中台関係(読み)ちゅうたいかんけい/ちゅうごくたいわんかんけい

共同通信ニュース用語解説 「中台関係」の解説

中台関係

中国共産党との内戦に敗れた国民党は1949年に台湾に逃れ、中台が敵対した。中国は92年、経済を中心に台湾側との交流を始めたが、李登輝り・とうき・元台湾総統の「特殊な国と国との関係」との発言反発。2000年に台湾独立を志向する民主進歩党(民進党)の政権が発足し、関係は一層冷え込んだ。08年総統選で国民党の馬英九ば・えいきゅう氏が政権を奪還すると中台対話が再開し、経済関係が発展した。今月16日の総統選では、中国と距離を置く民進党の蔡英文さい・えいぶん主席が当選した。

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知恵蔵 「中台関係」の解説

中台関係

中台間には、「一つの中国」か否かをめぐる根本的対立が存在しているが、両者の間には、三通政策と三不政策という台湾海峡両岸関係をめぐる政策上の不一致がある。中国側が、台湾との通信・通航(航空機などによる人員往来)・通商の三通政策を呼びかけているのに対し、台湾側は、中国共産党政権下の中国とは接触せず・交渉せず・妥協せず、の三不政策を原則として掲げてきた。だが、1987年7月に38年間も続いてきた戒厳令を解除した台湾当局は、同年11月以来、台湾住民の大陸への親族訪問(探親=タンチン)を解禁し、90年代に入ると台湾海峡両岸の緊張関係が大幅に緩和してきた。その背景には中国側の「改革・開放」政策の推進と共に、台湾側の経済的・社会的な成功がある。台湾当局は90年代になるとまず国是会議を招集して広く民意を問い、90年10月には総統府に国家統一委員会を設置した。同年11月には行政院に大陸委員会を設置して、中国大陸との関係を政府レベルで担当することになった。91年2月には、中国統一に向けての3段階の方式(民間交流、合作交流、政府間交流)をうたった国家統一綱領採択。同年5月には、台湾の憲法に48年以来規定されてきた中国敵国条項としての「動員戡乱(かんらん)時期臨時条款」を中止し、中国側を1つの政治実体として認めると共に、従来の反共政策を大きく転換した。92年7月には両岸関係人民条例も制定して民事上の諸問題を法的にも処置することになった。民間レベルでは、海峡交流基金会が台湾側に90年11月に設立された。理事長に就任した辜振甫(クー・チェンフー)は93年4月27〜29日、91年12月に設立された中国側の海峡両岸関係協会の汪道涵(ワン・タオハン)会長とシンガポールで会談、様々な問題を調整・協議した。95年7月には第2次会談が予定されていたが、同年6月の李登輝(リー・トンホイ)総統の訪米を理由に中国側は会談をキャンセル。96年3月の台湾総統選挙に際しては、中国側は、李登輝当選を阻止すべく、「文攻武嚇(ぶかく)」(文書による攻撃と武力による威嚇)を繰り返し、85年8月以来の三次にわたるミサイル発射演習や大規模な軍事演習を断行して台湾海峡は緊迫した。台湾側は96年12月、国家発展会議を開いて台湾省政府の事実上の廃止を含む改正憲法を97年7月に可決して「台湾化」をさらに推進した。98年10月には第2次両岸会談が辜振甫代表の訪中で北京で開催されたが、中台関係は「特殊な国と国との関係」という99年7月の李登輝発言に中国が猛反発して両岸会談は再現せず、中国側は同年2月に台湾が独立すれば武力を行使するという「台湾白書」を発表した。2000年3月の総統選挙は台湾独立を綱領に掲げてきた民主進歩党が勝利、02年8月の陳水扁(チェン・ショイピエン)総統による「一辺一国」(海峡両岸にそれぞれ1つの国)論の提起もあって、中台関係の改善は依然として進展せず、国家統一綱領は06年2月、陳水扁政権によって停止された。中国側は04年7月には福建省の東山島一帯で大規模な軍事演習を開始し、05年3月には反国家分裂法を制定して、「台湾独立」なら軍事力も行使する姿勢を示し、沿岸部に約1000基もの短距離弾道ミサイル(SRBM)を配備している。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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