松山城下(読み)まつやまじようか

日本歴史地名大系 「松山城下」の解説

松山城下
まつやまじようか

松山平野の中心にある分離丘陵のかつ山に築かれた松山城を中心とする城下町。現在の松山市の中枢部を形成する。勝山は古くから味酒みさけ山とよばれ、南北朝時代に要害の地として宮方の占拠するところとなり、湯築ゆづき(勝山の東方二キロ)の城主であった武家方の河野通盛との間に戦闘を交えたことがあった(河野家文書)。その後室町時代を通じて、伊予国の守護河野氏の管轄するところとなった。

関ヶ原の戦ののち二〇万石に加増された加藤嘉明は、慶長七年(一六〇二)に勝山に松山築城の工を起こすとともに、城下町の建設に着手した。翌八年一〇月に嘉明が家臣および伊予郡正木まさき(のちに松前まさきと書く)の住民とともに居を新城下に移した。「松山叢談」所載の「内山家記」のなかに「勝山を改松山と称す」とあるので、山の称呼が城下の名となったと考えられる。嘉明の統治二五年ののち、寛永四年(一六二七)に蒲生忠知が同じく二〇万石の城主となった。七年ののちの寛永一二年に、松平定行(父定勝は徳川家康の異父弟)が一五万石の城主となり、以降明治維新に至るまで一四代二三四年、松平氏の統治下にあった。

〔城下町の形成〕

嘉明による新城下町の構想は、(一)勝山の南麓に堀之内ほりのうちを設け、堀之内とその東方および南・北方の地域に武家屋敷を配し、(二)城西・城南に町人町を置き、(三)さらに寺院を城北に移建するにあった。藩の重臣たちはきたくるわ・東ノ郭をはじめ城東・城西の山麓地帯に、上級および中堅の家臣は堀之内および代官だいかん町を中心として南堀端みなみほりばた付近に、下級武士はそれより遠い周辺部地域に配置された。続いて町人町の地割が行われ、古町こまち三〇町の建設が進められた。この時商人層を誘致するために町域を免租地とする政策がとられ、正木あるいは道後どうごの地域から商工業者が移り住んだ。古町三〇町のなかには鍛冶屋かじや畳屋たたみや紺屋こんや細物ほそもの利屋とぎや樽屋たるや檜物屋ひものやなどのような職種の名称をもつ町と、呉服ごふくうお米屋こめや紙屋かみやなどのような商業を主とする町とがあった。また古町の中心街をなした本町ほんまち町奉行所があったことから起こった府中町ふちゆうまち(初め御奉行町という)、伊予郡正木の豪商らの移転によって生れた松前町などがあった。

元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)は、前記の「古町分三拾町」と、その外郭地域として「外巡町弐拾三町」、さらに郷村と接触する周辺部として「水呑町拾八町」の名称を列記している(小字は後代に書き入れた注記)


松山城下
まつやまじようか

松山城の御根おね小屋を中心に発達した城下町。江戸時代初頭に備中国奉行小堀氏によって建設が始まり、次いで松山藩主池田氏、同水谷氏の城下町として整備された。元禄六年(一六九三)水谷氏断絶後は安藤氏・石川氏・板倉氏の城下町として栄え、備中の政治・経済・文化の中心地であった。

〔創設〕

天正二年(一五七四)から三年にかけて起こった、いわゆる備中兵乱で松山に籠城し、毛利・宇喜多連合軍を迎え討った城主三村元親は、城下の入口にあった惣門に柵を設けて、討取った敵勢の首三千余を掛並べたという(中国兵乱記)。当時の御根小屋は江戸時代と同じ場所にあり、首を掛並べた惣門も江戸時代にほん丁入口にあった惣門にあたるとみられるところから、三村氏時代にはすでに御根小屋の麓に小規模な城下町が形成されていたと考えられる。しかし、その実態は明らかでなく、城下町の本格的な建設は、慶長九年(一六〇四)父小堀新助(正次)没後その後を継いで備中国奉行となった小堀作助(政一、遠州)によって始められたといってよい。作助は同一一年頃から一五年頃にかけて松山城と下屋敷(御根小屋)の修復を進め(岸本文書)、次いで城下町の建設にかかり、元和二年(一六一六)ほん町およびしん町を取立てている(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)。小堀氏に代わって同三年に因幡国鳥取から松山藩主として入部した池田長幸は、翌四年に本町南端から下谷しもだに(現紺屋町川)を越えて南に延びる備前往来(松山往来)沿いにしも町、その東側に鍛冶かじ町を取立てている(同書)

これらの町人町の建設と併行して家中屋敷の建設も進められた。松山城下には御根小屋の南を西に向かって流れ松山川(現高梁川)に注ぐ幅二間の上谷川(現小高下谷川)と、松山村のうち奥灘(現奥万田町)から本町の南側を西へ流れ松山川に注ぐ幅三間の下谷川があるが、家中屋敷はこの両川と幅九六間の松山川を内堀・外堀として配置されていた。上谷川と松山川に囲まれた御根小屋西方の本丁は内山下うちさんげともよばれ、惣門・南門・北門・西門の四つの門によって外部と遮断されており、西隣の松山川沿いの川端かわばた丁とともに重臣の屋敷にあてられていた。北に上谷川、南に下谷川を配した新町東側の秋葉あきば山麓には、上家中あるいは上士とよばれた家中の屋敷町である御前おんざき丁・上中之かみなかの(のち石火矢丁)片原かたはら丁・頼久寺らいきゆうじ丁・中之丁伊賀いが町・小高下ここうげが取立てられ、鍛冶町の東側にあたる一帯には、下家中あるいは下士とよばれた家中の屋敷町であるてら町・鷹匠たかしよう(のち向丁)柿木かきのき丁・大工だいく丁・荒神こうじん丁・荒神横丁(のち中小姓丁・建丁)甲賀こうが丁・八幡やはた丁が取立てられた。


松山城下
まつやまじようか

[現在地名]松山町 荒町あらまち本町ほんまち新町しんまち片町かたまち北町きたまち仲町なかまち新屋敷しんやしき南新屋敷みなみしんやしき元新屋敷もとしんやしき肴町さかなまち南町みなみまち内町うちまち稲荷沢いなりざわ金谷かなや蔵小路くらこうじ総光寺沢そうこうじざわ妙香寺沢みようこうじざわ真学寺沢しんがくじざわ中森なかもり西田にしだ山田やまだ

現松山町の中心部、東の出羽山地山麓と、西の最上川右岸の間の狭い地域に位置する。総光寺沢および中山なかやま神社境内には縄文後期の集落跡がある。正保四年(一六四七)庄内藩より分封された松山藩二万石(安永八年以後二万五千石)の城下町である。城下建設以前は中山村と称した。

〔中山村〕

初代藩主酒井忠恒が屋敷構えを許された当時、中山村は家数一七の小村であった(山形県史)。「筆濃余理」によれば、至徳元年(一三八四)この地には中山館があり館主は佐藤正信で、当地を中山と称したのは、この館に由来するとある。「大泉庄三権現縁記」の永正三年(一五〇六)の記事には「中山片沢ハ(カ)光寺領也、同片沢大山円妙院之寺領也」とある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一五〇石余、同一〇年の検地帳(松嶺区有文書)では高三九三石余とあり、名請人三八、うち居村は一九で、入作は隣村の田尻たじり村が多い。最も保有地の多いのは大炊助で三町三反余、縄引は肝煎内匠のほか大炊助と七郎左衛門で、大門・寺田・神田など五一の字名がみえる。寛文二年(一六六二)藩主入部に際して中山村の農民を城下の本町に移し、田四四石余を埋立て永引高とした。同四年に松山村と改める(「大泉紀年」など)。なお天保郷帳には松山町とみえ高二二〇石余とあり高が減っているが、これは町場の形成や天明元年(一七八一)から同八年までの築城工事によって潰地が出たためと思われる。藩主忠恒が当地を城池としたのは、新庄藩境における庄内藩の支城かめさき(現酒田市)の補翼としての軍事上の意義があり、最上川と相沢あいさわ川に囲まれた藩領のほぼ中央にあって松山藩全体の経済・交通上の要地を占めていたからであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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