バルカン連邦(読み)ばるかんれんぽう

山川 世界史小辞典 改訂新版 「バルカン連邦」の解説

バルカン連邦(バルカンれんぽう)

19世紀後半から20世紀初め,バルカン(南東欧)における民族の対立,抗争の解決策として提起された構想。イタリアやドイツ統一の影響を受けて,バルカンでもこの地域の再編が考えられ,三つのレベルで連邦案が生まれた。第一は,ヨーロッパ外交史上,「東方問題」と称されるオスマン帝国支配地域の問題の解決策として持ち出された。この例は,ハプスブルク帝国の辺境地ボイボディナ地方のセルビア知識人ポリト‐デサンチッチとミレティチであり,バルカン連合構想を提起した。第二は,セルビアの社会主義者マルコビッチやトゥツォヴィチが主張した社会変革の手段としてのバルカン連邦案である。第三は,オスマン帝国からの民族解放が遅れた地域の解放の手段としてのバルカン連邦構想であり,ブルガリアマケドニアで唱えられた。さらに,国家レベルの動きとしては,1860年代後半にセルビアを中心としてギリシア,ルーマニア,モンテネグロ間にオスマン帝国に対するバルカン同盟を築く試みがなされた。バルカン連邦は実現することはなかったが,現在に至るまでさまざまな形で続くバルカン諸国の地域協力の基礎となっている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のバルカン連邦の言及

【東欧】より

…バルカンでは,オスマン帝国の支配に対する知識人や農民の民族解放運動が19世紀初めから展開されるが,1870年代までにはほぼ諸民族の独立が達成され,その中で農民による土地所有も成立した。こうした過程で注目すべきは,一つにはブルジョア的変革を貴族や知識人や農民が担わなければならなかったことであるが,もう一つは,1860年代の東欧一般において,ナショナリズムは必ずしも民族国家の形成を単線的にはめざしていなかったことで,連邦制(ドナウ連邦やバルカン連邦)や国家連合などで,多民族的現実に対応しようとしていたことである。しかしこの動きはオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(アウスグライヒ,1867)やドイツ統一(1871)後のバルカンではしだいに弱まり,東中欧でもしだいに限定されていく。…

※「バルカン連邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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