日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブルガリア」の意味・わかりやすい解説
ブルガリア
ぶるがりあ
Bulgaria
正式名称はブルガリア共和国Republika Bǎlgaria。国名は、アジアから来住した遊牧民族ブルガール人に由来する。バルカン半島の東部に位置し、北はルーマニア、西はセルビアと北マケドニア共和国、南はギリシアとトルコ、東は黒海に接している。東西約520キロメートル、南北約330キロメートルの矩形(くけい)状である。面積11万0912平方キロメートル、人口792万8901(2001年国勢調査)。首都はソフィア。
古来、この地域は、地中海東部およびアジアと西部・中部ヨーロッパとを結ぶ交通の要地であった。ヨーロッパにあるが、かつてはバルカンの後進国として、また、バルカンの農業国として知られてきた。しかし、第二次世界大戦後、社会主義国になって工業化が進み、著しい変貌(へんぼう)を遂げた。1989年民主化要求が高まり、1990年に共産党は一党独裁を放棄し大統領制に移行した。
国旗は白、緑、赤の三色旗で、それぞれ平和と友好、農業と森林、軍隊の勇気と忍耐を表している。国歌は1964年制定の『ミラ・ロディノ』Mila Rodino(愛する祖国よ)。
[中村泰三]
自然
国土の3分の2は、標高500メートル以下の地域で、山地は国土の約3分の1を占める。国の中央に東西に延びる第三紀の褶曲(しゅうきょく)山脈スタラ・プラニナ(バルカン)山脈が、ブルガリアを南北2地域に分けている。平原はこの山脈の北のドナウ平原(国土の4分の1)と、南の上トラキア(マリーツァ)平原がある。スタラ・プラニナ山脈にはシプカ峠、トロヤン峠などの多くの峠があり、南北の交通は比較的容易である。一方、南西部から南部にかけては、リラ・プラニナ山脈、ピリン・プラニナ山脈、ロドピ山脈などの連なる山岳地帯で、バルカン半島の最高峰ムサラ山(2925メートル)がある。また、西部のスタラ・プラニナ山脈と南西部の山地間にソフィア盆地がある。スタラ・プラニナ山脈南斜面とこれに並行して走る中部山脈北斜面の間に多くの断層盆地があり、ブルガリアの特産バラ油の産地がここにある。国土面積に比して多いといわれる川は、ドナウ川をはじめ、イスクル川、ストルマ川、マリーツァ川、ヤントラ川などで、水力発電、灌漑(かんがい)用水などに利用されている。
気候は弱い大陸性気候に属し、年平均気温は12℃である。北部のドナウ平原は、夏暑く、冬寒い大陸性気候であるが、南部は地中海性気候への遷移地帯となり、ストルマ川、マリーツァ川下流では地中海性気候である。年降水量は650ミリメートルで概して降雨は夏季に多い。しかし、しばしば干魃(かんばつ)にみまわれ、農作物に被害をもたらすので、灌漑設備を必要とする地域が多い。森林面積は国土の約30%で、その4分の3はカシ、ブナの広葉樹である。
[中村泰三]
地誌
ブルガリアはスタラ・プラニナ山脈により歴史的にも南北に二分され、そのおのおのでいくつかの地域に細分される。一般に、北を3区分、南を3~4地区に分ける。
北部は農業が中心の地域であったが、ドナウ川の水運とかつてのコメコン加盟国に近いという有利な条件をもつことから、第二次世界大戦後の工業発展は著しい。とくに、北東部の諸都市で輸入原料をもとに、木材加工、化学、造船などの諸工業が発展している。また黒海沿岸の保養地も活況を示している。バルナを中心として「ブルガリアのリビエラ」とよばれる国際的な保養地帯が広がり、ズラトニ・ピャサツィZlatni Pyassatsi(「黄金の砂」の意)が著名で、多数の外国人が訪れている。農業は中部地帯でとくに盛んで、穀物(小麦、トウモロコシ)、工業用作物(テンサイ、ヒマワリ)のほか、野菜、ブドウ栽培も発展し、ヤントラ川とその支流ロシツァ川流域の灌漑地はブルガリア有数の菜園地域である。
南部地域のうち、首都ソフィアのある南西部はブルガリアの行政、経済、文化の中心である。この地域の狭い山間盆地・河谷に、ブルガリアの人口の4分の1が集中している。工業は発展し、とくに電気機械、電子、工作機械、工業用設備などを製造する部門が盛んである。一方、農業生産は、タバコ、果物を除き、他地域からの移入に頼っている。
南部地帯の中部、マリーツァ川流域の上トラキア平原とロドピ山脈のある地域では、中心都市プロブディフが牽引(けんいん)車的役割を果たしている。ロドピ山脈の水力、東マリーツァ褐炭田の褐炭を利用する電力の生産地で、他地域やトルコに送電している。鉱工業は地元産の鉱石を利用して、鉛・亜鉛などの非鉄金属、機械(電気機械、農業機械、ボールベアリング)、化学肥料、たばこ、缶詰製造工業が発展している。上トラキア平原はブルガリアの肥沃(ひよく)な農業地帯で、灌漑農業が発展している。小麦、米、タバコ、ヒマワリ、ワタ、ブドウ、野菜栽培や、養豚、ヒツジ飼養が盛んである。またブルガリアの山地は、一般に山地牧場でのヒツジの飼育で知られている。
南東部はブルガスの石油化学、造船などの工業と、ブドウ、モモの産地で著名であるが、海岸地帯が国際的な保養地帯として発展、スランチェフ・ブリャグSlanchev Bryag(「太陽の海岸」の意)は有名である。
[中村泰三]
歴史
ブルガリア帝国時代まで
今日の記録に残されたブルガリアの最古の住民は、インド・ヨーロッパ語族のトラキア人である。ブルガリアの地は、紀元前4世紀にはマケドニア王国の支配下に入り、168年にこの王国がローマに滅ぼされるとトラキア、モエシア、マケドニアの3州に組み入れられ、後に東ローマ(ビザンティン)帝国に属することになった。民族大移動の時期にはゴート人やフン人が侵入したが、紀元後6世紀ごろからのスラブ人の南下は、この地の民族構成を根底から変化させた。一方、アゾフ海とカスピ海の間の地域に居住していたアジア系遊牧民のブルガール人は、4世紀後半にフン人の移動に押されて西進し、分裂後一部がハザール人に押されて670年代にドナウ川河口地域に進入し、この地のスラブ人を従えてビザンティン帝国を攻撃した。ビザンティン帝国は681年にアスパルフ・ハン(在位680~701ころ)と和議を結び、ブルガリア国家を承認した。現在の国名は、このブルガール人に由来する。
新国家は、東部のプリスカに首都を置き、ドナウ川両岸に広がる地域を領土としていた。クルム(在位803ころ~814)の時代にブルガリアは、アバール人の衰退に乗じて領土を西に広げ、ビザンティン帝国を本格的に脅かすまでに勢力を伸ばした。当初ブルガール人は、ハン(汗)と貴族を中心とする政治制度や圧倒的な軍事力を背景として、数的に優位なスラブ人を支配していたが、しだいにスラブ化が進み、クルムの時代には、多数のスラブ人が国家の要職に登用された。このスラブ化を決定的にしたのはキリスト教への改宗である。ボリス1世(在位852~889)は、スラブ人とブルガール人の統合を図るためにキリスト教の導入を考えていたが、862年にブルガリアはビザンティンとの戦いに敗北し、864年にキリスト教への改宗をも含む和議に応じ、ブルガリア大主教座の設立を認めた東方正教会を870年に最終的に受け入れた。そのころ、グラゴール文字を考案してスラブ語で布教活動を行っていたキュリロスとメトディオスの弟子たちがチェコのモラビア地方から追放されると、ボリスは彼らに積極的な庇護(ひご)を与えた。そのため教会文書のスラブ語訳と典礼のスラブ語化が進み、キリスト教は急速に浸透して文化的にも繁栄した。現在使われているキリル文字(ロシア文字)は、この時代にブルガリアで考案され、セルビアやロシアに広まったものである。この改宗とキリル文字の採用は、その後のブルガリアの文化的、政治的な方向に大きな影響を与えることになった。
ボリスの子シメオン(在位893~927)の時代にブルガリアは、フランク王国などと並ぶヨーロッパの大国に成長し、913年にシメオンはブルガリア皇帝(ツァール)の称号を認められた。しかし、ビザンティン帝国との長期にわたる戦いで民衆は疲弊し、シメオン没後には内訌(ないこう)で政治は乱れたので、ブルガリアは急速に衰退に向かった。このような状況のなか、後にイタリアやフランスのキリスト教異端のカタリ派にも大きな影響を及ぼすことになった二元論的な異端のボゴミル派が広まった。
ビザンティン帝国はこの事態に乗じてバルカン支配の再建にとりかかり、10世紀後半には東ブルガリアを自国の領内に併合した。一方、西では、サムイル帝(在位997~1014)が、オフリドを中心として勢力を保っていた。しかし1014年にビザンティン皇帝バシレイオス2世の猛攻を受けて、1018年までにブルガリアは、完全にその支配下に置かれた。建国からこの時期までのブルガリアは、通例、第一次ブルガリア帝国とよばれる。
バシレイオス没後、1185年にビザンティンによる特別税の導入がきっかけで、北ブルガリアで抵抗運動がもち上がった。タルノボ(現ベリコ・タルノボ)一帯を掌握していたクマン系のブルガリア人貴族ペータルとアセンの兄弟が蜂起(ほうき)し、3か月にわたる攻防戦の末に和議が結ばれ、1187年にタルノボを首都とする第二次ブルガリア帝国が成立した。
カロヤン(在位1197~1207)の時代には勢力を南に広げ、イワン・アセン2世(在位1218~1241)の時代にはさらに領土を拡大して最盛期を迎え、首都タルノボに独立の総主教座を復活させて、ブルガリアはかつての高い文化と国力を再興した。イワン・アセン2世没後の1242年モンゴルの侵略を受けると、ブルガリアは衰退に向かい、貴族の内訌が続いた。さらに、モンゴルがふたたび来襲してくると、権力に不満を抱く民衆は、1277年に豚飼いのイバイロを指導者とする大規模な農民反乱を引き起こした。西からは隣国セルビアの勢力の伸張を受けてブルガリアはさらに衰退し、14世紀中ごろには地方諸侯の割拠と国内の分裂が続いた。このような状況下で東からのオスマン帝国の来襲を受け、14世紀末までにはブルガリアのほぼ全域がオスマン帝国の支配下に置かれた。
[寺島憲治]
民族解放、公国、人民共和国成立まで
オスマン帝国は、原則としてイスラム教への改宗を強要せず、宗教的共同体の自治組織(ミッレト制度)による間接的な支配を行ったので、大部分のブルガリア人は同化されなかった。また、ティマール制とよばれるオスマン帝国の軍事封土制がこの地にも確立され、キリスト教徒農民は一定の租税を支払う限りは、以前よりも安定した生活を送れるようになった。18世紀に入ると西欧諸国やロシアなどの大国の関心が向けられ、いわゆる「東方問題」が発生した。オスマンの支配機構も変質していき、徴税請負制度(イルティザーム制)や、西欧の産業革命に呼応した商品作物をおもに栽培する私的大土地所有制度(チフトリキ制)が成立すると、キリスト教徒農民は過重な収奪にさらされた。ブルガリア地方では、群盗の跋扈(ばっこ)とこれに対抗する義賊の抵抗運動も活発になった。
オスマン帝国の支配がもたらした新しい制度は、一方で、ブルガリア人にも多くの機会を与えた。彼らは手工業や商業に携わって力を蓄えてくると、民族的自覚も徐々に高まり、1762年に修道士パイシー・ヒレダールスキが、『スラブ・ブルガリア史』を著して民族覚醒(かくせい)の口火を切った。バルカン山麓(さんろく)の手工業や商業の村や町では、19世紀に入ると教会から独立したブルガリア語による世俗教育が整備され、しだいにブルガリア各地に広まった。また、近隣のセルビアとギリシアでの民族独立の達成も、ブルガリア人の民族的自覚の形成に大きな影響を及ぼした。
オスマン帝国の首都に近かったブルガリアでは隣国とくらべて独立運動が遅れていたが、1839年のギュルハネの改革勅令やクリミア戦争(1853~1856)を契機に急速に進んだ。独立運動は、政治的支配者のオスマン帝国に対する抵抗と、支配機構と結びついて教会や教育を支配していたギリシア人に対する抵抗の両面で行われた。1860年代に西欧やロシアに留学し革命思想を吸収した者のなかには、オスマン帝国の領域外に拠点を設けて独立運動と蜂起準備を進める者も現れた。バシル・レフスキは、1869年にブカレストでのブルガリア革命中央委員会の設立に参加したが、運動半ばで逮捕・処刑され、運動はボテフらに引き継がれた。彼らは、前年のボスニア・ヘルツェゴビナの反乱に促されて1876年5月(旧暦4月)に蜂起した(四月蜂起)が、ブルガリア全土に広がるにはいたらず、逆にオスマン政府はチェルケス人や不正規兵を使って多数の住民を虐殺し鎮圧した。この事件は、「ブルガリアの恐怖」として国際的な反響をよび起こし、1877~1878年のロシア・トルコ戦争を誘発することになった。オスマン帝国はこの戦争に敗北し、1878年ロシアとの間にサン・ステファノ条約が締結された。西欧列強諸国は、この国が事実上ロシアの傀儡(かいらい)であり、バルカン半島の勢力均衡を崩すとして介入し、同年7月のベルリン条約で「大ブルガリア」は3分割され、バルカン山脈以北のブルガリア公国はオスマン帝国に貢納義務を持つ自治公国となり、南の東ルメリアはオスマン帝国の自治州に、マケドニアはオスマン帝国に戻された。これが、後に、マケドニア問題とブルガリアの「失地回復」運動を引き起こすことになる。
ブルガリアはいまだ完全な独立を達成していなかったが、1879年に憲法を採択し、同年ドイツ人のバッテンベルク侯アレクサンダル(在位1879~1886)が公に選出された。1885年に東ルメリアでブルガリア人が蜂起し、公国との統合が宣言された。これがバルカン半島の勢力均衡を崩すとして、公は国内の反ロシア勢力とのつながりを強めてこの統一を承認した。オーストリアは、セルビアを煽(あお)ってブルガリアに宣戦させたが、ブルガリアはこれに勝利し東ルメリアの併合が国際的に承認された。しかし、ロシアの圧力はさらに強まり、1886年親ロシア派のクーデターで公は退位させられた。1887年フェルディナンド(在位1887~1918)が即位すると、国力の充実を図り、実権を握っていた反ロシア的な首相スタンボロフを解任し、長子を正教に改宗させてロシアとの関係改善を図った。国内では政党を対立させて操縦し、特権層を育成した。しかし農民は重税に苦しみ、暴動を頻発させた。このような動きのなかで形成された農民同盟は、後にブルガリア最大の政党にまで発展した。
1908年の青年トルコ革命を機に、ブルガリアは完全独立を果たし、翌年、国際的にも承認され、公の称号も国王(ツァール)に改められた。1912年に第一次バルカン戦争でトルコに対して戦い多くの領土を得たが、1913年の第二次バルカン戦争で敗北し、先の戦争で得た領土の大部分を失い、さらに南ドブルジア(ドブルジャ)まで割譲した。問題のマケドニアも、北東部の一部を自国領土に加えただけで、国内に多くの不満を残すことになった。
第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア側にたって参戦したが、長引く戦争に厭戦(えんせん)気分が広がった。結局ブルガリアは戦敗国となり、国王は退位して息子のボリス3世(在位1918~1943)が即位した。1919年のヌイイ講和条約で、ブルガリアは領土を失いエーゲ海への出口をも失って巨額の賠償金を課せられた。1920年には農民同盟のスタンボリースキが内閣を組織するが、彼の急進農本主義と対外協調路線が右派の反発を買い、クーデターで倒された。1923年には共産党の蜂起が失敗しテロが吹き荒れた。ボリス3世は、支配層の対立に乗じて徐々に勢力を伸ばし、1935年には国王独裁制を敷いた。
第二次世界大戦では1941年に枢軸側について参戦した。左翼勢力は、1942年に労働者党(共産党)を中心に「祖国戦線」を結成して反ファシズム・パルチザン運動を開始した。1944年9月ソ連が宣戦を布告してブルガリア領内に入ると、それに時をあわせた「祖国戦線」のクーデターが成功して独裁体制が倒れ、10月に連合国と休戦協定が調印された。1946年には国民投票で王制が廃止されてシメオン2世(在位1943~1946)は国外に去り、同年、人民共和国宣言が発せられてディミトロフ内閣が成立した。
[寺島憲治]
社会主義時代から体制崩壊まで
東西対立の深刻化のなかで労働者党による権力掌握が進み、ニコラ・ペトコフNikola Petkov(1893―1947)などの野党勢力は圧力や粛清を受けた。1947年末には新憲法(通称ディミトロフ憲法)が採択され、翌1948年に労働者党は、党名を共産党に戻した。この時期以降、基幹産業の国有化と農業の協同組合化、急激な工業化が行われた。1949年以降になるとスターリン主義路線が実行され、1955年にはワルシャワ条約機構に加盟した。
1956年のスターリン批判の影響で首相チェルベンコフが失脚し、共産党の第一書記のジフコフが全面的に権力を掌握した。1950年代から1960年代にはソ連型の工業化が追求され、ペルニクやクレミコフツィで大規模製鉄工場が建設された。この政策は、ブルガリアに高い経済成長率をもたらしたが、1960年代の半ばから計画経済のひずみも現れた。そこで、計画経済という枠組みは維持しながらも、労働者の参加や企業の自主性を促す政策がとられた。文化面でもリベラルな雰囲気が感じられたが、1968年のチェコ事件を機に締め付けが行われた。しかし、住民レベルでみると、1970年代は反動として物質的な豊かさが追求された時代で、1971年には「発達した社会主義社会」の建設を目標とする新憲法が制定され、乗用車が普及し、サービスや消費生活が向上し、各地に文化施設が建設された。
1970年代の石油ショックは、ブルガリア経済にも徐々に影響を及ぼし抜本改革を迫るものであったが、1982年に導入された「新経済メカニズム」も不徹底で十分な成果を上げることができなかった。政府は、1980年代前半に「建国1300年」キャンペーンを大々的に繰り広げて民族文化を強調したが、一方で1980年代後半からイスラム教徒住民の名前を強制的にブルガリア風に改めさせる創氏改名運動を強行した。1989年には旅券法と国籍法の改正をきっかけとしてトルコ人の大量出国を招き、国内外の批判を招いた。同年10月にはソ連の改革の波を受けて設立された人権団体や環境団体が共産党体制の下で初の反体制デモを行った。党内の改革派は、この機会にジフコフの辞任とムラデノフPetar Toshev Mladenov(1936―2000)の新書記長就任を発表し、党の指導制や民主集中制を廃止して自己改革を図ったが、トルコ人問題に対する対応や上からだけの改革が国民の反発をよび、いっそうの改革を迫られた。相次いで設立された反体制諸勢力は、1989年12月に連合して「民主勢力同盟」を結成し、共産党との対決姿勢を明確にした。1990年には共産党が社会党と改名した。
1990年6月の、第二次世界大戦後、初の自由選挙では社会党が勝利したが、社会党政権は、大統領の退陣と経済危機の深刻化を前にした国民の退陣要求に屈して総辞職に追い込まれた。1991年の新憲法成立後に行われた選挙では、民主勢力同盟が勝利したが、同盟が三派に分裂したこともあって過半数には至らず、トルコ系住民の支持を中心とする「権利と自由のための運動」の閣外協力を仰ぐことになった。その後も、経済改革の不徹底と広がる住民の経済格差から、社会党と民主勢力同盟の間でめまぐるしく政権交代が続いた。1997年には急速なハイパー・インフレーション(超インフレ)による批判を受けて繰り上げ選挙が行われ、民主勢力同盟が勝利しコストフ政権が誕生した。ブルガリアの通貨レバは、ドイツ・マルクと連動されインフレは収まったが、法律は制定されても遅々として進まぬ民営化や農地の返却、工業生産の低迷と環境問題や原発問題など、抱える問題はいまだ抜本的解決をみるに至っていない。
[寺島憲治]
政治・外交・防衛
政治
1990年6月、戦後初の自由選挙となる国会選挙(400議席)で社会党(旧共産党)がかろうじて過半数を占めたが、民主勢力同盟(UDF)が進出し、同年中に大統領、首相が非共産系に変わった。1991年7月、新憲法制定。同年10月総選挙(240議席、任期4年)が行われ、UDFが辛勝、フィリップ・ディミトロフPhilip Dimitrov(1955― )を首相とする戦後初の非共産系内閣が成立した。しかし、新政権の急進的な改革は反対も強く、1992年10月ディミトロフ政権は辞職し、大統領顧問であったベロフLyuben Berov(1925―2006)が首相となった。しかし、政局は安定せず、1994年12月総選挙が行われた。この選挙で社会党が過半数を得て、社会党議長ビデノフが首相となった。社会党はこれまでの改革路線を一部修正しつつ改革を進めたが、経済の悪化は続き、国民の不満が強くなった。1996年11月の大統領(任期5年)選挙にUDFのストヤノフPetǔr Stoyanov(1952― )が勝利し、続発する全国的な反政府デモにより繰上げ選挙が1997年4月に行われ、UDFが大勝、5月UDF議長のコストフIvan Kostov(1949― )を首相に新内閣が発足した。2001年6月、任期満了に伴い総選挙が行われ、シメオン2世国民運動(NMS)が与党であるUDFを大きく引き離し第一党となり、元国王シメオン2世(1937― 、シメオン・サックス・コーバーグ・ゴータSimeon Saxe-Coburg-Gotha)を首相とし、権利と自由のための運動(MRF)との連立政権が樹立された。シメオン2世は王制廃止(1946)後スペインに亡命していたが、共産党政権の崩壊(1989)を経た1996年に帰国、2001年4月にNMSを発足させていた。
また、2001年11月、任期満了に伴う大統領選挙が行われ、社会党(旧共産党)議長ゲオルギ・パルバノフGeorgi Parvanov(1957― )が、現職のストヤノフを破って当選、2002年1月大統領に就任した。
2005年6月に行われた総選挙では社会党が第一党となり、8月に社会党党首セルゲイ・スタニシェフSergei Stanishev(1966― )が首相に就任し、NMSを含む3党による大連立内閣が発足した。また2006年10月には大統領選挙が行われ、パルバノフが再選された(2007年1月再任)。
ブルガリアの地方行政地域は共産党政権時代、細分化されていたが、その後、九つの州にまとめられ、さらに現在は28州となっている。裁判所は最高裁判所、憲法裁判所を初めとして、州、地方自治体に裁判所がある。
[中村泰三]
外交
共産政権時代のソ連追従外交から変化し、西側先進国やトルコとの友好関係の増進に努めている。1993年3月EC(ヨーロッパ共同体)準加盟国となり、2004年3月にはNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)、2007年1月にはEU(ヨーロッパ連合)への加盟を果たした。国内の少数民族であるトルコ人に対するこれまでの差別を改めてトルコとの関係改善が進み、1995年7月、トルコの大統領がブルガリアを訪問した。また、1992年2月黒海経済協力グループに加入している。旧ユーゴスラビアから独立した隣国マケドニア共和国(現、北マケドニア共和国)との外交関係が1993年樹立され、ロシアとの関係も1992年8月のエリツィン大統領のブルガリア訪問以降、緊密化した。
[中村泰三]
防衛
18歳から27歳までの間に9か月の徴兵制をとっていたが、2007年11月に徴兵制は廃止された。兵力は5万1000人(2005)、うち陸軍2万5000人、空軍1万3100人、海軍4370人で、ほかに国境警備隊などが置かれている。国防予算は6億9000万ドル(2006)。
[中村泰三]
経済・産業
ソ連圏の崩壊後ブルガリアも経済改革を進め、国際通貨基金(IMF)の勧告を受け入れて1991年からショック療法による急激な経済変革を図った。国有企業民営化法、外資法、銀行法、没収資産の所有者への返還法などが採択されたが、ほかの東欧諸国と比べ、改革が不徹底で、不法な経済活動がはびこり、急速な生産低下が生じ、1991年の実質経済成長率は-11.1%であった。しかし、1994年は1.4%、1996年4.0%となり、ようやく経済の回復傾向がみられる。
[中村泰三]
資源
資源に恵まれているほうではない。エネルギー源として石炭、石油、天然ガスの埋蔵量は少ないが、褐炭に比較的恵まれ、火力発電に利用している。したがって、エネルギー資源の不足から原子力発電に熱心である。鉱物は鉛、亜鉛、銅がヨーロッパ諸国のなかでは多いほうで、開発が進められている。また、岩塩、大理石があり、化学工業、建設資材に利用している。なお、鉱泉は多く、温泉も各地にみられる。
[中村泰三]
農業
ブルガリアは農業生産物の自給が可能な国で、野菜、果物類はいまも重要な輸出品である。農産額はかつての農作物生産中心から、畜産の発達に伴い、畜産部門の比重が高くなっている。しかし、経済改革以降、農業生産の低下が著しい(1995年の生産は1990年の51.1%)。なかでも葉タバコ、野菜、果物や畜産の減少が目だっている。
おもな農作物の1995年の生産は、穀物(小麦320万6000トン、大麦90万6000トン、トウモロコシ120万2000トン)のほか特産の葉タバコ(249万1000トン、1994)、テンサイ(249万1000トン、1994)などである。ブドウ(49万8000トン、1994)は経済改革後の生産低下が著しい。
おもな家畜の1995年の飼育数はヒツジ(1339万8000頭)、ブタ(198万6000頭)、ウシ(63万8000頭)。
かつての農業集団化時代から個人農場を認める時代になって、多くの集団農場が解体され、今では農業総生産の70%以上が個人農場で生産されている。
[中村泰三]
鉱工業
社会主義時代の工業化政策でブルガリアの工業は発展し、重化学工業の工業生産に占める比重も大きくなった。しかし、ソ連崩壊後の経済改革により生産は著しく低下し、1995年の生産は1990年の68%に落ち込んだ。なかでもコメコン(経済相互援助会議)加入時代のブルガリアの主要輸出品であった電動フォークリフト、エンジン・フォークリフトの減産が顕著である。電動フォークリフトは1991年の生産1万8600台から1994年3400台、エンジン・フォークリフトは9000台から1700台。そのほか、軽工業、食品工業生産も輸入品の増加、国内需要の低下により減少している。たとえば、綿織物は1991年の1億2600万平方メートルから1994年6900万平方メートル、肉製品は9万1000トンから3万7000トンに減産している。
[中村泰三]
輸出入
コメコン加入時代のブルガリアはコメコン加入国との取引が大きく、全体の4分の3を占めていた。体制変換後はEU(ヨーロッパ連合)との取引がコメコン加入国との取引よりも大きくなっている。1995年のEUとの貿易が全体の40%近くになり、かつてのコメコン加入国との取引は3分の1強に低下した。主要貿易相手国はロシアをトップとしてドイツ、イタリア、マケドニアなどである。ロシアはブルガリアのエネルギー供給国なので取引額が大きい。
主要輸入品はエネルギー(原油)、消費財(砂糖、乗用車)、医薬品などであり、主要輸出品は鉱産物(銅、亜鉛)、農産物(家畜、乳製品、野菜缶詰、ワイン、紙巻タバコ)、化学製品(尿素、ポリエチレン)などである。日本との貿易は減少傾向にあり、1996年は取引額4900万ドルであった。
外貨獲得のため観光業の発展に早くから力を入れており、外国客の誘引に熱心である。
[中村泰三]
金融・財政
1991年国立銀行法が制定され、中央・発券銀行としての国立銀行と民間銀行が分けられた。民間銀行は旧体制崩壊後、多数設立されたが、同時に統廃合も活発で、1995年36行を数えている。1995年の歳入は3403億レバ、歳出は3600億レバで赤字である。
支出のおもなものは社会保障、補助金、国防費である。
ほかの東欧諸国に比べ、民営化のテンポの遅れから外資の導入はまだ少ないが、外資導入に必要な法整備が進められ、先進国、国際金融機関からの資金援助も増えつつある。外国からの投資はエネルギー産業やインフラストラクチャー(道路、空港などの経済基盤)部門に大型投資がなされ、小規模投資は貿易、商業、観光部門に多い。1994年外国からの直接投資は1億ドルを超えた。対外債務は103億ドル、外貨準備高は5億ドルである(1996)。
[中村泰三]
交通・通信
1平方キロメートル当りの鉄道密度や舗装道路密度は旧東欧のなかで低かった。舗装道路は3万3900キロメートル、高速自動車道は266キロメートルで未発達である(1993)。
自動車はかなり普及していて、人口5人当り1台の割合である。電話は人口6人に1台、テレビは5人弱に1台である(1994)。
[中村泰三]
社会
ブルガリア人はスラブ人の一派で、先住民のトラキア人やブルガール人、トルコ人、ギリシア人などと混血して形成された。このブルガリア人が全人口の約85%を占める。少数民族のうち最大の人口をもつのは全人口の約9%を占めるトルコ人で、ほかにアルメニア人、ルーマニア人、ロマが居住するが少数である。公用語はブルガリア語である。
ブルガリアの人口は近年減少している。1986~1995年の間に人口は50万人余、約6%減少した。主因は出生率の低下、死亡率の上昇で、1990年より自然増加率はほぼマイナスとなり、1999年の出生率は1000人当り8.8人、死亡率は13.6人であった。総人口は847万2724(1992)、877万5198(1995)、793万2984(2001)と推移している。
1人当りGNI(国民総所得)と生活水準をみるとブルガリアは旧東欧のなかで下位に位置してきたが、農業生産が豊かなので食糧に恵まれ、生活が困難というわけではなかった。体制転換後は経済不振により、国民の生活は苦しくなっている。2000年の1人当りGNIは1520ドルで、ポーランドの2分の1以下、チェコの約3分の1である。その上貧富の差が拡大し、社会不安を引き起している。
教育では初中等教育(6歳から17歳まで)のうち初等教育8年が義務教育となっているが、識字率は98%(2000)といわれ、ヨーロッパ諸国のなかでは低い。中等教育終了後に高等教育機関に入学を希望する学生は、大学(4総合大学)や42の大学相当の高等教育機関をはじめ、技術・教育・交通などの専門教育を行う準高等教育機関に入る。政府の奨励もあって私学が増え、高等教育機関数は増加している。
宗教はブルガリア正教会が80%以上を占め、ほかにイスラム教、ユダヤ教、ローマ・カトリックなどである。
社会主義政権時代からの無料の医療サービスは現在も続けられているが、かつて禁止されていた民営の医療は認められ、増加している。1996年の統計によると、医療施設289、ベッド数8万6160、医師(歯科医を含む)3万4996となっており、国民1000人当り、医師は4人、病院のベッド数は10である。また、失業、病気療養、産休手当や年金は支払われている。
[中村泰三]
文化
かつて農民の国ブルガリアといわれたこの国の人々は、勤勉で質素という特性で知られていた。また、現実的なものの考え方をするので、宗教への関心が比較的薄いともいわれる。今日でもこの傾向はみられ、住民生活は質実である。
バルカンの他の国と同じように、古代、中世に栄えたこの国はトルコの長年の支配下に文化的発展への道が閉ざされ、19世紀後半のブルガリア復興期以降、ふたたび芸術も盛んになってくる。ただ、西欧文化の流入がこの時期以降になるので、音楽などは古い民謡・民族舞踊が多数残り、今日、伝統文化として保存に力が入れられている。一般に、ブルガリア人は歌が好きで、オペラ、合唱の水準は高く、オペラ歌手ではニコライ・ギャウロフ、ニコラ・ニコロフ、ニコラ・ギュゼレフなどが世界的に著名である。また、合唱団も国際的に知られ、「グスラ」「カバル」などの合唱団がある。また、バルナの国際バレエ・コンクール、ソフィアの若手オペラ歌手の国際コンクール、「太陽の海岸」での国際音楽フェスティバルなどが知られている。1984年の劇場数は63、延べ観客数は580万人であった。
文学も復興期以降、盛んになり、当初はボテフらの詩人が活躍したが、日本で翻訳されたイワン・バーゾフの長編『軛(くびき)の下で』などの優れた小説も現れ、第二次世界大戦後も多数の作家が活躍し、ディミトル・ディモフの『タバコ』は日本で翻訳されている。
これらの芸術活動の発展は、オスマン帝国の支配下に始まった「チターリシチェ」とよばれる読書クラブによるところが大きく、種々の文化、教育活動を組織し、100万人を超える会員をもっている。出版活動は盛んで、住民1人当りの書籍発行部数は6冊(1980)であった。また、1997年の統計では、国立図書館1、公立図書館4237、高等教育機関の図書館92となっている。
[中村泰三]
日本との関係
日本から遠いバルカンの国なので、日本人にはなじみが薄いが、ブルガリアは親日国である。1959年(昭和34)日本と国交を回復し、1975年文化交流協定に調印、1970年と1978年にブルガリアの元首(国家評議会議長)ジフコフが来日、日本からは1979年に当時の皇太子夫妻がブルガリアを訪問した。現在、双方の間に留学生の交換をしているが、少数で研究者も少ない。社会主義政権崩壊後、文化部門への無償資金援助、産業部門へのブルガリア研修生の受入れ、鉱・工業施設改善への円借款が実施されている。なお、2009年5月に秋篠宮夫妻がブルガリアを訪問している。また、大相撲で活躍した元大関琴欧州(本名、安藤カロヤン。1983― )はブルガリア出身である。
[中村泰三]
『今岡十一郎著『ブルガリア』(1962・新紀元社)』▽『香山陽坪著『ブルガリア歴史の旅』(1982・新潮社)』▽『矢田俊隆編『世界各国史13 東欧史』新版(1977・山川出版社)』▽『木戸蓊著『バルカン現代史』(1977・山川出版社)』▽『森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア 風土と歴史』(1981・恒文社)』▽『C&S・ジェラヴィチ著、野原美代子訳『バルカン史』(1982・恒文社)』▽『ギュゼーレフ他著、寺島憲治訳「ブルガリアⅠ・Ⅱ」(『世界の教科書=歴史』1985・ほるぷ出版)』▽『Information Bulgaria (1985, Pergamon Press, Oxford)』▽『アーウィン・サンダース著、寺島憲治訳『バルカンの村人たち』(1990・平凡社)』▽『イーリ・アベル、小川和男訳『苦悩する東欧』(1991・TBSブリタニカ)』▽『田嶋高志著『ブルガリア駐在記』(1994・恒文社)』▽『小川和男著『東欧 再生への模索』(1995・岩波書店)』