僧坊村
そうぼうむら
[現在地名]湖東町僧坊
下里村の北東に位置する。村名は昔この辺りが仏場であり、堂坊があったことに由来するといわれる。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高一二八石余。文久二年(一八六二)上知。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男八八・女八三、寺社方男一。押立郷一七ヵ村と秦川郷一一ヵ村(現秦荘町)との押立山三瀬岳付近の入会山の境界についての争論があり、寛政五年(一七九三)の秦川郷内銭取井の井水争論の際には、秦川郷内の安孫子庄立会いで三瀬岳付近の境界を定めたと申立て、その際の井堰普請の土取場として東出村(現秦荘町)ほか六ヵ村が利用した山が僧坊村の持分であったと主張した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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