東方問題(読み)とうほうもんだい(英語表記)Eastern Question

改訂新版 世界大百科事典 「東方問題」の意味・わかりやすい解説

東方問題 (とうほうもんだい)
Eastern Question

東方問題とはという表現における〈東方〉とは,ヨーロッパ世界からみた〈東方〉を意味し,そこにはヨーロッパ人の視点と立場が色濃く投影されている。それは広義には古代ギリシアとアケメネス朝ペルシアの関係,中世ヨーロッパのキリスト教諸国とイスラム諸国の対立などがひきおこした事件を指すことも多い。たとえば,ドリオÉduard Driaultの《東方問題--その発端から1920年セーブル条約までLa question d'Orient depuis ses origines jusqu'a la Paix de Sèvres 1920》(1921)では,第1章が〈ビザンティンとイスタンブール〉と題して,ビザンティン帝国の衰亡とオスマン帝国の興隆の叙述から東方問題を説きおこしている。

 しかし,歴史上普通に用いられる東方問題は,18世紀末から19世紀にかけて生じたオスマン帝国の衰退と内部分裂の危機を利用したイギリス,フランス,ロシア,オーストリア(のちにはドイツ,イタリア,アメリカも参加)などのヨーロッパ諸列強の中東,東南ヨーロッパ(バルカン半島)への進出と介入によって発生する一連の国際紛争を指すヨーロッパ側の名称である。換言すれば,東方問題はヨーロッパ諸国がオスマン帝国内部に影響力を及ぼそうとしたときに,帝国の領土と民族の問題をめぐって引きおこされたヨーロッパ諸国間の競争,対立,抗争あるいは協調,同盟のような諸局面を意味している。それは国際関係史の上でヨーロッパ諸列強間の外交問題となる一連の事件の総称でもある。たとえば,キュチュク・カイナルジャ条約(1774),ナポレオンのエジプト侵入(1798),ギリシア解放戦争(1821以降),エジプトのムハンマド・アリーによるシリアとアナトリアをめぐる2次にわたる対オスマン帝国戦争(1832-40),クリミア戦争(1853-56),露土戦争サン・ステファノ条約(1878),ベルリン会議(1878),ハプスブルク朝のオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合(1908)などの国際紛争が,東方問題を彩る主要な事件であった。

 しかし,ヨーロッパ外交史で伝統的に採用される東方問題という用語法は,1821-29年のギリシア解放戦争以後に適用されるのが普通である。一例をあげれば,カユエAlbéric Cahuetの《現代史のなかの東方問題,1821-1905年La question d'Orient dans l'histoire contemporaine,1821-1905》(1905)は,第1章を〈ギリシア,トルコ,ヨーロッパ〉と題して,1821年のギリシア人のエテリア蜂起の勃発から東方問題の叙述を始めている。

 東方問題は,19世紀のオスマン帝国が置かれた国際関係と国内環境をヨーロッパという外部世界から認識する概念である。東方問題のように外部からの視点に立つ限り,オスマン帝国支配下の諸民族の独立と領土の分離は,パトリオティズム(愛国心)やナショナリズム民族主義)などの近代ヨーロッパ思想の勝利としてだけでなく,オスマン帝国の歴史的意義を否定する帰結としても説明される。しかし,そもそもオスマン帝国はオスマン・トルコ族の建国による国家ではあっても,決して〈トルコ人〉の民族国家ではなかった。多言語と多宗教にもとづくさまざまな民族集団の共存こそオスマン帝国のほぼ全時期を通じて見られる特徴であった。この点を無視したヨーロッパ側の東方問題のような視角には,絶えず偏見がつきまとったのは当然であろう。

 実際に,東方問題はヨーロッパ外交に対して,オスマン帝国に見られた寛容な多宗教・多民族国家という性格を否認してキリスト教徒の保護に名をかりて干渉をはかるための正当化の論理を提供するものであった。東方問題のような認識がもたらされた理由としては,2点ほど考えられる。それは,第1に近代ヨーロッパ社会にしみこんだ〈ヨーロッパ中心主義〉を核とする世界観のためであり,第2にはオスマン帝国末期に宗教的または民族的な少数派集団に加えられた圧迫に対する欧米世論の嫌悪感に由来している。

 近代ヨーロッパの東方認識を形成した〈ヨーロッパ中心主義〉に立脚するなら,1453年のコンスタンティノープル征服や1529年の第1次ウィーン包囲に象徴されるオスマン帝国の発展と繁栄の根拠を探るために,帝国の内政や外交の積極面を客観的に評価できるはずがなかった。オスマン帝国の内政に無関心だったヨーロッパの観察者たちが帝国の国内事情に注意を向ける契機となったのは,ナポレオンのエジプト遠征やイギリス,フランス,ロシア3国によるギリシア解放戦争への干渉である。その場合にヨーロッパ側の関心の核にすえられる認識が東方問題であった。しかし,東方問題として情況を認識するような視点や方法の下では,オスマン帝国は〈ヨーロッパの病人〉と位置づけられるために,帝国の内政や外交の歴史にはなんら積極的な要素がないということになる。

 このような認識の特徴は,オスマン帝国という多民族国家の分析に際して,その歴史的役割を,〈ヨーロッパ大陸〉〈東地中海〉〈中東〉といった既成の地域区分を横断した概念のなかで多元的・複合的に扱わず,〈東方〉なる漠然とした空間概念を用いてヨーロッパと対比させ,オスマン帝国=トルコ=アジア=〈野蛮〉という構図のなかで一元的・単線的に操作するという限界から生じている。つまり東方問題とは,オスマン帝国支配下の非ムスリムの民族諸集団のあらゆる不満と欠陥の原因を帝国の行政当局の責任に求めるだけでなく,帝国が培ってきたコスモポリタン的文化や共存の価値観すら否定するヨーロッパ諸国の干渉・介入の論理でもあった。それと同時に,干渉の正当性を支えるヨーロッパ中心主義的な認識のゆがみの産物なのであった。

 確かに,オスマン帝国当局が末期において非ムスリム・非トルコ人の民族諸集団に過酷な抑圧政策をとった事実は否定できない。1832年キオス島におけるギリシア人,19世紀を通じたクレタ島のギリシア人,さらに時代が下るが1916年アナトリア東部諸州のアルメニア人,第1次世界大戦期のシリアのアラブなど,弾圧の規模と被害の実数をめぐる異同はあるが,これらの民族諸集団に加えられた圧迫は事実である。しかし,これらはいずれもオスマン帝国末期に生じた歴史的な記憶に新しい事件である。不幸なことに,これらの事件は,圧迫や迫害が生じる以前の数世紀間に享受した諸民族集団共存の思い出よりもはるかになまなましい。

 ヨーロッパ諸国の東方問題への介入は,オスマン帝国内部において在地有力者(アーカーン)層の自立とキリスト教・ユダヤ教系民族集団の独立・分離運動を促進した。ヨーロッパ諸国は,中東,東南ヨーロッパ駐箚(ちゆうさつ)の領事団を通じて,キリスト教やユダヤ教を信奉する民族集団を買弁商人として利用することによって,伝統的なムスリム商人を排斥・駆逐し,少数派の諸民族集団とムスリム住民のあいだに宗教的・民族的対立を生みだしただけでなく,この対立を積極的に利用したのであった。こうして帝国末期に,先に挙げた少数民族抑圧という悲劇が発生した。

 東方問題の経済的側面は,ヨーロッパの資本主義諸国による中東と東南ヨーロッパ市場の争奪戦ともいえる。資本主義化のプロセスで没落した伝統的な産業・社会組織の担い手たるムスリム集団とは対照的に,少数の非ムスリム集団の商人と金融家たちは,ヨーロッパ資本の買弁として生き残った。彼らは,ヨーロッパ資本やヨーロッパ商人とともに,アレクサンドリアベイルートイズミル,イスタンブールなどの主要港湾都市においてムスリム集団を収奪する役割を演じた。これは帝国主義の時代においてムスリム集団と非ムスリム集団の対立を激化させる遠因となった。

 東方問題とは19世紀末から現代にいたる欧米の研究者,ジャーナリスト,政治家,外交官の大多数がオスマン帝国とその支配地域に関心を寄せる際に採用した題目と視点である。しかし,彼らのいう〈東方問題〉とは実に〈西方問題〉にほかならなかったといってよい。このヨーロッパ中心主義にひたった偏見に満ちた伝統と決別しようとしたのは,A.トインビーである。彼の抱負は,1923年に公刊された著書《ギリシアとトルコにおける西方問題The Western Question in Greece and Turkey》にこめられている。トインビーは,この象徴的な題名をもつ著述の刊行により多数のギリシア人とヨーロッパ人の知友を失った。〈西方問題〉の本質とは,現代世界の住民をも脅かすような1914年のサラエボ事件,19年のギリシア軍によるアナトリア侵攻から今日のパレスティナ問題,レバノン問題にいたる,外部からの紛争の持ち込みと外部からの圧力による平和と安全への脅威と等しいのであった。つまり,東方問題とはオスマン帝国と中東の鏡の中に映し出された欧米世界の懸案,つまり西方問題のことであり,それはヨーロッパ中心主義の利益と展望のなかで国際紛争の発生・調整・解決をはかるメカニズムとして機能したのである。国際政治における東方問題的な認識の伝統は,以後の中東をめぐる米ソ両超大国を頂点とする欧米諸国の政策的対応にも大きな痕跡を残してきた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東方問題」の意味・わかりやすい解説

東方問題
とうほうもんだい
Eastern Question 英語
Question d'orient フランス語

東方問題とは、西ヨーロッパからみて東方にあたる地域における問題を意味し、古くは古代ギリシアとペルシアの戦いにまでさかのぼることができるが、一般には、主として19世紀にヨーロッパ列強がオスマン帝国の領土・民族問題をさして用いた概念である。「東方問題」ということばは、ギリシア独立戦争時(1821~29)にイギリスの外交用語となり、その後一般にバルカン半島をめぐる国際政治上の問題をさすようになった。このため、19世紀以降の東方問題は「バルカン問題」ともよばれている。東方問題は、19世紀を通じて、オスマン帝国の衰退、それに伴って活発化するバルカンをはじめとする帝国内の被支配諸民族の解放運動、そしてこれらをめぐる列強間の利害対立という三つの要因の有機的な関連のなかで展開することになる。とくに、バルカン諸民族の多くの独立を承認した1878年のベルリン会議以後は、領土拡大を図る新生バルカン諸国間のナショナリズムの衝突とそれに絡む列強の対立により、東方問題は国際紛争の焦点となった。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)の一因は、まさにこの東方問題であった。

[南塚信吾・菅原淳子]

オスマン帝国の衰退

オスマン帝国は、内政の腐敗などにより、すでに17世紀から衰退が始まっていた。19世紀になるとその衰退は著しく、ロシアのニコライ1世はオスマン帝国を「瀕死(ひんし)の病人」と称し、列強間で帝国を分割することをもくろんだ。ロシアにとり、ダーダネルス、ボスポラス両海峡の制覇は長年の願望であり、これをめぐって18世紀末から数次にわたりロシア・トルコ戦争を繰り広げていた。ロシアはまた、同じ正教徒であるオスマン帝国内のキリスト教徒の保護者を自称し、バルカン半島を自らの勢力下に置こうとしていた。セルビアが農民を中心とする蜂起(ほうき)(1804、15)の結果、自治公国の地位を得たのは、こういうロシアの動きを利用してのことであった。こうしたロシアの動きに対立したのはイギリスであった。イギリスはロシアの南下を、インドへの通路への脅威とみなし、ヨーロッパの「勢力均衡」とオスマン帝国の保全を主張したのである。

 オスマン帝国の解体が進むなかで、支配下にあったバルカン諸民族がしだいに民族意識を抱き、解放運動を始めたが、当面は列強にたよってのみ運動の成果をあげえた。1830年にギリシアの独立が国際的に承認され、同年セルビアも自治公国として承認されたのは、列強の利害にそってのことであった。61年にルーマニア自治公国が成立するのも、クリミア戦争(1853~56)によってロシアが力を弱め、フランスの勢力が強化されたことと関連している。しかし、60年代になると、自覚を高めたバルカン諸民族は、オスマン帝国からの完全な独立という共通の目的のもとに連帯行動に乗り出した。彼らの間では、種々のバルカン連邦が構想され、67年にはバルカン諸国が対トルコ戦争を意識した同盟体制を組んだ。このように19世紀中葉にあっては、列強がオスマン帝国をめぐり自国の利益を追求する外交を繰り広げていた一方で、バルカン諸民族は自らの手で東方問題の解決策を模索したのであった。75年のボスニア・ヘルツェゴビナの農民反乱、76年のブルガリアの4月蜂起、同年のセルビアとモンテネグロの対トルコ開戦、そして77~78年のロシア・トルコ戦争と続く4年間は、列強にとり「バルカンの危機」の時代であった。しかしながらバルカン諸民族にとっては、民族の独立を達成するための過程にほかならなかったのである。ロシアで高唱されるに至った汎(はん)スラブ主義も、バルカンでは冷たくみられていた。

[南塚信吾・菅原淳子]

第一次大戦へ

ロシア・トルコ戦争後の1878年、「バルカンの危機」に対処するためにビスマルクの仲介で開かれたベルリン会議は、東方問題に解決をもたらすことなく、かえって新たな紛争の種子をまく結果となった。すなわち、ベルリン会議の決定は、列強の力の均衡にのみ終始したため、セルビア、ルーマニア、モンテネグロに独立を、ブルガリアには自治をもたらしたものの、それらの国境画定はバルカン諸民族の意志を顧みることなく行われた。ベルリン会議以後、南下を阻止されたロシアと、ボスニア・ヘルツェゴビナを占領したオーストリアとの間で新たな軋轢(あつれき)が生じた。またバルカン諸国の間では、オスマン帝国に取り残されたマケドニアをめぐり、ブルガリア、セルビア、ギリシアの三国が熾烈(しれつ)な争いを展開した。しかも、列強はさまざまな形で新生バルカン諸国の内政、外交に介入し、その影響力を広げた。なかでも、バルカンにおけるフランス資本に対抗するドイツ資本の進出は著しかった。日露戦争後、列強間の対立がふたたびバルカンに舞台を戻し、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立として先鋭化してきた。そのようななかで生じた青年トルコ党の革命(1908)を契機として、バルカンの危機は一挙に高まった。つまり、一方でこの革命を機に行われたオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合は、セルビアの狂信的ナショナリズムを高揚させ、他方でこの革命後のトルコの中央集権化はバルカン諸民族の対トルコ連盟をもたらし、バルカン戦争(1912、13)を引き起こした。ここにバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と化し、ついに1914年、サライエボ事件は、世界を戦争へ引き込むことになったのである。

 マルクスにより「永遠の東方問題」とよばれた東方問題も、第一次大戦後に転機を迎えた。バルカン諸国間の領土をめぐる対立は依然として続くが、列強間の対立の舞台がアジア、アフリカに移ったこと、およびバルカン諸民族の自覚が高まったことにより、もはや直接に国際的な危機を導くものではなくなったのである。

[南塚信吾・菅原淳子]

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百科事典マイペディア 「東方問題」の意味・わかりやすい解説

東方問題【とうほうもんだい】

主として19世紀において,オスマン帝国の領土とその地域の民族問題をめぐって生じたヨーロッパ諸国間の国際問題の総称。特に英・仏・露が中心となり,1820年代のギリシア解放戦争,2次にわたるエジプト事件において,3国の利害は複雑に対立した。ロシアはクリミア戦争に敗れて一時後退したが,1860年代以降パン・スラブ主義をとなえて再び進出をはかり,露土戦争を起こして英・オーストリアと対立した。ベルリン会議以後ドイツも三B政策を掲げて近東に進出,ここに東方問題はバルカン問題として新たな段階に入った。
→関連項目ウンキャル・スケレッシ条約キュチュク・カイナルジャ条約聖地問題第1次世界大戦バルカン半島ボスニア・ヘルツェゴビナ併合問題

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東方問題」の意味・わかりやすい解説

東方問題
とうほうもんだい
Eastern Question

オスマン帝国が内部分裂の危機にさらされていた 19世紀に,混乱に乗じて干渉したヨーロッパ諸国間に生じた国際緊張全般を意味するが,狭義には 1830年代のものをさす。ギリシア独立戦争でオスマン帝国を援助したエジプトの太守ムハンマド・アリーが戦後の取得領 (クレタ,キプロス) に不満で,オスマン帝国の宗主権下からのエジプトの独立を目指してシリアに派兵すると,かねてから南下を策していたロシアがオスマン帝国支援に乗出し,さらにイギリス,フランスがロシア牽制の目的で干渉,1833年5月クタイア条約によりエジプトのシリア,キリキア領有をオスマン帝国に認めさせた。イギリス,フランスの調停に不満のオスマン帝国は,同年7月ウンキャルスケレッシ条約を締結し,ロシア艦隊の海峡優先航行権と引替えにロシアの援助を受けることになった。ムハンマド・アリーの領土世襲権要求をめぐり 39年オスマン帝国,エジプト間に紛争が再燃すると,フランスのエジプト支援に対抗,イギリスがロシア,オーストリア,プロシアと四国同盟を結成し,オスマン帝国側に回ったので,フランスもエジプトから手を引き,ムハンマド・アリーが敗退した。 41年イギリス,フランス,ロシア,オーストリア,プロシアの5国間に国際海峡協定が成立し,ロシアの優先航行権も消滅した。その後,クリミア戦争,三帝同盟,三帝協商の時期を経て帝国主義時代に入る過程のなかで,オスマン帝国領内被支配民族の独立の動きをめぐって,列強の抗争が続いた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「東方問題」の解説

東方問題
とうほうもんだい

近代ヨーロッパ列強が,オスマン帝国の衰退に乗じ,その領土と支配民族への介入をめざしたために起こった国際政治上の諸問題。ヨーロッパ側からみた名称
ロシアの黒海南下政策は17世紀末に始まるが,19世紀にはいると,イギリス・フランスの地中海進出がからんで重大な国際政治上の問題となった。イギリス・フランス・ロシア3国は,ギリシアの独立を助けて地中海に勢力を伸ばしたが,1831年エジプト太守ムハンマド=アリーがシリア領有を要求して挙兵すると(エジプト事件),ロシアが33年トルコ援助を口実にウンキャル−スケレッシ条約でダーダネルス海峡地帯での優位をはかった。これに対しイギリス・フランスはアリーを助けてこれに対抗した。やがてイギリスはトルコ保全策に転じ,1840年のロンドン条約でエジプトを不完全独立の状態にとどめてフランスを押さえ,ロシアにも上記の条約を廃棄させた。ロシアはさらに南下を策して聖地管理権問題を口実にオスマン帝国と開戦すると,イギリス・フランスは協力してロシアを破った(クリミア戦争1853〜56,パリ条約)。その後ロシアはバルカンのスラヴ系民族の独立運動支援で後退から立ち直ろうとした。1877年ボスニアの正教徒の反乱から露土戦争を起こし,サン−ステファノ条約で有利な立場を築いたが,78年のベルリン条約により南下は三たび挫折した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「東方問題」の解説

東方問題(とうほうもんだい)

1853年1月,ロシア皇帝ニコライ1世はイギリスにオスマン帝国の解体を提議したが,このときトルコを「瀕死の病人」になぞらえた。19世紀に入ってオスマン帝国の衰退が顕著となり,その支配下の諸民族の独立運動と列強の利害が交錯して東方問題が重要な国際問題となった。

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世界大百科事典(旧版)内の東方問題の言及

【パレスティナ】より

…また,ザーヒルの権力の崩壊後は,1774‐1804年の間アッカーに拠ったボスニア生れの軍人ジャッザールがシリア全土に勢威を伸ばし,オスマン帝国もこれを認めて利用せざるをえなかったが,彼は,1799年にエジプトからシナイ半島を越えてアッカーを衝こうとしたナポレオン軍を,イギリス艦隊に支援されつつ撃退することができた。 このようにして始まった東方問題において,聖地問題を抱えるこのシリア南部地域は,その展開の焦点となった。すなわち,〈イスラム教徒に奪われた聖地を奪回する〉という十字軍的発想にかわって,東方世界のなかのキリスト教徒やユダヤ教徒の存在をむしろ重視し,それらをてこにして宗教・宗派の対立を煽り,利用するというのが東方問題の構図であり,したがってそこでは複数の宗教の共通の聖地であるパレスティナが何よりも問題となった。…

【パレスティナ問題】より

…アラブ分割政策(アラブのユダヤ教徒を〈ユダヤ人〉として扱い,これを非ユダヤ教徒としての〈アラブ〉から切り離す)と独特の植民地主義(世界のユダヤ人World Jewryすなわち離散の地diasporaのユダヤ人のパレスティナ植民を国際的に組織する)とを結合させるシオニズム運動(1948年以降はイスラエル国家)と,これを19世紀の東方問題に代わる20世紀の中東支配・管理のための基軸的装置として利用しようとした強国(1917年のバルフォア宣言から第2次世界大戦まではイギリス,フランス,ことにイギリス,第2次世界大戦から1967年まではアメリカ,ソ連,67年以後は主としてアメリカ)の政策とが,からみあってつくり出してきた国際的・社会的紛争。そこでは,絶えず〈アラブ〉対〈ユダヤ人〉,さらにアラブ諸国対イスラエル(中東戦争における構図)という対抗関係の枠組みによる割切りが押しつけられ,また,棄民としてのユダヤ人のパレスティナ導入がパレスティナのアラブの棄民としての排除をもたらすという形式で,国際的連関構造をもった住民追放が系統的に進められた。…

※「東方問題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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