高庭荘(読み)たかばのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「高庭荘」の意味・わかりやすい解説

高庭荘 (たかばのしょう)

因幡国高草郡(現,鳥取市)にあった荘園。756年(天平勝宝8)東大寺野占使(やせんし)平栄らが,国司と在地の豪族国造難磐(かついわ)の協力をえて占定した勅施入地に発する。その地積は67町9段余(ただし見開3町9段余)であったが,765年(天平神護1)墾田長国造難磐の売進田5町8段余を加えて73町8段余となった。しかし801年(延暦20)に至り,東大寺三綱は55町1段余を代価4000束で参議藤原縄主に売却し,803年には12町8段余が代価1000束で因幡守藤原藤嗣に売却された。縄主・藤嗣の所有地は着々と開発されたが,東大寺の手もとに残った5町8段余は得田は2町に満たず,ほとんど実質を失っていた。838年(承和5)東大寺は寺使を派遣して失地回復を図ったが,国司の協力が得られず不成功に終わり,10世紀初頭にも失地の返還・回復運動を起こしたが結局失敗に帰し,10世紀末にはほとんど荒廃の地となり,荘名をとどめるのみであった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高庭荘」の意味・わかりやすい解説

高庭荘
たかばのしょう

因幡国(いなばのくに)高草郡の荘園。現在の鳥取市域内に比定される。東大寺領。756年(天平勝宝8)東大寺野占使平栄(やせんしへいえい)らが現地に赴き、国司(こくし)および在地の豪族国造難磐(くにのみやつこかついわ)の協力の下に占定した勅施入地(ちょくせにゅうち)に起源をもつ。全地積67町9段余(うち見開田3町9段余)に、墾田長(こんでんちょう)となった難磐の売却田5町8段余を加えて73町8段余であった。801年(延暦20)東大寺はこのうち55町余を代価稲4000束で参議藤原縄主(ただぬし)に、803年12町8段余を1000束で因幡守藤原藤嗣(ふじつぐ)に売却した。東大寺の手元に残った5町8段余のうち収益の見込める得田(とくでん)は2町に満たず、寺使を派遣して失地回復を図ったが失敗に終わり、10世紀末にはほとんど実質を失い荒廃の地となった。

阿部 猛]

『阿部猛著『日本荘園史』(1972・大原新生社)』

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世界大百科事典(旧版)内の高庭荘の言及

【因幡国】より

…国内中央部を北流して日本海にそそぐ千代川流域周辺は,大化前代以来因幡国の政治・文化の中心地をなしており,この地域には多数の前方後円墳が築造され,条里制遺構も顕著で,国府周辺の国分寺をはじめ古廃寺跡も多数存する。墾田長国造難磐(かついわ)の協力を得て営まれた東大寺領高庭(たかば)荘は,同川の下流左岸,湖山池との間の低湿地に位置した。国内の式内社は46社50座の多数を数え,国内唯一の大社である国府周辺の宇倍(うべ)神社は11世紀末ごろ因幡国一宮の地位を占めた。…

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