 なお院政時代とは、白河・鳥羽院政70年間をさすのがもっとも的確であるが、約20年にわたる後三条・白河天皇親政期は院政前史として位置づけられるべきであろうし、平氏政権の武家政権としての未熟さを考慮して、鎌倉幕府成立までを院政時代に含める見解も一般に行われている。[橋本義彦]
『宮内庁書陵部編『皇室制度史料 太上天皇3』(1980・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の院政の言及

【王土思想】より

…他方,仏教が伝わると,至尊としての仏とその国土という思想が輸入され,王法と仏法との関係が問題となったが,その対立は神仏習合の思想によって回避された。 しかし,平安時代末になり,律令制の解体とともに天皇のあり方が大きく変わりはじめると,院政政権の担い手の間で王土王民思想が強調されるようになった。新しく国政の中心に立った上皇は,摂関家藤原氏を中心とする上層公家や,徐々に力を持つようになった武家,さらに大寺社などの勢力に対して,一元的な支配を行おうとし,王土思想をよりどころとしたと考えられる。…

【鎌倉時代】より

…しかし鎌倉時代を理解するには,少なくとも80年(治承4)の頼朝挙兵にさかのぼって考えることが必要である。
【時代概観】
 鎌倉時代の政治機構・社会体制の祖型は,平安後期,院政期にすでに形成されていた。政治機構の面を考えると,1086年(応徳3)以来院政が行われて天皇は形式的存在にすぎず,天皇の父祖である上皇が〈治天の君〉として政権を握っていた。…

【白河天皇】より

…実仁の次の皇位はその同母弟輔仁親王へというのが後三条の遺志であったらしいが,白河は翌年寵愛する中宮賢子(源顕房女,師実養女)所生の8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位,以後幼帝堀河天皇の後見として政治に関与する。師実は堀河即位とともに摂政となるが,実権は上皇にあり,ここに院政の基が開かれた。院政が開始された背景には古代以来存在した太上天皇の権威や,直接には師実が完全な外戚となりえず,上皇や村上源氏と協調的であったという事情のほか,貴族社会の婚姻形態の変化から,母系より父系が優位となった傾向も関係があるらしい。…

【天皇】より

…その一体性を強固に支えたのが,天皇と摂関との姻戚関係であり,摂関政治の全盛期には,天皇が摂関家にとり込まれる様相を呈した。
[院政と天皇]
 しかしその反面,外戚関係が失われ,天皇の独立性が強まると,摂関の権勢は急速に後退した。もちろん後三条,白河と個性の強い天皇が続いたのも,摂関勢力の後退に拍車をかけた原因であろうが,基本的には社会的,経済的変革の流れが,貴族勢力を再編成し,結集させる強力な権威を求め,生み出したとみるべきであろうし,それが専制的な院政権力の出現となったのである。…

【平安時代】より

…しかもこの新政は,権門勢家の上に立つ天皇の全国支配権を強く印象づけることになった。これを受け継いだ白河天皇親政期においても,朝廷は引き続き天皇を中心として回転し,院政成立の素地を作った。 いわゆる院政は,白河天皇のいだいた皇位継承の構図を実現することを目的とした譲位が契機となって始まったが,さらに1107年(嘉承2)堀河天皇の没後,幼少の鳥羽天皇が践祚するや,白河上皇の執政はいよいよ本格化し,常態化した。…

※「院政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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