城下町(読み)じょうかまち

精選版 日本国語大辞典 「城下町」の意味・読み・例文・類語

じょうか‐まち ジャウカ‥【城下町】

〘名〙 室町時代以降、武将・大名の城郭を中心に発達し、武士団や商工業者が集住した町。駿府(今川氏)、甲府(武田氏)、安土(織田氏)、名古屋徳川氏)、金沢(前田氏)などの類。城下。
※財政経済史料‐八・経済・雑業・興業并遊芸・文政七年(1824)九月「御城下町際にて、堂塔為修復

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デジタル大辞泉 「城下町」の意味・読み・例文・類語

じょうか‐まち〔ジヤウカ‐〕【城下町】

戦国時代から江戸時代にかけて、大名の居城を中心に発達した市街。

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改訂新版 世界大百科事典 「城下町」の意味・わかりやすい解説

城下町 (じょうかまち)

城下町とは城を中心として武家屋敷地,商職人町,寺社地によって構成された都市で,城郭を除いた地域は城下とも呼ばれる。戦国期に成立をみ,近世社会の解体とともに消滅するが,近現代都市の主要な都市の多くが城下町をその系譜にもつ。

南北朝期前後に在地領主の争乱から山城の城郭がつくられ,そのふもとに根小屋,山下という領主居館と家子,郎党の屋敷集落が設けられたが,それは商職人の町をもたなかった。室町期には守護の大名化にともない守護所を中心に守護町を生むものがあったが,それは城郭をもたない屋形町であった。守護町から戦国城下町に発展したものは鹿児島,人吉,山口,石寺,駿河府中甲斐府中などで,多くない。一方,室町期に国人領主らの営む城館集落には,近隣に市町(いちまち)をもつものがみられるようになり,彼らの戦国大名化とその領国支配の進展にともなって,戦国大名は城郭の整備とともに近隣の市町を吸収し,ここに城下町が出現することとなった。ただ戦国城下町で計画性をもち整備されたのは市町のみで,しかも市町に給人が進出し,市屋敷を所有することもみられた。また侍屋敷地と市町が接せず,さらに侍屋敷が散在するものも少なくなかった。この侍屋敷は上級家臣の屋敷を中心とし,いまだ全家臣の屋敷を集めるものではなく,農村部に居住する家臣も多かった。一方,市町は店舗商業ではなく,市商いを中心とするものであった。織田信長とその家臣の城下町では地子・諸役免除に加え,新たに楽市・楽座により商工業者の誘致を進めるが,依然として農村部に居住する商職人は多かった。領主は彼らの掌握のためにも城下の商人頭や,商人司や職人の棟梁に特権を与え,その統制をはかっている。

近世城下町の建設は16世紀末の豊臣政権成立以後である。とくに徳川政権成立段階には大名の配置替えにともない全国的に城下町建設が実施されたが,1615年(元和1)の一国一城令により整理された小城下町もあった。近世城下町建設は河川の付替えなどによって土地を確保することなどもふくめ,一定の都市計画のもとに行われ,上級家臣の屋敷を城の近くに固め,遠くなるにつれ中・下級家臣の屋敷を配し,また町屋も商工業者の職種によって町をつくった(職人町)。城下町防衛のため寺町を城下外縁部に設けたが,さらに初期には川,堀,土居で城下を囲むものが多かった。城下にはすべての家臣が集められ,さらに城下町経済発展のため領外商人に加え領内在方居住の商工業者も城下町に集められ,兵農分離,農商分離が行われた(ただ地方小城下町の町人には商売のかたわら農業を営むものも存在した)。この結果,城下町は領外中央市場と結び,また城下町の下におかれた在町を介して農村の非自給品を供給し,その余剰生産物を集める藩領域経済の中心として育成された。

成立期の城下町では領主と関係の深い町や大手筋の中心の町では,地子免除や特定商品の専売権などの特権が与えられ,また土豪的門閥町人が商職人を支配していた。領内経済が発展していった寛文~元禄期(1661-1704)には,城下町も発展して人口増と都市域の拡大が進んだが,一方で商職人の同業集居は崩れ,特定町の商業特権も消えていった。この中で新興の問屋商人が経済力を築き,仲買,小売商や職人を従属させていったが,他方で岡山や松山で戸口の2割ほどを数えたように,多数の日雇,振売商など下層民が拡大地域の場末町借屋や,武家地に出現した長屋を中心に居住した。18世紀以降には在町や在郷商人が港町などを介して領外市場と直結するようになり,城下町の市場関係の地位は低下し,また領主需要は低迷するのに対し,藩から城下町へ課される諸負担は増大した。一部には加工業の展開や立地に恵まれて衰退しないものもあるが,一般に18世紀より戸口の減少が現れる。化政・天保期(1804-44)に戸口が再び増加しているものが多いが,また天保期以降に戸口の減少がみられる。一方,この間に町方では下層民層が増加しており,飢饉などによる米穀騰貴は町で多数の窮迫者を生み,打毀(うちこわし)などの騒擾を広範に生み出した。このため窮民救済や城下町経済振興策が講じられ,困窮下級武士や下層町人対策として特産物生産の移植・奨励も行われ,その中には近代に入り地場産業として発展したものもみられる。

 幕藩制解体により城郭はこわされ,城下町に与えられた特権も消失し,ここに城下町は消滅した。しかし,その都市的伝統や立地条件の良さ,諸施設に転用のきく広い旧武家地の存在などにより,近代に入っても地域の中心都市としての役割をもつものが少なくない。
執筆者:

戦国時代の城下町の地理的位置をみると,平野の中央部か,盆地・流域の中央で,しかも河川合流点,あるいは平野か流域のかなめ的な位置に相当する河口部に立地する。さらに詳細にみると丘陵先端か,独立丘に位置することもある。戦国大名の城下町は領主の居城を中核として,領国の軍事・政治経済の拠点的集落の機能を備えてくると,それ以前の〈所堅固=城堅固〉に代わり,〈国堅固〉主義に立脚する城下町へと発達した。これが近世城下町の基盤となったのである。

 織豊時代に入ると,城郭の拡大改修とともに城下町も拡大したが,戦国大名の城下町を基盤としたもので,旧城下を整備し,新城下を増築し発展させた。しかしそれだけでなく,領国内の重要地点に城下町を新設したのである。

 その後,一国一城令が公布され,それまでの領国内の複数的存在の城下町が急激に整理され,新設も許容されなかった。そのために領国内の中心部の城下町に封建的権力と封建的中枢管理機能が集中化され,城下町としての機能も構造も整理し整備されたのである。この時代になると,軍事的防御機能に加えて,政治行政的中枢地であり,さらにそれらを充実させるために商工業的繁栄が必須であるから,商工業者を積極的に誘致した。したがって,その立地は当然のことながら水田農耕生産地帯の中心部を占め,かつ河口もしくは合流点などの水陸交通の要衝の地を選定している。

 侍屋敷は階層や職掌によって居住区が規制されているが,町屋も商人や職人の職種によって町割居住区制がある。侍屋敷と町屋とは堀か河川により地域区分するなど,階層や職種により地域制が施され,計画的に地域分化されていたのである。それらの地域制に基づいて命名された町名は,今もなお現地名として残存しているものもある。例えば,侍屋敷,小姓町,鉄砲町,魚町,魚屋町,肴町,紺屋町,呉服町,材木町,鍛冶町,大工町などである。さらに外郭の要所に寺院を集中させて,いわゆる寺町を配置し,街道の城下町への出入口付近には足軽屋敷を配している。城下町内の一般的な町割りと道路網をみると,方格状的地割りに類似するものが多いが,それを基盤にして防御上,丁字型,五字型および袋小路が多い。また遠見遮断のため,街道の城下町の出入口は湾曲の道路になり,升型の部分を形成している場合が多くみられる。それに加えて,城下町内部でも容易に本丸へ近づけないように迷路が多く,また城下町の中心部に近づくにしたがい道路幅員を狭くした事例もある。一般に城下町の規模や人口は,だいたいにおいて石高の多寡にやや対応的に相関している。
執筆者:


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日本大百科全書(ニッポニカ) 「城下町」の意味・わかりやすい解説

城下町
じょうかまち

戦国期以降、大名の居城を中心に形成された都市で、大名領国の首都としての性格をもつ。幕藩体制の解体によって消滅したが、近現代の主要都市のほとんどは旧城下町を母胎としている。

[鶴岡実枝子]

戦国期

南北朝動乱期、在地領主は軍事施設として峻険(しゅんけん)な山頂や丘陵などに山城(やまじろ)を築き、麓(ふもと)の居館(根小屋(ねごや))の周辺に家子郎党(いえのころうとう)の屋敷集落を形成したが、彼らは平時には農耕に従事する態勢にあり、町屋の発達はみられなかった。室町期に至り守護大名領国制の展開に伴い、かつての国府や水陸交通の要地に守護所を設け、守護町を形成したが、居館の周囲に一部の給人の土居(どい)屋敷を巡らした屋形町であった。なお守護町のうち戦国城下町に進展しえたのは、今川氏の駿河府中(するがふちゅう)(静岡市)、武田氏の甲斐(かい)府中(甲府(こうふ)市)、大内氏の周防(すおう)山口(山口市)、大友氏の豊後(ぶんご)府内(大分市)、島津氏の薩摩(さつま)鹿児島(鹿児島市)などがある。このように守護の戦国大名化がみられる一方で、守護代・国人(こくじん)層のなかから成長した戦国大名は、前代の山城から比較的低い平山城(ひらやまじろ)へ移って城郭の規模を拡大し、専門武士団を常置するとともに、領国経営・軍事力強化のために近隣の市町を吸収し、遍歴の巡回職人を御用職人集団に編成するなど、物資調達態勢の整備に努めたから、16世紀後半には漸次城郭の周辺に町場が形成された。とはいえ、戦国期の城下町は士庶の居住区分も明確でなく、商業も市町による定期市の段階にあり、家臣団も支城を単位とする軍事編成がとられており、本城下への集住は限定され、なお農村に居住する者が多かった。近世城下町の先駆をなすのは1576年(天正4)織田信長の近江(おうみ)安土(あづち)であって、地子(じし)免除に加え、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)、関所の撤廃などを令して商工業者の誘致を進めたが、短期間で終わった。

[鶴岡実枝子]

近世城下町

兵農分離を伴う本格的な城下町の設営が行われたのは、豊臣(とよとみ)政権以後である。とくに徳川政権確立後の諸大名の配置転換に伴って、領主権力による城下町の建設は17世紀前半(元和(げんな)~寛永(かんえい)期)に全国的規模で行われた。元和の一国一城令(1615)によって支城の多くは破却されたが、新しい領国経営の拠点として、城地の選定は軍事的条件よりも交通・経済面が重視されたものの、多くは山丘と河川を防御的に利用した平山城が構築され、市街地の造成が行われた。それらは土地の強制収用、河道の付け替え、街道の城下への繰り入れなど、自然的景観の大改造を伴うものであった。城下の大半は武家地で占められたが、軍事上の配慮から、上級家臣の屋敷地を城の郭内あるいは近くに固め、その周囲に中・下級家臣を配し、足軽などの組屋敷や寺社地は町屋を隔てた場末や城下周辺部に配置するのが一般であった。

 なお兵農分離による全家臣団の城下への集住は、領主・武士層の軍事的・日常的な必需品の生産と流通を担当とする商工業者の存在を必然とした。地子免除など領主の種々の優遇策によって領外から誘致された商工業者に加え、領内の在町(ざいまち)在村(ざいむら)の商工業者も城下に強制移住させ、都市と農村との社会分業=商農分離が行われた。初期の町割にあたっては、業種別に棟梁(とうりょう)とか商人頭といった統率者を通じて屋敷地が割り当てられ、同業同職集居を特色とした。商人町としての石町(こくちょう)(米屋)、塩町、肴(さかな)(魚)町、青物町(八百屋(やおや))、紙屋町、職人町としての鍛冶(かじ)町、大工(だいく)町、紺屋(こんや)町などの町名が旧城下町の都市に多いのは、その名残(なごり)である。とくに職人町の場合、町役免除の特権と引き換えに、その生産を優先的に領主の需要に振り向けることが義務づけられていた。また商人町の場合も、商業助成策として特定町に専売特権(町座)が付与された例が多い。

 城下町の本町人とは、このような成立期に屋敷割を受けた者たちであり、これらの町人が生み出す新たな需要に応じるための町人がこれに追加されて城下町の発達がみられた。すなわち、このような領国経営の核とする都市計画も、前期における城下町への流入人口の増加による市域の拡大とともに、同業集居の原則は崩れ、平和の長期化による軍需の減退は、手工業生産の内容を変え、特定町の専売特権も消滅していった。そして初期的な門閥町人による少数支配にかわって、新興の問屋商人を中心とする遠隔地商業組織が17世紀後半から18世紀前半にかけて形成された。もっともひと口に城下町といっても、領主の所領規模の広狭や地理的立地条件によって領域経済に果たしえた経済的機能には格差がある。したがって各城下町の盛衰の時期は一様ではないが、概して元禄(げんろく)期(1688~1704)前後に最盛期を迎えたが、その後、領主経済の窮乏による中央都市商人への依存度の増大、領内外の在郷町の成長などによって、城下町の経済的地位は停滞ないし減退するに至った。廃藩置県後、城郭の大部分は破壊され、人口の大半を占める士族は四散したが、代表的な城下町の多くは県庁所在地として地方自治の中枢にあり、あるいは鎮台(ちんだい)設置による軍事都市として蘇生(そせい)した。

[鶴岡実枝子]

『『封建都市』(『豊田武著作集 第4巻』1983・吉川弘文館)』『中部よし子著『城下町』(1978・柳原書店)』『矢守一彦著『都市プランの研究』(1970・大明堂)』『矢守一彦著『城下町』(1972・学生社)』『豊田武・原田伴彦・矢守一彦編『講座日本の封建都市』全3巻(1981~83・文一総合出版)』

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百科事典マイペディア 「城下町」の意味・わかりやすい解説

城下町【じょうかまち】

封建領主の城郭を中心に発達した都市。中世では根小屋(ねごや)・山下(さんげ)と呼ばれた領主の居館を中心とした屋敷集落がみられ,近世に入って城下という呼び方が一般化した。16世紀になると,領国の統一を推進した戦国大名はそれまでの山砦(さんさい)的城を捨て,交通の便がよく経済の中心となっていた土地に築城し,農村から武士と商工業者を誘致して城の周辺に集住させた。このような例として島津氏の鹿児島,武田氏の甲府,今川氏の駿府(すんぷ),北条氏の小田原,大内氏の山口などが有名。16世紀末―17世紀初めに近世大名によって武士・商工業者の城下への集中は強制的に徹底して行われ,また中世にはそれぞれ門前町(諏訪(すわ),金沢など),港町(博多,島原など),宿場町(高崎,浜松など)として栄えた都市も新たに近世城下町として発展した。近世城下町は計画的な町割が行われ,武士は小姓(こしょう)町,同心町,鉄砲町など職掌別に,商人・職人は材木町,米町,呉服町,鍛冶(かじ)町,大工町など職業別に居住区分が行われていた。
→関連項目一乗谷大阪[市]小田原城春日山城加納亀山観音寺城米会所在郷商人在郷町三都下町下津井湊大聖寺田辺寺町伝馬町都市平野郷福知山府中町役人松山(岡山)宮津吉田連雀商人若松

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「城下町」の意味・わかりやすい解説

城下町
じょうかまち

武家時代,領主の居城を中心として展開した都市。「城下」という表現が広く用いられるようになったのは江戸時代のことである。鎌倉時代に領主の居宅を中心とする小集落が生れ,その城郭が山や丘に営まれると,この集落は根小屋,山下,堀之内などと呼ばれた。こうした集落は,戦国時代末期から江戸時代初期にかけて,鉄砲の使用による大歩兵集団の平野地帯での会戦という戦闘様式の変化と呼応して,水陸交通の便がよく領国の政治的,経済的中枢をなす平野地帯の枢要の地に好んで築城が行われてから飛躍的に発展した。領主は直属家臣団,商工業者を強制的に城下に集住させ,楽市・楽座などの政策を通じて城下の繁栄をはかる一方,検地を通じて農民を土地に緊縛したので,都市と農村が分離し,いわゆる城下町が次々と成立していった。城下町では城郭を中心に武家居住地,町屋 (商人町,職人町) ,寺社などが整然と区分され,武家地が全市街の 50%以上を占める場合が多かった。江戸は最大の城下町であった。明治維新後,封建的な政治都市,消費都市としての機能を失いながらも,新たに地方官庁,学校などが設置されたため,地方の政治,経済,文教などの中心として,近代都市へと脱皮したものが多い。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「城下町」の解説

城下町
じょうかまち

中世~近世の最も代表的な都市類型。領主の城館を中心として,家臣団の屋敷,足軽町,寺社,町人地(町屋)などで構成される。起源は,中世の在地領主の館に求められ,南北朝期以降,守護所(しゅごしょ)や国人(こくじん)領主の城館を核とする城館町を先駆的な例とみることもできる。戦国大名の城下町はより規模は大きいが,都市領域は分散的で,家臣団の本拠は依然として在地にあり城下町にはなかった。都市的諸要素を集積した城下町建設は,織田信長の安土(あづち)城下(山下(さんげ))と京都二条邸に始まり,豊臣秀吉の大坂城によって,その基本的構造が完成された。それは巨大な平城を中核とし,兵農分離をへた直属家臣団や商工業者が集中し,中世末の在地社会が築きあげた宗教施設・技術・経済・文化などの諸要素が集積された。近世前期には,江戸・大坂・京都の三都を頂点に,陣屋町など大小さまざまの城下町が建設され,支配・流通・文化の中枢として近世社会の骨格を形成した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「城下町」の解説

城下町
じょうかまち

戦国〜江戸時代,封建領主の居城を中心として発達した町
中世末期,富国強兵を目ざす戦国大名は居城を便利な平地に移し,家臣を統制し訓練するために城下に集住させ,彼らの消費生活の支えと富国実現のために商工業者を招いて町を形成した。城を中心に侍屋敷,その外側に商人地・職人地・寺社などを配置し,軍事上から道路は曲折して見通しが悪い。江戸時代,藩経済の中心として発達した。大内氏の山口,島津氏の鹿児島,今川氏の駿河(静岡県),後北条氏の小田原,織田氏の安土,豊臣氏の大坂,徳川氏の江戸などが有名。

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世界大百科事典(旧版)内の城下町の言及

【市】より

…また,大問屋を御用商人として大名が掌握したことにもよる。 以上のような楽市政策は,近江の六角氏が観音寺城の城下町として,石寺を楽市とした1549年(天文18)を初見とし,戦国大名の城下町経営のために用いられている。今川氏の66年(永禄9),駿河大宮,織田信長の67年,加納楽市場などをはじめとして枚挙にいとまがない。…

【近世社会】より

…この年貢米の換貨,領主層の必要とする諸物資の調達のために商業を営む町人,それに加工業を営む職人たちが,領主の統制に服する諸都市で活動することになる。ここにいう領主層は織田信長の全国統一の試み,豊臣秀吉の統一の過程で,戦国期にみられた武士の在地性が失われ,首都・直轄都市・城下町に居住するものとなる。それとともに大部分の武士は農業生産から離脱し,年貢に寄食するものとなる。…

【寺内町】より

…この居住区の街区は整然とした方格状的プランを維持しているが,周辺の塁濠は小規模となり,防御的要素は稀薄となった。寺内町は城下町の原形となっている点が少なくなく,近世になると,宗教的都市というよりは商業的在町として継承されたり,また城下町の寺町(てらまち)街区となって吸収されている面も多い。しかし寺内町は僧侶や農民,および手工業者が中心となっており,城下町にみられるような身分的職業的規制や統制,および地域制はそれほど顕著ではなかった。…

【職人町】より

…近世の都市において手工業技術者である職人の集住する町。近世初頭の城下町建設期に,領主は築城などの土木建築工事や武器武具類の製作修理など,主として軍事上の必要から大工,左官,鍛冶屋をはじめとする手工業者を城下に集住させる必要があった。そのため,御用手工業者の棟梁には領内における営業権など種々の特権を与え,1町ないし数町の土地を拝領させ,国役(くにやく)または公役としてそれぞれに仕事を請け負わせた。…

【城】より

…石垣を使用することが多くなる西国に対して,土だけの東国(特に武田・後北条両氏)の城では空堀(特に横堀)と土塁の使い方がじょうずで,虎口(こぐち)(郭の出入口)における馬出しと升形(ますがた)の発達を見た。 大名居城では,家臣団の集住とそれを経済的に支える城下町の建設という課題に直面し,肥大化した城郭を長大な外郭線で囲い込む総構えの手法が導入されるようになるが,従来の山城のままでは無理な場合が多いので,平山城ないし平城へ移らざるをえなくなる。その早い試みが織田信長の安土城,後北条氏の小田原城で完成される。…

【寺町】より

…近世城下町は城郭を中心に,武士の居住地である武家地と,商人・職人の居住地である町人地で構成されたが,これらを取り囲む外郭の要所に寺院が集団的・連続的に配置された。この部分を寺町と呼ぶ。…

【都市】より

…無囲郭都市は古くはきわめて例外的存在であったが,日本の都市は古くから城壁に囲まれていなかった。城下町のような城を中心とした都市でも何重かの堀がめぐらされる程度で,住民を防衛する機能を都市はもっていなかった。アジアの島嶼部でも,ヨーロッパ諸国の植民地となるまでは,都市の数も少なかったが,囲郭をもっていなかった。…

【長屋】より

…中世末の京都を描いた町田本《洛中洛外図》(16世紀前期)や上杉本《洛中洛外図》(16世紀中期)にも,通りに面した商人の店舗に長屋形式がみられ,古代末から中世にかけての都市庶民住居として,長屋はかなり一般的なものであったと考えられる。 近世の城下町では,武士と町人以下の居住地区がはっきりと区分されていたが,武士の中でも上級家臣は城の近く,足軽などの下級武士は周辺部というように,身分により居住区が定められていた。下級の武士は長屋に住んでおり,現存する越後新発田(しばた)藩の足軽長屋は茅葺きの窓の少ない閉鎖的な建物で,1戸分は間口3間,奥行3間で,6畳2部屋に板の間という部屋構成をとり,ここに一家族が住んでいたと考えられる。…

【場末町】より

城下町が計画的な都市プランに基づいて建設された江戸初期以後,その周辺部に不規則,無秩序に拡大していった都市域をいう。中心部にある整然とした武家屋敷や領主の御用もつとめる町人たちの町屋と対照的に,場末町には日雇稼ぎや棒手振(ぼてふり)といった下層民が居住することが多かった。…

【町】より

…この町人町には,現在も所によっては残っているが,職人町では大工町,塗師町,桶町,鍛冶町,紺屋町,畳町など,商人町では呉服町,瀬戸物町,材木町など,そして交通関係では伝馬町とか旅籠屋町などの町名がつけられていた。こうした町名をもつ町の場合,同業者が集住していたというだけでなく,近世初頭に城下町ができたとき,領主側の必要によってつくられたのである。領主側は町人町に対しては農村とちがって年貢をとることなく,地子免除にしている例が多く,その代りに町々は人足役や伝馬役,そして領主御用の負担を課される。…

【屋敷】より

…平坦地農村の百姓の屋敷には,その北側から西北にかけて屋敷林を備えるものがあり,防風,防暑,防火,燃料・用材の採取などを目的にして竹,雑木,松,杉などを植え,これを〈いぐね〉(東北),〈くね〉(関東),〈築地松(ついじまつ)〉(出雲)などと各地各様に呼びならわした。 領主の軍事,政治,経済の拠点としての城下町の建設過程では,城郭を中心に,その周囲に武家屋敷を置き,その周辺に年貢免除の町屋敷を配置し,町割(まちわり)に従って職業別に町屋(まちや)を配列して同業者町を形成した。幕府の職務分掌のあり方では,村方の屋敷については,地方(じかた)の租税徴収を統轄する勘定奉行の掌管事項に含まれていたが,江戸の町屋敷は町奉行の一手支配におかれていた。…

【楽市令】より

…主として16世紀後半,戦国大名および織豊政権が,地方市場,新設の城下町に出した法令。楽市令は大別して次の2種に分けられる。…

※「城下町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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