百科事典マイペディア 「リュツェンの戦」の意味・わかりやすい解説
リュツェンの戦【リュツェンのたたかい】
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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…スウェーデン国王。在位1611‐32年。グスタブ・アドルフともよばれる。スウェーデンの公カールの長子として生まれる。父は,スウェーデン王兼ポーランド王ジグムント3世(アドルフの従兄)と争ってこれをスウェーデンから追い,摂政(1599),ついで王となり(1604‐11),死後,17歳に満たぬアドルフに,スウェーデン王位とともにデンマーク,ロシア,ポーランドとの紛争・確執を残す。 デンマークとのカルマル戦争(1611‐13)は劣勢で,イングランド王ジェームズ1世の調停をえてクネレドKnäredの和議を結ぶが,過酷な賠償を負う。…
…グスタブ2世はフランスの援助の確約をとりつけて,1630年6月ポンメルン(現,ポモジェ)に上陸し,新教派の有力諸侯ブランデンブルク選帝侯,ザクセン選帝侯の協力を得,31年9月にザクセンのブライテンフェルトBreitenfeldにティリを大敗させ(ブライテンフェルトの戦),南ドイツ,西ドイツへと進出し,31年にはボヘミアのプラハをも占領した。この劣勢に皇帝はワレンシュタインを再度皇帝軍総司令官に起用することに決し,ワレンシュタインは32年11月ライプチヒ近くのリュツェンLützenにグスタブ2世と会戦して,戦いには敗れたが,王を戦死させた(リュツェンの戦)。ワレンシュタインはその後ひそかに新教派諸侯,スウェーデンと和平を交渉したが,それを知った皇帝によって暗殺された。…
…三十年戦争時代のドイツの将軍。1625年神聖ローマ皇帝軍総司令官に任命され,新教派軍撃破の原動力として活躍したが,旧教派諸侯の圧力によって30年罷免された。スウェーデン王グスタフ・アドルフ(グスタフ2世)のドイツ侵入とともに再度起用されたが,32年リュッツェンLützenの戦でアドルフを戦死させたが戦いには敗れ,以後ひそかに新教派と和平交渉を行ったため,皇帝の刺客によって暗殺された。ワレンシュタインの激動の生涯については,シラーの戯曲によって広く知られるところとなっている。…
※「リュツェンの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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