現在の上野公園(旧東叡山寛永寺境内)東麓一帯をさす広域名称。台地であった上野に対する下谷かといわれるが(風土記稿)、起源は不詳。北条氏所領役帳によると、大谷十郎左衛門が「江戸廻下谷菅野分」三五貫九〇〇文、原田某が「江戸下谷五分一」七貫三四〇文を知行している。菅野氏は太田道灌の下で武州
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
隅田川西岸,上野台下に位置する低地部(東京都台東区西部)の地名。古くは下屋とも書かれ,高台の上野に対する低地の意味で呼ばれた。初見は戦国期の1559年(永禄2)。当時の下谷は武蔵国豊島郡に属して一村を成し,後北条氏の支配下にあった。上野,金杉などにも小集落が展開していたが,周辺一帯は大部分が沼沢地か低湿地であった。江戸期に入って開拓が活発に行われ,坂本,竜泉寺などにも集落が成立,それと並行して下谷地域の市街地化が進んだ。まず上野台南麓,のちに子院36坊を擁する巨刹となった東叡山寛永寺の門前付近は,1625年(寛永2)の同寺創建以来,1619年(元和5)にできたと伝える下谷町を起点として急速に町場化した。28年ごろまでに同寺の門前町である大門町,黒門町,池之端仲町などが相次いで生まれ,元禄(1688-1704)ごろには各種の商店や水茶屋,見世物小屋などが立ち並ぶ江戸有数の繁華街に発展した。次に寛永寺の東側,姫ヶ池と呼ばれる広大な沼沢地であった区域は,徳川家康の江戸入城(1590)後に埋め立てられ,水田や宅地と化した。17世紀初頭以降,その一部は武家地となり,主として下級幕臣に大縄(組単位)で給された。のちに(多くは元禄ごろ)黒鍬者,二丸御番同心らの大縄給地には,山崎町,山伏町などの拝領町屋敷ができた。また18世紀初頭にかけて西蓮寺,宗源寺その他の寺院が集中したため,この地には寺町も成立し,寛永寺を中心とする下谷の大規模な寺町の一角を占めるに至った。さらに,上野台東端の崖下から千住大橋に通じる下谷通り沿いの区域にも,寛永寺の創建・拡張にともなう善養寺,嶺照院の山内からの移転などによって寺町が形成された。また下谷通りの両側には町屋が発達した。すなわち,1637年ごろに起立した坂本町,46年(正保3)以後漸次町場化した金杉町などである。そのほか武家屋敷も幾つか成立したが,この界隈は明治期まで大半が農村地帯で,文人墨客の隠棲地として著名であった。1878年の郡区町村編制法によって下谷区(東京府)が成立し,1947年には下谷区と浅草区が合体して台東区となった。最近の町名変更で行政上は下谷をつけた地名はなくなり,現在は上野広小路やアメ屋横丁の商店街・娯楽街,真源寺(入谷(いりや)の鬼子母神)の朝顔市などで知られる。
執筆者:大石 庄一
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東京都台東区(たいとうく)北西部にある地区。台地を上野とよんだのに対し、沖積低地は下谷とよばれた。かつて上野駅を中心とした広い地域をいい、旧下谷区が1878年(明治11)成立したが、1947年(昭和22)旧浅草区と合併して台東区となった。現在は旧日光街道と東京地下鉄日比谷(ひびや)線の通る昭和通りの間の地区で、西は根岸、東は入谷(いりや)と接する。1丁目に入谷鬼子母神(きしもじん)で知られる真源(しんげん)寺があり、7月7日前後の朝顔市は有名。
[沢田 清]
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