日本歴史地名大系 「松山城下」の解説
松山城下
まつやまじようか
- 愛媛県:松山市
- 松山城下
松山平野の中心にある分離丘陵の
関ヶ原の戦ののち二〇万石に加増された加藤嘉明は、慶長七年(一六〇二)に勝山に松山築城の工を起こすとともに、城下町の建設に着手した。翌八年一〇月に嘉明が家臣および伊予郡
〔城下町の形成〕
嘉明による新城下町の構想は、(一)勝山の南麓に
元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)は、前記の「古町分三拾町」と、その外郭地域として「外巡町弐拾三町」、さらに郷村と接触する周辺部として「水呑町拾八町」の名称を列記している(小字は後代に書き入れた注記)。
松山城下
まつやまじようか
- 岡山県:高梁市
- 松山城下
松山城の
〔創設〕
天正二年(一五七四)から三年にかけて起こった、いわゆる備中兵乱で松山に籠城し、毛利・宇喜多連合軍を迎え討った城主三村元親は、城下の入口にあった惣門に柵を設けて、討取った敵勢の首三千余を掛並べたという(中国兵乱記)。当時の御根小屋は江戸時代と同じ場所にあり、首を掛並べた惣門も江戸時代に
これらの町人町の建設と併行して家中屋敷の建設も進められた。松山城下には御根小屋の南を西に向かって流れ松山川(現高梁川)に注ぐ幅二間の上谷川(現小高下谷川)と、松山村のうち奥灘(現奥万田町)から本町の南側を西へ流れ松山川に注ぐ幅三間の下谷川があるが、家中屋敷はこの両川と幅九六間の松山川を内堀・外堀として配置されていた。上谷川と松山川に囲まれた御根小屋西方の本丁は
松山城下
まつやまじようか
〔中山村〕
初代藩主酒井忠恒が屋敷構えを許された当時、中山村は家数一七の小村であった(山形県史)。「筆濃余理」によれば、至徳元年(一三八四)この地には中山館があり館主は佐藤正信で、当地を中山と称したのは、この館に由来するとある。「大泉庄三権現縁記」の永正三年(一五〇六)の記事には「中山片沢ハ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報