マケドニア(読み)まけどにあ(英語表記)Macedonia

翻訳|Macedonia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マケドニア」の意味・わかりやすい解説

マケドニア
まけどにあ
Macedonia

ギリシア、ブルガリア北マケドニア共和国(旧、マケドニア共和国)の3国にまたがるバルカン半島中央部の地方名。Macedoniaは英語綴(つづ)りで、現代ギリシア語ではMakedoniaブルガリア語ではMakedoniya、マケドニア語ではMakedonija。

 マケドニアは1913年、第二次バルカン戦争終結後にギリシア、ブルガリア、旧ユーゴスラビアの3国に分割されたが、それ以降、それぞれの国に領有された領域をエーゲ・マケドニア、ピリン・マケドニア、バルダル・マケドニアと称することがある。マケドニアという名称は、地理的な概念として用いられる場合と、「古代マケドニア王国」や「北マケドニア共和国」などのように政治的単位として用いられる場合とがある。これら両者の示す範囲は、かならずしも一致せず、政治的単位を示す場合でも、「古代マケドニア王国」と現在の「北マケドニア共和国」とは、同じマケドニアという呼称を用いてはいても、民族的にも言語的にも異なり、明確に区別して考えるべきである。

[大庭千恵子]

 なお、「マケドニア共和国」は2019年1月に憲法上の国名を「北マケドニア共和国」に変更した。

[編集部 2019年6月18日]

地理的概念

地理的な概念としてのマケドニアMacedonia(英語表記)は、現在のギリシア北部地域、北マケドニア共和国、ブルガリア西南部のペートリッチ地方をさす。その自然の境界はギリシア領内のテルマイコス湾(エーゲ海)に流れ込むアリアクモン川流域に沿って、北マケドニア共和国とアルバニアとの国境をなすオフリド湖やビストラ山脈、同共和国とセルビアとの国境でもあるシャール山脈を経て東に向かい、ブルガリア領内のロドピ山脈からネストス川流域に至る。なお、このような地理的概念としての「マケドニア」が一般に知られるようになったのは、19世紀にオスマン帝国からバルカン諸国が独立する過程で、セルビア、ギリシア、ブルガリアの3国がこの地域の領有をめぐって相争う事態を招いたことによる。

[大庭千恵子]

政治的概念

政治的単位としてのマケドニアは、「古代マケドニア王国」や、ビザンティン帝国の「マケドニア朝」があげられる。これらは通常ギリシア語で表記される。本来マケドニアという名称の語源は古代マケドニア王国よりも古く、アリアクモン川流域に居住した一民族「マケドン」に由来するといわれている。紀元前7世紀から前2世紀にかけて存在した「古代マケドニア王国」の版図は、「ヘレニズム」ということばを生んだアレクサンドロス大王の東方遠征期を最大として、上記の地理的範囲よりも大きく東方へと開けている。また、ビザンティン帝国マケドニア朝(867~1057)は、11世紀前半にマケドニア地方を支配し、最盛期の版図はバルカン半島から小アジアを中心に、南イタリアとシリアを含んでいた。マケドニア朝は14世紀に至るまで第二次ブルガリア帝国とこの地域の領有をめぐって攻防を繰り返したが、一方ではレオン6世(在位886~912)とコンスタンティノス7世(在位913~959)の時代には、いわゆるマケドニア朝ルネサンスとよばれる文化が花開いた。しかし、こうしたマケドニアをめぐる歴史は長く忘却されており、これが西欧で再発見されたのは、15、16世紀のいわゆるルネサンスの時代であった。ただし、それは今日のような特定の政治的単位や地理的な概念を示すものではなく、古代マケドニア王国の生んだヘレニズム文化特有の精神風土への憧憬(しょうけい)であった。

 一方、マケドニア地方にスラブ人が居住し始めたのは6世紀以降であるが、スラブ語でマケドニアという名称が広く用いられるようになったのは、19世紀に入ってからである。それは、ロシア語による地理学の表記Македония/Makedoniyaに端を発する。

[大庭千恵子]

マケドニア問題

マケドニア問題は、狭義には19世紀末から20世紀初頭にかけて生じたマケドニア地域の領有をめぐる国際紛争をさし、いわゆる領土問題である。広義には現在のマケドニア問題に通じる民族問題である。

 狭義のマケドニア問題は以下の展開をたどった。この地域は、ロシア・トルコ戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約(1878)により大部分をブルガリアが領有したが、その直後にロシアの南下政策に反対するオーストリア・ハンガリーとイギリスの干渉で、オスマン帝国の領土に復された(ベルリン会議、1878)。問題は、オスマン帝国下のマケドニア地方の領有をめぐるバルカン諸国の抗争という面だけでなく、その帰属の決定に関する列強の介入により深刻化した側面をもつ。これ以後、マケドニアという名称は古代マケドニアから想起させる独自の精神風土よりはむしろ、この政治問題を抱えた地名を意味するものとして流布した。このように、列強の勢力範囲の拡大とバルカン諸国の独立が絡みあうなかで、住民の意志とは無関係に帰属が変更されるという、この地域の状況を「マケドニア問題」とよんだ。「マケドニア問題」は、1913年に第二次バルカン戦争の講和条約(ブカレスト条約)によってこの地域がギリシア、セルビア、ブルガリア間で分割されて終息する。ギリシアは、このマケドニア分割によって領土問題としての「マケドニア問題」は解決したという立場をとっている。ただし、このときの領土確定への不満はほかのバルカン諸国、とくにブルガリアにくすぶり、同国が第一次および第二次世界大戦に参戦する契機となった。

 また、こうした領土問題としての展開のなかで、広義のマケドニア問題が発生することになった。この地域に居住するスラブ人が自分たちの民族意識の自覚を迫られることになり、ここで初めて、スラブ語でも「マケドニア地域に住む者」を意味する「マケドニア人Македонец/Makedonets」という表現が用いられるようになった。マケドニア共和国の主権の担い手である「マケドニア人」は、このスラブ人のことであり、古代マケドニア王国を想起させるギリシア系のマケドニア人とは関係がない。この事実が、新たな「マケドニア問題」を生むことになった。

 スラブ人の「マケドニア人」は、第二次世界大戦を経て成立したユーゴスラビア連邦(旧ユーゴスラビア)において初めて、共和国の主権をになう固有の民族として承認された。従来、彼らは、セルビア人やブルガリア人、あるいはスラブ語を話すギリシア人とみなされていた。マケドニア共和国が独立した現在においても、ギリシアとブルガリアは、マケドニア共和国を国家としては承認しながらも、「マケドニア人」を民族としては認めない立場をとっている。ギリシアにとって、「マケドニア人」とは古代から続くギリシア系の民族でしかない。一方、ブルガリアにとって、マケドニア語はブルガリア語の一方言でしかないからである。とはいえ、マケドニア共和国をになう「マケドニア人」が、第二次世界大戦後60年を通じて「マケドニア人」としての民族意識を培ってきた面も看過しえない。つまり、現在の「マケドニア問題」は、往時にみられたような、地理的概念としてのマケドニアの帰属をめぐる外交問題から、その地域に住むスラブ人の民族意識をめぐる民族問題へと性格を変えてきたのである。当然、民族問題がマケドニア共和国と近隣諸国との関係に影響をもたざるをえず、問題をいっそう複雑にしている。

[大庭千恵子]

歴史

歴史時代のマケドニアの中心勢力となったマケドニア人の祖先は、初めマケドニア南部、アリアクモン川上流に居住、紀元前1100年ごろより北進し、アイガイを首都と定め、マケドニア王家(アルゲアス家を意味するアルゲアダイまたはテーメノス家を意味するテーメニダイとよばれた)の支配するところとなった。初代の王ペルディッカス1世は前7世紀前半の人である。なお、ドーリス人の侵入後、数世紀にわたりイリリア人やトラキア人、その他さまざまな民族の侵入を受け、マケドニア人は混血民族を形成することになった。彼らのことばは言語学的にどう分類すべきか定説はないが、ギリシア語の一派とする説が今日有力である。とくにギリシアの学者たちが強力に主張しており、マケドニア語の帰属をめぐる論争は言語と民族問題が緊密な関係にあることを示すよい例である。

 前5世紀、アレクサンドロス1世やペルディッカス2世はペルシア戦争やペロポネソス戦争の混乱に乗じ巧みに勢力拡張に努めた。また、ギリシア人から「バルバロイ」(夷狄(いてき))と軽蔑(けいべつ)されていたが、とくにアルケラオス王以後ギリシア文化の輸入に努めた。フィリッポス2世(在位前359~前336)のころには軍事的にも経済的にもギリシア世界の最有力国となった。彼の息子アレクサンドロス大王は全ギリシアを制覇したのち、東方遠征を行い、ペルシア帝国を征服し東西にまたがる世界帝国(アレクサンドロス帝国)を現出させた。こうした政治状況はギリシア文化とオリエント文化を融合させ、特色あるヘレニズム文化を生み出す契機となったが、マケドニアは文化的に指導的役割を果たすことはなかった。

 この大帝国も未完のまま紀元前323年にアレクサンドロス大王が没すると、まもなく後継者たち(ディアドコイ)が帝国内に群雄割拠し、文化的均質性は維持されたものの政治的統一はただちに瓦解(がかい)し、マケドニアは東方進出のローマにあえなく服属(前168)、続いて前146年にはその属州となった。ローマ帝国の東西分裂(後395)後は東ローマ領として存続した。紀元後6世紀ごろより漸次スラブ人が移住し、中世にはブルガリアやセルビア王国に服属した。その後、14世紀バルカン半島に進出してきたオスマン帝国の領地となり、以後500年以上にわたりトルコの支配を受けた。

 19世紀になり、トルコの衰退と国民主義の動きに呼応してバルカン半島でも民族自決、独立運動が激化すると、マケドニアもその渦中に巻き込まれていった。政治的対立のみか、民族、宗教、言語とあらゆる面で抗争が派生した。住民の多くはマケドニア人とはいえ、ギリシア人、アルバニア人、ルーマニア人、トルコ人等々もおり、宗教は、イスラム教、カトリック、ギリシア正教などが混在し、まさに民族、宗教のるつぼである。ちなみに、種々の野菜を組み合わせたサラダをマセドワーヌ(macédoine)とよぶのは実にこの民族混在に由来する。1820年に勃発(ぼっぱつ)したトルコ支配からの解放を目ざすギリシアの独立戦争と独立達成は近代バルカン半島の民族対立の始まりを象徴する事件であり、1877年から1878年にかけてのロシア・トルコ戦争(露土戦争)はこうした対立を激化させる大きな契機となった。この戦争の勝利国ロシアは戦後締結したサン・ステファノ条約でマケドニアを含む大ブルガリア公国の建国をトルコに承認させた。しかし、これもベルリン会議で破棄されマケドニアはトルコに返還された。以後、マケドニア領有争いはバルカン問題の中心的課題となり、今日なお政情不安の一因となっている。

 第一次バルカン戦争(1912)後、ようやくトルコの支配を脱却したのもつかの間、翌1913年マケドニアの帰属問題をめぐり第二次バルカン戦争が勃発し、「マケドニア人のためのマケドニア」を掲げて1893年に結成された「内部マケドニア革命組織」の意に反してブルガリア、ギリシア、セルビアに割譲された(ブカレスト条約)。この3分割体制は、変更をうけながらも第一次世界大戦後のヌイイ条約により確定したが、国境紛争はその後も続くことになる。第二次世界大戦中の一時、ほぼ全マケドニアがナチス・ドイツの同盟国ブルガリアの支配下に置かれたり、大戦直後にはソ連を指導者とするコミンフォルムが独立国家マケドニアの建国を擁護したが、1947年以後はブルガリア、ギリシア、ユーゴスラビアに分割所属し、その後の歴史を歩むことになる。

 このうち、民族史上初めて独立を確保し、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に帰属したマケドニア共和国は、1980年連邦共和国大統領チトーの死に始まる内乱と国家解体の動乱のなか、さらに第二次世界大戦後の冷戦体制崩壊途上の1991年9月、マケドニア共和国独立宣言を出し、11月には憲法を制定して独立国家への一歩を進めた。しかし、国民の20%を超えるアルバニア人は民族自決を主張しているうえに、対外関係をみると、同じくマケドニアとよばれる地方をもつギリシアと国号や国旗をめぐり対立した。ギリシアはマケドニアの国号を拒否、住民を称するときにマケドニア人ではなく南スラブ人とかスコピエ人等の呼称を用いているうえに、1994年には経済封鎖を加え、ヨーロッパ安定の視点からユーゴ内戦の解決に腐心するEU(ヨーロッパ連合)諸国に承認しないように働きかけた。1993年4月の国連加盟においても、マケドニア共和国ではなくマケドニア旧ユーゴスラビア共和国Former Yugoslav Republic of Macedoniaという暫定的国名で承認された。なお、日本が承認したのは、同年12月で、翌1994年の3月に両国の外交関係が樹立された。さらにマケドニア共和国が採用した太陽をあしらった国旗に対しても、これは古代マケドニア王朝の家紋であるとギリシアは異議をとなえた。マケドニア共和国がギリシアの要求をいれて国旗を改め、ギリシアのマケドニア州に対する領土要求を憲法条項から削除する一方、ギリシアはマケドニア共和国を国家として承認し、経済制裁を解除するとの暫定合意に達したのは1995年である。しかし、国名マケドニアをどうするかの問題は依然として未解決で、内外ともにマケドニアの前途は多難である。1999年NATO(北大西洋条約機構)軍のユーゴ空爆のときも、マケドニアはアルバニア人難民受入れに慎重な態度をとり、かつ受入れ後も突如難民を移動させるなど、近隣諸国にたいするこの国の複雑な立場の一端がかいまみられた。

[真下英信]

 2018年6月、ギリシアとの間で「北マケドニア共和国」を国名とする合意が結ばれた。翌2019年1月には憲法上の国名が変更され、同年2月に国連にも認められて公式に「北マケドニア共和国」が使用されるようになった。

[編集部 2019年6月18日]

『木戸蓊著『バルカン現代史』(1977・山川出版社)』『C&B・ジェラヴィチ著、原野美代子訳『バルカン史』(1982・恒文社)』『スティーヴン・クリソルド編、田中一生・柴宜弘・高田敏明共訳『ユーゴスラヴィア史』(1993・恒文社)』『徳永彰作著『モザイク国家ユーゴスラビアの悲劇』(1995・筑摩書房)』『柴宜弘編『バルカン史』(1998・山川出版社)』『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マケドニア」の意味・わかりやすい解説

マケドニア
Macedonia

バルカン半島南中部を占める地域。歴史的なマケドニアとは北マケドニア全域,ギリシア北部,ブルガリア南西部にかけて広がる山がちな地域の呼称で,複雑な歴史をもつため,その境界は時代によって異なる。マケドニアの呼称は古代ギリシアに興ったマケドニア王国に由来する。この地は紀元前2世紀にローマの属州となって以降,ビザンチン帝国,ブルガリア帝国,セルビア王国の支配を経て,14世紀にオスマン帝国領となった。ビザンチン帝国時代の 6~7世紀にスラブ人がバルカン半島へ進出し,オスマン帝国時代にはトルコ人,アルメニア人が入植した。歴史を反映して民族構成も複雑な地域で,19世紀以降民族意識が高揚するとともに,その帰属が国際問題となった(→東方問題バルカン紛争)。2度にわたるバルカン戦争ののち,マケドニアの南半分はギリシア,北半分のほとんどはセルビア,残りの一部はブルガリアに分割され,そのうちセルビア領のマケドニアは第2次世界大戦後ユーゴスラビア連邦を構成する共和国の一つとなった。1991年にユーゴスラビアからマケドニア共和国が独立したが,マケドニア地域の南半分はギリシア領であることや,マケドニアの名は古代ギリシアに由来することなどから,ギリシアは「マケドニア」という国名に対し強硬に反対した。国名をめぐる対立は長年にわたって続いたが,2018年マケドニア共和国の国名を北マケドニア共和国に変更することで両国が合意した。(→マケドニア問題

マケドニア

北マケドニア」のページをご覧ください。

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