朝日日本歴史人物事典 「中邑阿契」の解説
中邑阿契
江戸中期,上方の浄瑠璃,歌舞伎狂言作者。宝暦明和年間(1751~72)に,初めは中邑閏助,のちに阿契と改め,豊竹,竹本両座の浄瑠璃作者として「祇園祭礼信仰記」「嬢景清八嶋日記」など多数の作品にたずさわったが,単独作は「四天王寺伶人桜」のみである。安永年間(1772~81)には大坂角の芝居小川座の歌舞伎に合作者として勤めた。なお,一時豊竹座で安田蛙桂と名乗ったのも,また北堀江豊竹座に所属したことのある安田阿契も同一人物であろう。安田蛙文との師系は当然考えられる。同時代の戯作『穴意探』に「中邑阿契和尚はほまれある事,人の知る所,信長記(「祇園祭礼信仰記」)にて紫衣をゆるされ,愛護の道行(「愛護稚名歌勝鬨」)にて官位にすゝむ」と評されている。没年は不詳であるが,九州出身の浄瑠璃作者福松藤助の『浪華日記行』によれば,安永9(1780)年10月には,「最早七十以上の大病」であった。<参考文献>井口洋「道頓堀の作者たち」(大谷篤蔵編『近世大阪芸文叢談』)
(井口洋)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報