日本歴史地名大系 「頼久寺丁」の解説 頼久寺丁らいきゆうじちよう 岡山県:高梁市松山城下頼久寺丁[現在地名]高梁市頼久寺町中之(なかの)丁の東に位置し、頼久寺と道を隔てた西下に位置するところからこの名がある。北は美濃部(みのべ)坂をもって御前(おんざき)丁と接し、南は下谷(しもだに)川(現紺屋町川)を隔てて向(むこう)丁。池田氏の藩主時代にはすでに城下町として成立しており、家中屋敷が置かれていたが、寛永一九年(一六四二)水谷氏の入部後は中堅家臣の屋敷が置かれており、元禄(一六八八―一七〇四)初年頃には八(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)、延享元年(一七四四)には六(「松山家中屋敷覚」高梁市立図書館蔵)、幕末には五(「松山城下屋敷図」同館蔵)の家中屋敷があった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報