世界大百科事典(旧版)内のAlamūtの言及
【ダイラム】より
…タバレスターン,ゴルガーンを支配したジヤールZiyār朝(927‐1090ころ),東方イスラム世界の盟主となったブワイフ朝,さらには中央イランのカークワイフKākwayh朝(1008‐51)は,いずれもダイラム人自らが建てた王朝である。11世紀の末には,ダイラム地方の中心地アラムートAlamūtがニザール派のハサン・サッバーフの手に落ち,フレグのモンゴル軍に滅ぼされるまで難攻不落を誇った。ニザール派教団の刺客フィダーイーとなったダイラム人も多い。…
【ハサン・サッバーフ】より
…その後イラン各地で宣教活動に従事。90年イラン北部エルブルズ山中の要害アラムートAlamūt城を奪取し,やがてダイラム,クーミス,クヒスタンおよびシリア方面に勢力を拡大した。94年ファーティマ朝カリフの後継者問題を機に,廃嫡されたニザールNizār(?‐1096)を支持して同朝と断絶し,ニザール派を形成した。…
※「Alamūt」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」