丹羽郡(読み)にわぐん

日本歴史地名大系 「丹羽郡」の解説

丹羽郡
にわぐん

面積:二四・四八平方キロ
大口おおぐち町・扶桑ふそう

県の北西部、尾張国の北部に位置し、北辺は木曾川に臨み、対岸は岐阜県である。当郡(旧郡域内の現犬山市・江南市・岩倉市を含む。以下同じ)の地形は、(一)木曾川の形成した扇状地、(二)その先に広がる自然堤防帯地域、(三)東部の南北に連なる愛岐あいぎ丘陵、(四)その下に展開する木曾川河岸段丘地域、の四つの地域からなる。

邇波県にわのあがた(「旧事記」天孫本紀、「続日本後紀」)の郡となった地域。丹羽郡の初見は、和銅二年(七〇九)一〇月二五日の弘福寺領田畠流記写(円満寺文書)まで下り、「尓波郡」とある。「日本後紀」弘仁五年(八一四)七月の条や「尾張国風土記」逸文は「丹羽郡」と記し、長徳四年(九九八)の東大寺諸荘園注文(東大寺要録)は「丹波郡」と記している。郡域にはあまり大きな変化はなかったと思われる。北は木曾川を挟んで美濃国と相対し、東は愛岐丘陵の分水嶺で美濃国可児かに郡と接し、南は旧春日井郡である。丹羽郡の式内社の一つ田県たがた神社は近世の春日井郡久保一色くぼいしき(現小牧市)にあるから、郡界の移動が知られる。当郡の条里は「良峯氏系図」の付属由緒書によると「北者白鳥倉山、南至于河口河、東条西条合二十三条也」とある。南の郡界河口河とは生田いくた川―おさな川―五条ごじよう川をさすものと思われる。近世以降の郡界より南に下ることになり、現小牧市の北部までが郡域であった。西は葉栗はぐり郡・旧中島郡に接しているが、この郡界もおそらく南北に流れた木曾七流あるいは八流と称された古木曾川分流支川の一つによったものであろう。近世では三宅みやけ川の上流ふる川を郡界としている。

〔原始〕

大口町には縄文時代早期の北替地きたがえち遺跡、中期の遺跡が数ヵ所および晩期の西浦にしうら遺跡がみられ、弥生時代には後期の大御堂おおみどう清水しみずなどの遺跡がある。清水遺跡出土の製小型内行花文鏡は注目される。古墳では円墳・前方後円墳があり、鏡が出土したものもある。扶桑町には縄文・弥生時代遺跡に特筆すべきものはないが、県指定史跡の円墳長泉塚ちようせんづか古墳がある。

〔古代〕

尾張地方は初期大和政権の勢力範囲の東限に位置し、県の存在が知られるが、そのうち最も確実視されるのが邇波県で、丹羽郡東部の地がこれにあたる。承和八年(八四一)四月に県主前利連氏益が県連と改賜姓されている(続日本後紀)。丹羽郡前刀さきと郷にちなむものである。この郷は斎藤さいと(現扶桑町斎藤)に比定され、字名に「あがタ」(明治十五年愛知県郡町村字名調)が残っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報