共同通信ニュース用語解説 「セルビア」の解説
セルビア
旧ユーゴスラビアの構成国の一つ。首都はベオグラード。2008年に自治州コソボが独立を宣言したが、セルビアは承認していない。20年の1人当たりの国民総所得は7420ドル(約100万円)。スポーツでは男子テニスのジョコビッチ選手が有名。サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会にも出場した。(ベオグラード共同)
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旧ユーゴスラビアの構成国の一つ。首都はベオグラード。2008年に自治州コソボが独立を宣言したが、セルビアは承認していない。20年の1人当たりの国民総所得は7420ドル(約100万円)。スポーツでは男子テニスのジョコビッチ選手が有名。サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会にも出場した。(ベオグラード共同)
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ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和国。正式名称は、セルビア共和国。セルビア語ではスルビヤSrbija。北をハンガリー、北東をルーマニア、東をブルガリア、南を北マケドニア共和国とコソボ、西をクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロと接する。面積は8万8361平方キロメートル(コソボを除くと7万7474平方キロメートル)、人口747万9437(2002センサス、コソボ自治州は除く)、約940万(2006推計、国連暫定統治下のコソボ含む)。首都はベオグラード。なお、セルビア共和国内には、北部にボイボディナ、南部にコソボの2自治州がある(ただし、コソボ自治州は2008年2月に「コソボ共和国」としてセルビアからの独立を宣言、ヨーロッパ連合(EU)諸国、アメリカなどは独立を承認したが、セルビアは認めていない)。
もともとは ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)を構成していた6共和国の一つで、1992年からはモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を構成していたが、2003年2月公布の新憲法(憲法的憲章)に基づき、両共和国の行政権を大幅に拡大した、より緩やかな連合国家へ移行、国名をセルビア・モンテネグロと改称した。その後は、連合国家セルビア・モンテネグロの構成共和国となっていた。しかし、モンテネグロは、かねてより分離独立志向が強く、通貨、経済・法律体制などもセルビアとは異にしており、2006年5月に独立の是非を問う住民投票を実施、賛成多数で独立を決定し、同年6月独立宣言した。こうして、モンテネグロが連合国家セルビア・モンテネグロから離れて、モンテネグロ共和国として独立したことを受け、同年6月セルビアは、セルビア・モンテネグロの承継国である独立国家セルビア共和国となったのである。
住民は、セルビア人が多いが、アルバニア人、ハンガリー人、クロアチア人、モンテネグロ人、ロマなど多民族によって構成される。第一の公用語はセルビア語だが、モンテネグロ語、ボスニア語、ハンガリー語、アルバニア語、ロマ語、クロアチア語、スロバキア語、ルーマニア語など、多くの言語が用いられている。宗教は、セルビア正教徒が多く、ほかにカトリック、イスラム教徒、プロテスタントなどとなっている。
北部はドナウ川が貫流し、ハンガリー大平原の一部をなす。とくにティサ川流域は、この平原のもっとも低い地域に相当し、しばしば洪水にみまわれる。中部はモラバ川流域の低地と、ロドピ楯状地(たてじょうち)に属する高原地帯からなる。南東部は構造的にはカルパティア山脈に属し、ドナウ川による横谷部では鉄門峡をはじめ多くの峡谷があり、大規模な水力発電が行われている。温暖な大陸性気候で、平原部はセルビア屈指の穀倉地帯であり、トウモロコシ、小麦、ヒマワリの栽培が盛んである。セルビアの農業生産はきわめて高い。銅、亜鉛、アンチモン、金、銀の資源に恵まれ、また工作機械、自動車、電器、化学の工業が盛んである。
[漆原和子]
7世紀初頭、セルビア人がこの地方に定住した。以後12世紀に至るまで、さまざまなジュパン(族長)の抗争が続いた。内部の結束を欠いていたので、外部勢力の影響を受けやすく、一時ブルガリアの支配下に置かれたが、概してビザンティン帝国の統治を受けた。宗教的にも9世紀後半に、ビザンティン皇帝の要請を受けたキリロスとメトディオスの伝道活動により、東方正教会の影響下に入った。1168年、ネマーニャStefan Nemanja(在位1168~1196)はビザンティン帝国の内紛に乗じてその勢力下から脱し、セルビアを約200年間支配するネマーニャ朝を創設した。彼の後継者たちは国内の統一、領土の拡大、経済発展に力を尽くした。なかでも14世紀前半、ドゥシャン王Stefan Dušan(在位1331~1355)の時代が最盛期であり、その領土はバルカン半島の南部をほぼ覆い、ビザンティン帝国に迫った。しかし1389年のコソボの戦いを契機として、オスマン・トルコのバルカン進出が決定的となり、以後400年以上にわたり、オスマン帝国の支配を受けた。長いオスマン帝国の統治下で、セルビア人はセルビア正教会や民族叙事詩を通して民族性を保ち、19世紀初頭、他のバルカン諸民族に先んじてオスマン帝国に対し二度にわたる蜂起(ほうき)(1804~1813年、1815年)を企てた。その結果、1830年に完全な自治を有する公国となった。1878年、ロシア・トルコ戦争後のベルリン条約により王国として正式な独立を承認され、以後、近代国家としての発展を遂げる。20世紀に入り、ハプスブルグ帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)との関係が悪化し、これが第一次世界大戦を引き起こす原因となった。第一次世界大戦後の1918年、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(1929年以後、ユーゴスラビア王国と改称)の中心地となった。
[柴 宜弘]
南スラブの統一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」はセルビア王国のカラジョルジェビッチ王朝のアレクサンダルを国王として、政治的にはセルビア中心の集権体制が築かれた。そのため、分権制を主張するクロアチアとの対立が顕著となった。両者の対立はユーゴスラビア最大の民族対立として継続した。1941年、ユーゴがドイツをはじめとする枢軸軍の侵攻を受けると、セルビアはドイツの占領下に置かれ、傀儡(かいらい)政権がつくられた。これに対して、ユーゴ王国軍のなかでも降伏を受け入れないセルビア人の将兵が、ミハイロビッチDraža Mihailović(1893―1946)のもとにチェトニク部隊を結成し、山岳地に立てこもって抵抗運動に着手した。しかし、チェトニクは具体的な抵抗運動を行わないうちに、ドイツ軍と協力関係をもつようになり、勢力を拡大できなかった。1944年10月、ようやくパルチザンによる対独抵抗運動が勝利を収め、首都ベオグラードが解放された。1945年11月、チトーを首班とするユーゴスラビア連邦人民共和国(1963年からはユーゴスラビア社会主義連邦共和国が正称、旧ユーゴスラビア)が成立し、セルビアはボイボディナとコソボの2自治州をもつ人口最大の共和国となった。
第二次世界大戦後の自主管理社会主義体制下で分権化が進められたが、1960年代までは事実上、セルビア人のランコビッチAleksandar Ranković(1909―1983)が内務機関を統括しており、集権的体質が継続していた。ランコビッチが追放され、1960年代後半には自由化政策が推進された。「74年憲法」(1974年に改正されたユーゴスラビア憲法)により、6共和国と2自治州の「経済主権」が認められ、緩い連邦制が導入された。1980年代の「経済危機」と共和国への昇格を求めるコソボのアルバニア人分離独立問題が長期化するなかで、セルビアでは連邦制の強化を求め、「74年憲法体制」に対する不満が高まっていく。セルビアの民族主義の高まりを背景にして、ミロシェビッチがセルビアの指導者として登場した。1980年代末には、連邦制の強化か、さらに緩い国家連合への移行かで、セルビアとスロベニアが対立した。旧ユーゴが解体へと向かうなか、1990年に行われた自由選挙では、セルビア社会党と改称した共産主義者同盟が勝利を収めた。旧ユーゴが解体していく過程においても、セルビアとモンテネグロはともに連邦維持の立場を貫く。1991年6月スロベニア、クロアチアが独立を宣言し、内戦を伴うユーゴ紛争が始まった。1992年1月には両国がEU(ヨーロッパ共同体)諸国の承認を受け、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が実質的に解体、スロベニア、クロアチア、マケドニア(現、北マケドニア共和国)、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。同年4月セルビアとモンテネグロは、旧ユーゴを継承するユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)の成立を宣言した。ミロシェビッチは1987年にセルビア共和国幹部会議長に就任して実権を掌握して以来、新ユーゴにおいても1992年にセルビア共和国大統領(1992~1997年)、1997年には新ユーゴ連邦の大統領に就任した。
1995年にボスニア内戦が終息したが、ミロシェビッチ政権のもと、1998年に入っても新ユーゴは国際復帰を果たせず、経済不振が継続するなか、コソボ問題と自立傾向を強めるモンテネグロ共和国の問題が表面化した。とくに、コソボ自治州で多数を占めるアルバニア人勢力が独立を求めたコソボ紛争が生じた。国連やアメリカ、EUなど国際社会が仲介し、和平交渉が行われた。しかし、ミロシェビッチ政権が最終的な和平案を拒否したため、1999年3月、国際社会は「人道的介入」に踏み切り、新ユーゴはNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)軍の空爆を受け、多大な被害を被った。新ユーゴ連邦軍が展開したコソボ自治州では、大量のアルバニア系住民の難民が発生した。同年6月、ミロシェビッチがG8(ジーエイト)(主要8か国)の提案する和平案を受け入れ、新ユーゴ連邦軍はコソボから撤退した。78日間に及ぶ空爆はやみコソボ和平が成立したが、ミロシェビッチはこの過程でオランダ・ハーグの旧ユーゴ戦争犯罪国際法廷から、反人道的行為や大量殺害の罪で戦犯として起訴された。2000年9月、経済制裁の続く最悪の経済状態のもとでの大統領選でミロシェビッチは敗北、10月の「民衆革命」により、13年に及ぶミロシェビッチ政権は崩壊し、セルビア野党連合(DOS)のコシュトゥニツァが新大統領となった。2003年2月、連邦議会において、新ユーゴスラビアを連合国家として再編するための憲法的憲章が採択、公布されたことにより、国名が「セルビア・モンテネグロ」に変更された。これに伴い、「ユーゴスラビア」という国名は完全に消滅した。
一方、モンテネグロ共和国はユーロを通貨とするなど、経済や法律などの体制もセルビアとは異なり、かねてより独立志向が強かった。「セルビア・モンテネグロ」移行後も、独立に向けて準備を進めた。2006年5月21日、独立の是非を問う住民投票がモンテネグロで実施され、独立賛成票が55%を超えた。この結果、独立賛成案が議会で可決され、同年6月3日にモンテネグロは独立を宣言、モンテネグロ共和国となった(2007年の新憲法で正式名称はモンテネグロとなる)。このモンテネグロの独立を受け、2006年6月セルビアは、「セルビア・モンテネグロ」の承継国としてセルビア共和国となり、国家機関の再編が行われた。
セルビア共和国の政体は共和制。元首は大統領。初代大統領は民主党党首のボリス・タディッチBoris Tadic(1958― 、任期2004~2012)。議会は1院制(定数250)で、民主党、進歩党、セルビア社会党、セルビア急進党、セルビア民主党、G17プラスなどからなる。首相は民主党のツベトコビッチMirko Cvetjovic(1950― 、任期2008~2012)。
コソボ問題の解決とEU加盟を最優先事項とし、ヨーロッパ諸国との関係強化を図っている。NATOに対する国民の不信感は根強いが、2006年にNATOと「平和のためのパートナーシップ」を締結した。EUとの関係も急速に進み、2008年に安定化連合協定を結び、2009年12月に加盟申請を提出した。経済回復、生活の向上が最大の政治課題である。
[柴 宜弘]
コソボ自治州の面積は1万0887平方キロメートル、州都はプリシュティナ。人口は約190万(2002推計)、220万(2008推計)、民族構成はアルバニア系88%、セルビア系6%、その他(ボスニア人、ロマ、トルコ系など)6%である。
コソボ紛争は、長い歴史的背景をもつが、コソボ自治州の自立・独立を目ざすアルバニア系住民と、それを認めないセルビア当局の争いである。1998年2月、セルビア治安部隊がコソボの独立を目ざすアルバニア系の武装組織であるコソボ解放軍(KLA)に対して、掃討作戦を展開した。これを契機として、両者の武力衝突が激化し、新ユーゴ連邦軍も介入した。国際社会はこの紛争に多大な関心を示し、政治的な解決を目ざした。しかし、政治的な解決は打ち切られ、1999年3月には安保理決議を経ずに、アメリカ軍を中心とするNATOがミロシェビッチ政権によるアルバニア人の人権抑圧に対する「人道的介入」を理由として、ユーゴ空爆を実施した。これに対し、セルビア側も大規模なアルバニア系住民追放を行ったため、大量のアルバニア人難民が発生した。同年6月初め、ミロシェビッチ政権がG8の和平案を受け入れるに至り、コソボ和平が成立した。国連コソボ暫定統治機構(UNMIK)とNATO中心の国際部隊の管理のもとで、コソボの自治の回復が図られた。なお、NATOのユーゴ空爆で使用された劣化ウラン弾によるとみられる被害(白血病や癌(がん)などを発症する健康被害)が、「バルカン症候群」とよばれ問題となった。
2000年にミロシェビッチ政権が崩壊したあと、2001年に初めての自治州議会選挙が行われ、コソボ暫定自治政府が成立した。国連の暫定統治下で、コソボの最終的な地位をめぐり、セルビア政府とコソボ政府との交渉が断続的に続けられたが、領土の一体性を主張してコソボの独立を認めないセルビアと、独立以外の選択肢をもたないコソボとの溝は埋まらなかった。コソボ政府はアメリカと密接な協議を重ねたうえで、2008年2月、セルビアからの一方的な独立を宣言した。アメリカやEUの主要国は、すぐにコソボの国家承認をしたが、コソボと同様の問題をかかえるロシアや中国、EU内のスペイン、ギリシア、ルーマニアなどの反対は強い。国際社会の一致した承認が得られず、コソボは「未承認国家」のままで、国連に加盟できない状態に置かれている。日本は同年3月コソボを承認した。セルビアはコソボ北部地域を実効支配したままであり、国連のもとで、問題解決に向けて、セルビア政府とコソボ政府の直接交渉が進められることになっている。
[柴 宜弘]
通貨はディナールDinar。主要産業は、製造業(鉄鋼、繊維、ゴム製品など)、農業(果実、小麦など)。GDP(国内総生産)は約400億ドル、一人当りGDPは5383ドル、貿易額は輸出約88億ドル、輸入約184億ドル(2007)、主要輸出品目は鉄鋼、野菜・果実などの食料品、化学薬品、繊維製品など、主要輸入品目は石油、自動車、機械類など、主要貿易相手国はロシア、ドイツ、イタリア、ボスニア・ヘルツェゴビナなど(2005)。
[柴 宜弘]
古来さまざまな民族が往来し、旧ユーゴスラビアを経て今日に至るまで複雑な多文化国家という性格が強い。また、西欧と東方ビザンティンの文化が交わる地域としての歴史をもち、文化遺産にもその影響が色濃く残る。世界遺産の登録地としては、中世の西欧とビザンティンの文化交流を伝える歴史的建造物群「スタリ・ラスとソポチャニ」、12世紀ネマーニャ朝の創始者S・ネマーニャによって建てられた「ストゥデニツァ修道院」、コソボ西部にあるデチャニ修道院、ペーチ総主教修道院、プリズレンのリェビシャの生神女教会、グラチャニツァ修道院を含む「コソボの中世建造物群」(危機遺産)、セルビア東部の「ガムジグラード・ロムリアーナ、ガレリウスの宮殿」、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロとともに4か国で登録されている「中世墓碑ステチュツィの墓所群」がある。デチャニ修道院は中世バルカン地方最大の修道院でありビザンティン様式の壁画が有名。
スポーツではサッカー、バスケットボールなど球技が盛んである。サッカーでは、近年日本のJリーグで活躍する選手も輩出している。とくに名古屋グランパスエイトに在籍したストイコビッチは有名。クラブチームのレッドスター(ツルベナ・スベズダ)・ベオグラードは、トヨタカップ(ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ)で優勝したことがある。チェスの強国としても知られ多数のグランドマスター(GM)を擁する。
[柴 宜弘]
旧ユーゴスラビア連邦時代以来の親日国であり、ベオグラード大学言語学部、ベオグラード語学専門学校には日本語科も設けられ、多くの人々が日本語を学んでいる。また、各地に日本の武道(合気道、剣道、空手、柔道)や囲碁、俳句などのクラブがあり、活発な活動を展開している。2011年3月、タディッチ大統領が訪日した。日本への輸出額は約11億円、日本からの輸入額は約32億円(2007)である。
[柴 宜弘]
『柴宜弘著『ユーゴスラヴィアで何が起きているか』(1993・岩波ブックレット)』▽『柴宜弘著『バルカンの民族主義』(1996・山川出版社)』▽『伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾監修『東欧を知る事典』(1993・平凡社)』▽『月村太郎著『オーストリア=ハンガリーと少数民族問題―クロアティア人・セルビア人連合成立史』(1994・東京大学出版会)』▽『クリソルド編、田中一生・柴宜弘・高田敏明訳『ユーゴスラヴィア史』(1995・恒文社)』▽『アンドリッチ著、田中一生訳『サラエボの鐘』(1997・恒文社)』▽『中島由美著『バルカンをフィールドワークする』(1997・大修館)』▽『ウグレシィチ著、岩崎稔訳『バルカン・ブルース』(1997・未来社)』▽『『現代思想臨時増刊・ユーゴスラヴィア解体』(1997・青土社)』▽『D・ロクサンディチ著、越村勲訳『クロアティア=セルビア社会史断章――民族史を越えて』(1999・彩流社)』▽『町田幸彦著『コソボ紛争――冷戦後の国際秩序の危機』(1999・岩波ブックレット)』▽『長倉洋海著『コソボの少年』(2000・偕成社)』▽『大石芳野写真『コソボ絶望の淵から明日へ』(2004・岩波書店)』▽『四方田犬彦著『見ることの塩―――パレスチナ・セルビア紀行』(2005・作品社)』▽『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』▽『木村元彦著『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(集英社新書)』▽『千田善著『ユーゴ紛争――多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書)』
基本情報
正式名称=セルビア共和国Republika Srbija/Republic of Serbia
面積=8万8361km2
人口(2010)=743万人
首都=ベオグラードBeograd(日本との時差=-8時間)
主要言語=セルビア語(公用語),ハンガリー語など
通貨=ディナールDinar
バルカン半島のほぼ中央部に位置する共和国で,モンテネグロ共和国とともにユーゴスラビア連邦(新)を,2003年より国家連合〈セルビア・モンテネグロ〉を構成したが,06年モンテネグロの独立により国家連合は消滅した。セルビア語ではスルビヤSrbija。北部にボイボディナ自治州,南部にコソボ自治州(現,コソボ共和国)が置かれている。ただし,ボイボディナ,コソボを除いた地域だけを狭義のセルビアとする場合もある。この国の歩みは,同じセルビア民族に発するモンテネグロと深く関連している。
モンテネグロの独立によりセルビアがセルビア・モンテネグロの承継国となった。議会は一院制で,定数250人,任期4年。2008年5月の選挙で民主党連合が102議席を占め,ハンガリー系連合も4議席を獲得。同年7月ツベトコビッチMirko Cvetkovićが首相に就任した。元首は大統領で,タディッチBoris Tadićが2004年6月に就任,08年2月に再任された。民族構成はセルビア人83%,ハンガリー人4%など(2002)。ヨーロッパ連合(EU)加盟を最優先課題としているが,EU側はセルビアの旧ユーゴ国際刑事裁判所への協力を加盟交渉進展の条件としている。一方,2008年2月コソボが独立宣言したが,セルビアはこれに反対している。国営企業民営化を通じて経済の活性化を図っている。1人当りの国民総所得(GNI)は3910ドル(2006),経済成長率7.5%,物価上昇率7.0%(いずれも2007)。
執筆者:編集部
バルカン半島のほぼ中央部に位置し,南東方からスターラ・プラニナ山脈,南方からロドピ山脈,西方からディナル・アルプス山脈が迫る山がちの地形で,平地は,北方のハンガリー平原の一部をなすボイボディナ一帯,サバ川流域のマチュバ(中心部シャバツ),モラバ川流域のポモラブリェ(パラチン,チュプリア,スベトザレボの中小都市がある)などに見られる。気候は,狭義のセルビアでは温和な大陸性で,年平均気温は11~12℃(1月は-1~+1℃,7月は22~23℃),年降雨量は600~800mm。河川は北からドナウ川がボイボディナ地方でティサ川と合してベオグラードに至り,サバ川を加えスメデレボでモラバ川を得てルーマニアとの国境沿いに流れる。これとブルガリアに近いティモク川がセルビアの主要な河川である。最高峰はコソボ西部のプロクレティエProkletije山塊にあるジュラビッツア山(2656m)である。湖は北方スボティツァ近くのパリッチ湖,水力発電用の人造湖にバイナバシュタ,ズボルニク,ブラシナなどの湖がある。
第2次大戦前のセルビアは圧倒的な農業地帯で,工業はあまり発達していなかった。狭義のセルビアの中心地はベオグラード南方,ドリナ川とモラバ両川に挟まれた起伏に富むシュマディア地方である。地名のシュマ(森)からもわかるように,19世紀まで森林におおわれ,木の実を飼料とした豚を中心に畜産が盛んであった。畜産は現在,共同農場で行われている。銅,スズ,金,銀などの地下資源はすでにローマ時代から有名で,ネマニッチ朝(12~14世紀)時代の中世セルビアの繁栄はドイツ人,イタリア人,ドゥブロブニク人の援助で鉱山の再開発が行われ,それによって得られた富に負うところが大きかった。だが第2次大戦前は大部分が外国資本家の手中に帰し,搾取されていたのを,戦後は社会有として国民の利益に還元できるようになった。最も重要なボール,マイダンペック,ベリキ・クリベリの銅山は国内の全埋蔵量の90%,アンチモンの全産出を占める。ここにはほかにスズ,モリブデン,タングステン,チタンの鉱床があり,ズラティボル,コパオニクには国内のマグネサイトの大部分を産出する鉱床のほか,アスベスト,石英砂の埋蔵も確認されている。
第2次大戦後は急速に工業化が推し進められ,工業人口は農業人口を上回った。コソボとボイボディナ地方を除くおもな工場をあげると,スメデレボの製鉄所,日本の技術も入っているロズニツァのビスコース工場,ニーシュの機械工場,クラグイェバツにあるバルカン半島最大の〈ツルベナ・ザスタバ(赤旗)〉自動車工場,ベオグラードのゼムン地区にある〈ズマイ(竜)〉農業機械工場,製薬工場,ジェレズニク地区の機械工場,スメデレフスカ・パランカの〈ゴシア〉車両工場があり,ほかに食品・繊維・化学・製材・皮革工場など多くを数える。
セルビア人は7世紀初頭,ビザンティン帝国の支配下にあったバルカンへ移住した。セルビアはまとまりを欠いた部族国家で,領土も海岸部のゼータZeta(現在モンテネグロ),フムHum(現在のヘルツェゴビナ)と内陸部のラシュカRaška(中心部ラス。現在のセルビア南西部)に分かれていた。族長(ジュパン)の一人チャスラフČaslav(在位931-960)は一時広大な領土を手中にしたが短命に終わり,1042年ころボイスラフ公が海岸部を統一した。息子ミカエルがラシュカを加えて教皇から王冠を受け(1077),その子ボディンBodin(在位1081-1101)はさらに王国を拡大した。彼が死ぬと内戦で王国は崩壊し,12世紀には政治の中心地がラシュカへ移った。1169年ステファン・ネマーニャがラシュカの大ジュパンになり,中世セルビアを200年支配するネマニッチ朝を創始し,ゼータを併合,異教徒のボゴミル派を追放した。その末子ラストコRastkoは修道士となり(洗礼名サバSava),コンスタンティノープル総主教管下にあったセルビア教会を独立させ,自ら初代大主教となった(1219)。他方,長子ステファン・プルボベンチャニStefan Prvovenčani(初代戴冠王)は1217年ローマ教皇から王の称号を得たが,サバの影響で王国は9世紀以来のギリシア正教を信奉しつづけた。ステファン・ドゥシャン(在位1331-55)時代に中世セルビアは最盛期を迎え,大主教座を総主教座に格上げした彼は,新首都スコピエで帝王となった(1346)。その最大版図は,セルビア,マケドニア,アルバニア,ギリシアの中部までおよび,3年後には法典を発して国内をかため,ビザンティン帝国にとって代わろうとしていた矢先,46歳で熱病に倒れた。
その後領土は分裂し,諸侯が割拠したため,1371年,オスマン・トルコにマリツァ河畔で敗れ,さらに89年6月28日コソボの平原で決定的な敗北を喫した(コソボの戦)。セルビア人はこの日を決して忘れず,民謡と伝説に滅びの美学を語り伝えた。その後セルビアは領土を縮小され,半独立国として命脈を保ったが,1459年最後の首都セメデレボも落ち,以後350年間トルコの支配下に入った。同じ1459年独立セルビア教会もオフリト大主教座に従属することとなり,自由を求めるセルビア人の群れが以前にも増してドナウ川を越えてハンガリー領のボイボディナへ避難していった。彼らはやがて19世紀の新生セルビア国家に有能な人材を提供する。それはおもに愛国的な文人,医師などで,ブダペストやウィーンから往時の新思潮をとり入れて,ベオグラードに紹介した。
オスマン帝国支配下のセルビア農民の状態は18世紀に入って悪化の一途をたどり,イエニチェリといわれるオスマン帝国の守備隊の横暴が18世紀末に目だつようになって,19世紀初頭のセルビア蜂起をひきおこした。1804年の第1次セルビア蜂起を指揮したカラジョルジェビッチ朝の始祖カラジョルジェは,まずセルビア中央部のシュマディア地方を解放した。だが後ろ盾と頼むロシアがナポレオン戦争に忙殺されていた1813年,オスマン帝国軍の反撃に遭い挫折,ハンガリーへ逃れた。2年後彼の部下だったミロシュ・オブレノビッチが第2次蜂起を成功させ,オブレノビッチ朝を確立して,29年アドリアノープル条約によって自治を得,30年には世襲のセルビア公に就任した。その間,ひそかに帰国したカラジョルジェがミロシュの刺客に殺され(1817),以後セルビア最大の不安定要因となった2王朝の宿怨関係が生じた。オブレノビッチ家の支配はミロシュ(在位1815-39),ミハイロMihailo(在位1839-42)と続き,カラジョルジェビッチ家のアレクサンダルAleksandar(在位1842-59)が一時は登極したものの,再びミロシュ(在位1859-60),ミハイロ(在位1860-68)の2人が復位した。ミハイロは有能な統治者で,10万の正規軍をつくり,憲法を改正し,選挙法と裁判制度を確立するなどセルビアの近代化に努め,67年ついにベオグラードからもトルコ守備隊を撤兵させた。しかし政敵に暗殺され,ミラン(在位1868-89),アレクサンダル(在位1889-1903)が後続した。オブレノビッチ家の人びとは,ミロシュ以来,教養は低かったが外交的手腕にすぐれ,オスマン帝国からさまざまな譲歩を獲得していった。78年ついにベルリン条約によって独立を達成,82年には王国を宣言した。しかしながら失政や醜聞も多く,アレクサンダルは1903年将校団によって王妃ともども虐殺されてしまった。
亡命地から帰国したペータル・カラジョルジェビッチPetar Karađorđević(1844-1921)が代わって即位すると,自由主義的な空気がもたらされ,オーストリア・ハンガリーとの関税論争にもかかわらず貿易も拡大した。教育の進歩と交通の改善で国力も充実して,ボイボディナのセルビア人ばかりでなく,クロアティア人やスロベニア人にも南スラブ民族の解放者として映った。セルビアが両次バルカン戦争の輝かしき勝利者になると,南スラブ人の統一国家はにわかに現実性を帯びてきた。久しく海への出口を求めていたセルビアは,マケドニアを得てもテッサロニキは入手できず,アドリア海への道もセルビア人の多く住むボスニア,ヘルツェゴビナがオーストリアに併合された(1908)ことで絶望的となった。同胞との大同団結を願うセルビアと,自国内の南セラブ民族を押さえこもうとするオーストリアとは,いずれ激突する運命にあった。14年6月28日,コソボの敗戦記念日にサラエボ事件が起こり,第1次世界大戦が勃発すると,バルカン戦争で疲弊していたセルビア軍は,オーストリア,ドイツ,ブルガリアの3軍に屈服し,雪深いアルバニアを大退却してギリシアのコルフ島に逃れた。そこで態勢を立て直し,テッサロニキ戦線に加わり連合軍の対ブルガリア戦勝利に大きく貢献したが,この戦争でセルビアは総人口500万のうち100万の犠牲者を出したといわれる。第1次大戦でオーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊した結果,18年12月1日に南スラブ諸民族を統一した国家〈セルビア人クロアティア人スロベニア人王国〉がカラジョルジェビッチ家の下で成立し,セルビアは新生ユーゴスラビア国家の一員となった。
セルビアは観光地に恵まれているとはいえないが,中世の修道院とその内部を飾るフレスコ画,イコンの数々は,ビザンティン美術の影響が色濃い貴重な遺品として一見の価値がある。代表的なものはセルビア南西部にある13世紀のミレシェボMileševo,ソポチャニSopočani修道院で,その壁画は,ジョットより前に人間的な作風をすでに完成しており,ルネサンス美術との関連から興味深い問題を投げかけている。セルビア人は陽気で,客もてなしが好きである。正教徒の家族がそれぞれの守護聖人の日を祝う〈スラバ〉や,村の結婚式,市の日などに出くわせば,現代社会では見失われがちな人情に触れることができる。
執筆者:田中 一生
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セルビア語ではスルビヤという。2003年に成立した連合国家セルビア・モンテネグロを構成する共和国。首都はベオグラード。12~15世紀に中世セルビア王国が建国され,400年に及ぶオスマン帝国支配のあと,19世紀に近代セルビア王国が成立した。1918年の南スラヴ統一国家セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(29年からユーゴスラヴィア王国)では,セルビアの王朝が継続して新国家の王朝となった。第二次世界大戦後,社会主義のユーゴスラヴィア連邦では6共和国のうち最大の共和国となる。旧ユーゴスラヴィアの解体に伴い,モンテネグロとともにユーゴスラヴィア連邦共和国を建国した。2003年,連合国家セルビア・モンテネグロに再編。セルビア共和国はハンガリー人を多く含むヴォイヴォディナ自治州,アルバニア人が多数を占めるコソヴォ自治州をかかえており,コソヴォの独立問題,ヴォイヴォディナの自治権拡大要求など問題は多い。
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