日本大百科全書(ニッポニカ) 「レンブラント」の意味・わかりやすい解説
レンブラント
れんぶらんと
Rembrandt van Rijn
(1606―1669)
オランダの画家、版画家。1609年にスペインから事実上の独立を確保し、またたくまにヨーロッパ第一の商業国・貿易国となった17世紀オランダには、それまでのヨーロッパ絵画にはなかった風俗画・風景画という市民絵画の全盛をもたらした。そのオランダ最高の、しかもはるかにオランダを超えて世界絵画史上最大の画家の1人がレンブラントである。1606年7月15日、ライデンの粉屋の六男に生まれる。彼の絵画への興味はすでに少年時代に芽生えており、1620年にライデン大学に入ったが、半年足らずで学問への道を捨て、画家としての第一歩を踏み出した。当時のオランダ画壇には、イタリア絵画に刺激を受けた、いわゆるロマニストたちが多く、彼もまたライデンのスワーネンブルヒJacob van Swanenburg(1571―1638)、ついでアムステルダムで人気のあったラストマンPieter Lastman(1583―1633)についた。とくにラストマンのもとでイタリアのカラバッジョ風の自然主義と明暗法を知ったことは、子供のころから風車の動きによって生ずる光の不思議な幻想のなかに育ってきた彼に、大きな滋養となった。1625年には独立の画家としてライデンにアトリエを構えている。
彼の対象―人間に対する観察と明暗の激しい対照のなかにとらえる生命感の表現は、まず肖像画家としてしだいに成熟した。1631年にはアムステルダムへ移住、その後まもなく注文を受けて描いた『トゥルプ博士の解剖学講義』(ハーグ、マウリッツハイス美術館、医学史)により、一躍画壇の人気者になった。この作品には、当時のオランダに流行していた記念撮影風の団体肖像画にはみられない、人間相互の連帯感と緊迫感があり、各人物が個性豊かに表現されている。その後、北オランダの名門の出であるサスキアSaskia van Uylenburgh(1612―1642)との結婚(1634)にも恵まれ、肖像画家として、また彼本来の聖書に取材した作品によって、盛名と収入を高めていった。そのような彼に生涯の大きな転機となったのは、1642年の大作『夜警』(アムステルダム国立美術館)の完成である。アムステルダムの自警団から依頼されたこの団体肖像画において、彼は一つの情景を描き出した。それは、もはや単なる団体幹部の羅列図ではなく、明らかに構想されたドラマである。そのため、平板な記念撮影風の作品を求めていた世間からはけっして満足されず、この作品を境にして、彼の世間的人気はしだいに下降し、さらにこの年、サスキアの死にも遭遇する。しかし同時に、魂の画家、光の画家、あるいは人間愛の画家といわれる彼の神髄はこれ以後に円熟し、完成する。
彼は人間性そのものを、生命の動きそのものを描こうとした。色彩に溶け、闇(やみ)にまで温かく息づく独特の豊かに深い明暗のリズムは、彼の芸術を導き出す源泉であった。彼は聖書や神話による構想画、肖像画、風景画などのあらゆる分野を描いているが、そのいずれにおいても、当時のオランダに栄えた着実な風俗画や風景画をはるかに超えて、見る人の心に深々と訴えてくる。しかも、彼ほど対象に対して徹底した写実の人はないであろう。そして、それを人間の魂の声にまで高めているのは、彼独自の明暗法である。彼には現存するだけでも100近い自画像があるが、これこそかけがえのない彼自身の歴史であり、生命の記録である。自己の芸術に忠実なあまり、晩年の彼は経済的にも対世間的にもしだいに見捨てられていった。しかしなお彼を信頼する幾人かの友人と、1649年に彼の家庭に入った晩年のよき伴侶(はんりょ)ヘンドリッキエHendrickje Stoffels(1625/1626―1663)に支えられて、画業はいよいよ神技の境に達した。しかし、1656年には破産の宣告を受け、1669年10月4日、アムステルダムのユダヤ人区の一隅で、ほとんど忘れられたままにその生涯を終えた。彼は、版画家としても世界最大級の1人であり、今日、油絵約500点、版画約300点、素描約2000点が、世界の美術館、所蔵家のもとに愛蔵されている。
[嘉門安雄]
『嘉門安雄著『レンブラント』(1968・中央公論美術出版)』▽『土方定一著『レンブラント』(1971・新潮社)』▽『ウォレス著、嘉門安雄監訳『レンブラント』(1970・タイムライフ社)』▽『前川誠郎他解説『世界美術全集13 レンブラント』(1977・集英社)』▽『M・ブリヨン他著、末木友和他訳『世界伝記双書7 レンブラント』(1983・小学館)』