ハサン・サッバーフ
Ḥasan-e Ṣaabbāḥ
生没年:?-1124
イランのニザール派の初代ダーイー(宣伝者,布教者)で,いわゆるアサッシン教団の創始者。コムに生まれ,レイに学ぶ。1072年イスマーイール派のダーイーとなり,78年エジプトのファーティマ朝宮廷に赴く。その後イラン各地で宣教活動に従事。90年イラン北部エルブルズ山中の要害アラムートAlamūt城を奪取し,やがてダイラム,クーミス,クヒスタンおよびシリア方面に勢力を拡大した。94年ファーティマ朝カリフの後継者問題を機に,廃嫡されたニザールNizār(?-1096)を支持して同朝と断絶し,ニザール派を形成した。絶対的権威への服従を説くターリーム理論に基づく〈新教説〉(ダーワ・ジャディーダ)を唱道し,強固な教団組織と独特の暗殺戦術をもってセルジューク朝スンナ派体制に対抗,ニザール派運動の基礎を据えた。禁欲的で峻厳な人物で,2人の息子を禁を犯したとして処刑したという。著述家としても知られるが,自伝と神学論文の断片が伝えられるのみである。
執筆者:加藤 和秀
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ハサン・サッバーフ
はさんさっばーふ
asan-i
abbā
(?―1124)
イスラム教イスマーイール派の一支派ニザール派(アサシン派)の初代宣教師。エジプトのファーティマ朝のカリフ、ムスタンシルal-Mustan
ir(在位1036~1094)の後継者争いで敗れたニザールのイマーム(教主)位を擁護し、ファーティマ朝のイスマーイール派から分裂した。カスピ海南岸のアラムートの山中に砦(とりで)を設け、スンニー派のセルジューク朝と対立した。イマームの権威への絶対的服従を強調した。
[鎌田 繁 2018年4月18日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のハサンサッバーフの言及
【ダイラム】より
…タバレスターン,ゴルガーンを支配したジヤールZiyār朝(927‐1090ころ),東方イスラム世界の盟主となった[ブワイフ朝],さらには中央イランのカークワイフKākwayh朝(1008‐51)は,いずれもダイラム人自らが建てた王朝である。11世紀の末には,ダイラム地方の中心地アラムートAlamūtがニザール派の[ハサン・サッバーフ]の手に落ち,フレグのモンゴル軍に滅ぼされるまで難攻不落を誇った。ニザール派教団の刺客[フィダーイー]となったダイラム人も多い。…
※「ハサンサッバーフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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