木曾川(読み)きそがわ

精選版 日本国語大辞典 「木曾川」の意味・読み・例文・類語

きそ‐がわ‥がは【木曾川】

  1. 飛騨山脈南部の鉢盛山に発し、長野、岐阜、愛知、三重の四県を流れて伊勢湾に注ぐ川。上流は木曾谷の渓谷を、中流は日本ラインなどの景勝地をつくる。豊富な水資源は、電力、農業その他多目的に利用される。全長約二三〇キロメートル。

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日本歴史地名大系 「木曾川」の解説

木曾川
きそがわ

木曾山脈の北端部、木曾谷と松本まつもと平との分水嶺を形成する鉢盛はちもり(二四四六・四メートル)を源流とし、山地・丘陵・盆地内を南西流し、濃尾平野を流れて伊勢湾に注ぐ。長野県内で王滝おうたき川・阿寺あでら川・あららぎ川などを合流、岐阜県で中津川・付知つけち川・阿木あぎ川などの支川を集め、美濃加茂市で最大支流の飛騨川を合流する。流域面積九一〇〇平方キロ、幹川流路延長二二七キロ。一級河川。吉蘇川・岐蘇川とも記された。

〔流域とその地形の特徴〕

地殻運動のはげしい中部地方にあって、流域面積が広く、その地質も複雑多岐にわたる。しかし、大局的には上流部の長野県内においては花崗岩・濃飛流紋岩および第四紀の火山噴出物が卓越し、中流部の岐阜県東部地域では濃飛流紋岩・花崗岩と新第三紀および第四紀の堆積物、美濃加茂市付近から下流域の山間部では、砂岩・粘板岩・チャートなどの中・古生界が卓越する。飛騨川流域では、濃飛流紋岩と下流域にみられる中・古生界からなる。流域の地形は東高西低の傾動地塊を示す。日本アルプスを東端にして、飛騨高原の南端に位置する標高一七〇〇―九〇〇メートルの阿寺山地、美濃山地の二ッ森ふたつもり山塊一〇〇〇―八〇〇メートル、および見行けんぎよう山塊八〇〇―三〇〇メートルへと高度を下降しながら濃尾平野に至る。これらの山脈・山地は阿寺・赤河など北西から南東方向の断層線によって区切られ、数十キロの広がりをもつ山塊的な傾動運動を行っている。二ッ森山塊と見行山塊は、いずれも定高性の高原状の山地であり、それゆえに美濃高原ともよばれる。

河谷は北東から南西、北西から南東および南北の三方向が卓越し、全体的水系はこれらを組合せた形状を示している。一例を示せば、飛騨川本流は益田ました萩原はぎわら町付近で南西流から南東流へ河谷方向をくの字形に屈曲させ、同郡下呂げろ町下流の中山なかやま七里に向かって再び逆くの字形の南西流に変えている。この関係は飛騨川本流より東に位置するしら川や付知川、木曾川本流にまでみとめられる。南東方向に屈曲している河谷区間が、活断層の阿寺断層による構造谷の部分である。本川に合流する支川の密度の高い区域は、結果的に断層などが集中し、地殻運動が激しい地域でもあるので、山間地であっても河谷は円筒形や袋状に拡大し、広い谷底部をもつ盆地を形成している。

木曾川の南は、恵那山付近を起点とし、北東から南西走向の比高数百メートルの断層崖をもつ屏風山断層(逆断層)によって三河山地と区切られている。


木曾川
きそがわ

長野県の鳥居とりい峠北方、木曾山地の鉢盛はちもり山を源にし、愛知県北西部から西部を取囲むようにして流れ、岐阜県・三重県との県境(尾張・美濃・伊勢の国境)をなし、伊勢湾に注ぐ。幹川の流路延長約二二七キロ、県内延長約五一キロ。

「平家物語」巻六に今様の詞章として「信濃にあんなる木曾路川」とみえるが、これは木曾路にある川をさし、濃尾平野での名称ではない。「続日本紀」神護景雲三年(七六九)九月八日条に「尾張国言、此国与美濃国堺、有鵜沼川」とあり、承和二年(八三五)の官符(類聚三代格)では「尾張美濃両国堺、墨俣河」、正徹の「なくさめ草」にも「墨股川は美濃尾張の境とかや」とあって、濃尾国境川を鵜沼うぬま川・墨俣すのまた川とよんでいる。分流については、「三代実録」貞観七年(八六五)一二月二七日条に「尾張国言、昔広野河流、向美濃国」とあり、この広野ひろの川は現在岐阜県を流れるさかい川にあたるとされている。また美濃側では美濃川(「康暦外宮遷宮沙汰文」神宮文庫蔵)、尾張側では「尾張川」(承久記、承久軍物語)としている。「信長公記」の巻首に、信長が舅斎藤道三と冨田とみだ(現一宮市と尾西市の両説あり)にあった聖徳しようとく寺で会見するために「木曾川・飛騨川、大河舟渡し打越御出で候」とあるのが、現在と同じ意味での「木曾川」の早い使用例である。天正一二年(一五八四)六月四日の佐竹義重宛羽柴秀吉書状写(諸将感状下知状并諸士状写)に「木曾川并大河数ケ所相越」とある。公式的なものでは慶長五年(一六〇〇)一〇月二日の木曾代官山村道祐宛徳川家康朱印状(山村家文書)に「木曾川・飛騨河共、如石川備前仕候時」とあるのが早い。

木曾川の歴史は木曾川扇状地一之枝いちのえ(石枕川)・二之枝川(般若川)・三之枝川(浅井川)など木曾七流あるいは八流ともいわれた小分流支川を近世初頭に締切って、木曾川本流一本に固定化した時代の前後で大きく分けられる。

〔治水〕

現在の尾張平野は一〇メートル等高線付近を末端とする木曾川扇状地と、下流の三角州平野の部分に大別される。三角州平野はさらに標高二・五メートル線付近より上流の木曾川系自然堤防が発達する「自然堤防帯」と、下流のおもに近世以降の海面干拓新田からなる「海抜零メートル地帯」に分けられ、今日の地表地形をつくる自然堤防の多くは、縄文・弥生時代より後の形成とされる。

弥生・古墳時代頃の主流路は岐阜県各務原かかみがはら市の南西部から北西へ迂回し、今日の境川の辺りを流下していた可能性は強いとされる。


木曾川
きそがわ

木曾郡・東筑摩ひがしちくま郡・南安曇みなみあずみ郡の境に位置する鉢盛はちもり(二四四六・四メートル)に発した味噌みそ川は、木祖きそ小木曾の永谷おぎそのながたり地籍で、笹川ささがわ山の渓谷より流出する笹川を合わせて木曾川となり、すげ川・正沢しようざわ川・熊沢くまざわ川・くろ川・八沢やさわ川などの渓流を集めながら、木曾福島きそふくしま川合渡かわいどで、御嶽おんたけ山麓の水を集める王滝おうたき川を合わせ、更に木曾山脈の西面からのなめ川・伊奈いな川・あららぎ川、阿寺あでら山地からの川・殿小とのお川・阿寺川を合流して、木曾谷を南流し、美濃・尾張両国を通過して伊勢湾に注ぐ。延長約二二三キロ、この間長野県内である木曾谷を流れるのは約九二キロで、全長の約五分の二を占める。急流で浸食が甚しく寝覚ねざめとこをはじめ、奇岩怪石の美で知られる。

木曾川の名は「平家物語」巻六の「嗄声」に、今様の詞章として「信濃にあんなる木曾路川」とみえるように「木曾路川」ともよばれ、

<資料は省略されています>

など歌にも詠まれている。

王滝川源流の御嶽とそれに続く阿寺山地、こまヶ岳を主峰とする木曾山脈の一帯は、いわゆる木曾山とよばれる美林地帯として知られ、古くから木曾川の水運を利用して、木曾材の輸送が行われていた。木曾材が木曾川の水利によって、畿内地方まで搬出されるようになった時代は分明ではないが、伊勢神宮造替遷宮(内宮)用材を美濃山みのやまに求めようとの建議の行われている弘安八年(一二八五)の頃には既に相当の量の材木が搬出されていたようである。


木曾川
きそがわ

木曾山地に源を発する木曾川は幹川流路延長は二二七キロに及ぶ。いわゆる木曾三川というものの、明治の三川分流工事の行われる以前は、長良ながら川は油島あぶらじま(現岐阜県海津町)の上流一〇キロの地点で木曾川に合流していたので、伊勢国においては木曾・伊尾いび(揖斐)の二川だけであった。木曾川は下流デルタ地帯では幾筋にも分流して数多の砂洲と島を形成し、集落が生れ、度重なる水害に対しては輪中堤を作った。現木曾岬きそざき村・長島ながしま町の新田地帯は海抜零メートル地帯で水害のため度々亡所となっては再開発を繰返した。

近世まで木曾川は長島輪中の北で、伊尾川に合流するとともに、加路戸かろと輪中(現木曾岬村)先端の加路戸新田の北で分れて、その西を流れる加路戸川とその東の加路戸輪中と見入けんにゆう輪中(現木曾岬村)の間を流れる見入川(東加路戸川)、見入輪中の東側を流れる和泉いずみ(鍋田川)などがあった(「長島新田墨引絵図(二番)」徳川林政史蔵)。さらに森津もりづ輪中(現愛知県弥富町)の東側を流れるいかだ川に分流していた。

宝暦の治水工事には、木曾岬地域の輪中と長島輪中は二ノ手の工事区にあたり、尾張梶島かじしま新田(現立田村)から加路戸輪中のがん新田に及ぶものであった。この時、加路戸―雁ヶ地では引堤が行われたが、宝暦九年(一七五九)見入川締切により、その旧河川敷にそれぞれ代地が与えられ、その面積は四七四反歩(四七・四ヘクタール)に及んだ(木曾岬村史)

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改訂新版 世界大百科事典 「木曾川」の意味・わかりやすい解説

木曾川 (きそがわ)

飛驒山脈の南部,長野県の鉢盛山(2446m)を水源とし,ほぼ南西方向に流れ伊勢湾に注ぐ川。流域面積9100km2,幹川流路延長227kmにおよび,王滝川,付知(つけち)川,飛驒川などの大支流が本流右岸に流入する。上流では寝覚ノ床恵那峡日本ラインなどの峡谷をつくり,下流では扇状地,三角州からなる濃尾平野を形成している。濃尾平野は東高西低の地形をなし,木曾,長良,揖斐(いび)の3河川が集まる西濃地方には,洪水の被害を避けるために宅地や耕地のまわりに堤防をめぐらした輪中(わじゆう)集落が卓越する。

 木曾川の水は古くから灌漑用水として利用され,17世紀初めには,大野村(現,一宮市浅井(あざい))に設置された大野杁(おおのいり)をもととする宮田用水ができ,以後,般若,木津など多くの用水が設けられた。最近になってこれら用水の取水が,犬山から下流の河床低下により困難になってきた。これを改善するために発足したのが濃尾用水事業で,その一環として1962年には宮田,木津および岐阜県側の羽島用水を同時に取水する犬山頭首工が犬山城のある丘のすぐ下に完成した。これとは別に濃尾平野東部の丘陵地および知多半島の乏水地を灌漑する愛知用水が木曾川の兼山地点から取水されている。さらに現在,愛知,岐阜,三重の3県を対象に木曾川表流水を水源として農業,工業,水道用水および発電と洪水調節を目的とした木曾川総合用水事業が進められ,1976年に岩屋ダム(飛驒川の支流馬瀬川),翌77年には馬飼頭首工(祖父江町)が完成した。美林地帯として知られる木曾山が1612年(慶長17)に尾張藩の所有として認められ,木曾川は木材の輸送路としても重要な役割を果たしてきた。この木材輸送路としての木曾川の役割は,明治末に国鉄中央本線が全通し,大正以降陸上輸送機関の発達と発電用ダムの建設によって消滅するまで続いた。発電所は1919年賤母(しずも)に建設されたのをはじめとして,大桑,丸山,山口などにつくられ,1万kW以上の発電所は1997年現在,木曾川本流に24ヵ所,飛驒川に16ヵ所あり,中京,関西地域に送電されている。木曾川西岸河口部には深層地下水を汲み上げて成立した長島温泉があり,名古屋大都市圏の保養地,遊園地としてにぎわっている。
執筆者:

古くは吉蘇川,岐蘇川とも書き,所によって,広野川,鵜沼川,境川,墨俣(すのまた)川とも称された。水源地の木曾は森林資源が豊かで,信濃・美濃両国が帰属をめぐって争い,879年(元慶3)美濃に所属することに定められた。藤原道長の無量寿院(法成寺)造営のために小木曾(おぎそ)荘が設けられたといわれ,1285年(弘安8)内宮造営用材を美濃から伐り出す建議があり,1345年(興国6・貞和1)外宮正遷宮の御杣(おそま)が設けられた。また63年(正平18・貞治2)内宮仮遷宮以来,木曾から両宮造営用材が伐り出され,東山山荘(銀閣)などの造営に木曾材が用いられたりしたのは,いずれも木曾川運材によるものであった。豊臣秀吉は,木曾を直轄地とし,木曾義昌を代官に用いて木曾と木曾川を支配させ,方広寺大仏殿などの用材を伐り出させた。徳川家康もこれに着目し,側近大久保長安が義昌の旧臣山村甚兵衛を代官として,木曾と木曾川を支配させ,木曾川流域の要地も直轄地として押さえ,木曾材を採出した。江戸城,駿府城,名古屋城の修築・築城,城下経営などの大土木工事による未曾有の木材需要に,木曾川の運材も空前絶後の隆盛であった。大坂落城後,家康は尾張の義直に木曾,裏木曾,美濃の要地を加封し,木曾川にも強い支配力をおよぼさせた。木曾材は上流でのいかだの往来が困難なので大川狩りといってばらばらのまま流され錦織綱場から下流はいかだで兼山,犬山,円城寺を経て熱田白鳥木場に川下げされた。犬山の神戸氏,円城寺の野々垣氏が,早くから川下げに大きな権益を有していた。

 木曾川が長良川に落ち合う墨俣は,835年(承和2)浮橋,布施屋が設けられ渡船が置かれ,のち鎌倉街道の渡しとなるなど,古来交通上の要地で,治承・承久の両乱をはじめ戦略上の要所でもあり,木曾材運材の港であった。この墨俣川が尾張・美濃の国境であったが,1586年(天正14)6月の大洪水によって,尾張側にくい込んで南流するようになり,尾張の葉栗郡,中島郡,海西郡の一部が美濃に編入されて国境が東に移った。夏冬両度の運材が寛文(1661-73)以降冬1回になると,その合間を利用しての舟運が発達した。すでに天文(1532-55)のころ,斎藤正義の金山(かねやま)城下に船の往来が盛んとなっており,その後,江戸中期まで,この兼山湊が広い後背地を擁して木曾川上流の商業の中心地として発展し,ことに下流から上せる塩の販売拠点となった。後期になると,細目村の黒瀬湊が木曾川遡航(そこう)の終着地として商業の中心地となった。上流には,そのほか小山,川合,取組,犬山,中流には草井,円城寺,笠松,北方,起(おこし)などの港,河岸が発達し,起が美濃路の宿,渡船場として発展した。

 中流の尾濃両国の地に南北朝のころから浄土真宗が広まりはじめ,尾張中島郡江吉良の良心が1361年(正平16・康安1)に覚如から,津島の慶専が91年(元中8・明徳2)に綽如(しやくによ)から本尊絵像を受けている。室町末には,三河三ヵ寺の布教によって数多くの末寺,道場が生まれた。木曾川の舟乗り,渡りであろうといわれる河野門徒団が出現し,河口に近い長島には一家衆の願証寺が建立されて,尾濃勢門徒の中心となったが,織田信長に対抗して滅びた。なお流域には,津島の天王社をまつるところが多い。

 1586年(天正14)大洪水の被害をこうむった尾張に,93年(文禄2)豊臣秀吉が築堤し,京畿の浮浪労働力をもつぎ込んで,その復旧開発にあたらせた。徳川家康は,義直を尾張に入れるや,尾張に流れ込んでいる木曾川八筋の分流を締め切り,犬山から河口に近い弥富まで連続する堤(御囲堤)を築かせた。同じころ,美濃側にも堤が築かれたが,以来美濃側に大きな被害が出るようになった。遊水池などの新田開発,河口の干潟化が進み,囲堤が築かれて輪中が発達した。東側が高いという地形上,増水が揖斐川に逆流するため,木曾川,長良川,揖斐川の3川分流などの大工事が,1754年(宝暦4)から翌年にかけて,御手伝普請を命ぜられた薩摩藩の莫大な経費負担と多数の藩士の犠牲によって施工された(宝暦治水事件)。その後,水位上昇によって中流域の水害が多発したため,輪中の強化がなされるようになった。
執筆者:


木曾川(旧町) (きそがわ)

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百科事典マイペディア 「木曾川」の意味・わかりやすい解説

木曾川【きそがわ】

長野県中西部の鉢盛山に発し,ほぼ南西流して伊勢湾に注ぐ川。長さ227km,流域面積9100km2。上流部は木曾谷をなし,木曾福島の南で王滝川を合わせる。寝覚(ねざめ)ノ床恵那峡を経て美濃加茂市で最大の支流飛騨川を合わせ,日本ライン,濃尾平野を経て下流で長良川揖斐(いび)川と合し,河口部に輪中を形成。笠松から下流は天井川となる。古代には鵜沼川,広野川とみえ,たびたび氾濫(はんらん)が起きている。中世には鵜飼いなどによる漁労の場で,また渡船や水上交通,さらには材木の筏(いかだ)組による輸送などが行われた。水系に多くの発電所があり,中京工業地帯の工業用水愛知用水の取水源としても重要。中流域は飛騨木曾川国定公園に属する。
→関連項目一宮[市]海津[町]各務ヶ原笠松[町]川島[町]木曾川[町]木曾岬[町]岐阜[県]坂祝[町]鳥居峠(長野)長島[町]長島一揆中津川[市]濃尾大橋濃尾平野福岡[町]扶桑[町]美濃三河高原八百津[町]弥富[町]

木曾川[町]【きそがわ】

愛知県北西端,木曾川左岸の葉栗(はぐり)郡の旧町。戦国時代末に黒田城が築かれ,市場も開かれた。尾西(びさい)毛織物工業地域に属し,繊維工業が盛ん。東海道本線,名鉄名古屋本線が通じる。2005年4月尾西市と一宮市へ編入。9.51km2。3万1604人(2003)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「木曾川」の意味・わかりやすい解説

木曾川
きそがわ

長野県南西部にある鉢盛山 (2447m) に源を発し,長野,岐阜両県を南西に流れ,岐阜市南部から南に流れを変え,愛知,三重県の県境付近で伊勢湾に注ぐ川。全長 227km。飛騨山脈,木曾山脈の間を峡谷をつくって蛇行,途中木曾谷の「寝覚ノ床」,恵那市北方の「恵那峡」,美濃加茂市東方の「蘇水峡」,犬山市北部の「日本ライン」など多くの峡谷美をみせる。濃尾平野に入って,笠松から下流は天井川となり,河口付近で長良川,揖斐川とともに輪中地帯を形成する。江戸時代の木曾五木の筏流しは有名。 1919年頃からダムの建設が相次ぎ,幹線延長 113kmの愛知用水が 61年通水し,発電,灌漑,上水道,工業用水など多目的に利用されている。おもな支流に王滝川,付知川,飛騨川などがある。

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世界大百科事典(旧版)内の木曾川の言及

【尾張国】より

…駅家は,伊勢国の榎撫(えなつ)駅につづいて,馬津・新溝(にいみぞ)・両村(ふたむら)の3駅が設けられ,三河国の鳥捕(ととり)駅がこれにつながる。《掌中歴》には,尾張国の田積1万1940町とあるが,8世紀の中ごろには木曾川の大洪水による多大の被害があったことが記録されている。木曾川の河道問題は,美濃国の利害とも密接に関連していたから,両者の対立も時には深刻であった。…

【神戸新田】より

…江戸中期,木曾川下流の葦生地に開かれた町人請負新田。新田名は開発者の姓を冠したもの。…

【七里渡】より

…徳川家康が1601年(慶長6)に東海道を制定したとき,尾張国宮(熱田)宿と伊勢国桑名宿の間は海上を七里渡と決め,これを官道とした。伊勢湾を陸路で迂回すると,木曾川,長良川,揖斐川の木曾三川があるためである。熱田宿築地町と桑名宿東船馬町にそれぞれ船会所があって渡船数十艘を常備するほか,潮流の関係で海辺が干潟になった場合に備えて小渡船も用意していた。…

【宝暦治水事件】より

…江戸中期,宝暦年間(1751‐64)に薩摩藩が幕府の命で木曾三川(木曾川,長良川,揖斐川)治水工事を行った際,引責自刃など多数の犠牲者を出した事件。1753年藩主島津重年は御手伝普請を命ぜられるや家老平田靱負(ゆきえ)を惣奉行に任命し,上下1000人近い役人を現地に派遣して工事に当たらせた。…

【美濃国】より

…戦国時代,蓮如がでるにおよんで天台・真言などの諸寺で改宗するものも多く,またあらたに道場が開設されるなどして,その教線は飛躍的に拡大した。この真宗伝播の過程はまず木曾川,揖斐川,長良川などの下流地域に,ついで郡上,揖斐郡などの山間部,さらに平野部へという経路をとっている。【勝俣 鎮夫】
【近世】

[近世前期の領主]
 美濃国の近世は,織田信長が稲葉山城(岐阜城)と,その麓の井ノ口改め岐阜城下町とを拠点にして,〈天下布武〉への一歩を踏み出した16世紀後半からはじまる。…

【破田村】より

…尾張国葉栗(はぐり)郡の中世村落。現在,愛知県葉栗郡木曾川町に内割田・外割田の大字名がある。1323年(元亨3)に〈破田荘〉とみえるのが史料上の初見。…

※「木曾川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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