彦根藩 (ひこねはん)
近江国(滋賀県)彦根に藩庁を置いた譜代大藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦で東軍の軍奉行(いくさぶぎよう)として戦功のあった徳川四天王の一人井伊直政は,翌01年石田三成にかわり佐和山城主に封じられ,近江国で15万石,上野国で3万石,計18万石の大名となった。02年直政は戦傷がもとで死去,嫡子直継は翌03年彦根山に築城工事を起こし,7ヵ国12大名の御手伝普請により22年(元和8)20年の歳月をかけ,彦根城の完成をみた。しかしこの間,直継は病弱のため,庶弟直孝が名代として大坂冬・夏の両戦に参陣して武威をあげ,1615年家康は直孝をもって家督を継がせ,直継(のち直勝と改名)には彦根藩18万石のうち3万石をもって上野国安中(あんなか)城に封じた。直孝は戦功により15年5万石,17年5万石,33年(寛永10)5万石と加増され,しかも大部分は近江国内の犬上,愛知,神崎,蒲生,坂田,浅井,伊香諸郡にまとめて封地を与えられ,そのほかに幕府城付米5万石を預かり,35万石の格式を有する譜代大名として,彦根藩制の基礎を固めた。
元来,彦根藩は立藩に際し,西国大名に対する監察と京都守護の任を課せられたが,直孝は幕閣にあって秀忠・家光・家綱3代を補佐し,その後も井伊氏は江戸城溜間詰(たまりのまづめ)でかつ常溜席(筆頭)を与えられた。また大老の家格により,井伊氏は初代直政から16代直憲(なおのり)(うち2代再勤)の間,大老職につく藩主は6代(うち1代再勤)を数えた。藩士数は1695年(元禄8)江戸詰の家老以下士卒あわせて5000人,彦根在城は1万9000人であった。席順は家老等から笹間詰,武役席,平士,小姓,中小姓,騎馬徒士が士分であり,士以下では歩行(かち),足軽,中間(ちゆうげん),施職人等の武家奉公人が多くいた。藩内の民政では,領内を南筋(愛知郡以南),中筋(犬上郡と坂田郡天野川以南),北筋(天野川以北伊香郡)の3筋に分け,各筋奉行を任命,筋奉行の下には12人の代官を置き,各村の庄屋・横目を支配した。また琵琶湖松原港,長浜,米原港の彦根三湊を整備し,城付の用船120艘を配し,軍船や年貢輸送船として用いた。中期以降,藩財政の悪化にともない彦根藩も1799年(寛政11)国産方を設置し,特産品の浜縮緬,浜蚊帳,浜天鵞絨(ビロード),高宮布等の保護育成と統制による専売制施行により,商業利潤の追求に乗り出した。一方ではこの時代,藩校の稽古館(のち弘道館,さらに文武館と改称)を開校し,直亮(なおあき),直弼(なおすけ)の代には蔵書数2万部30万巻を蔵したといわれる。1850年(嘉永3)襲封した直弼は,58年(安政5)大老に就任,幕閣に威を張り安政五ヵ国条約や将軍継嗣問題に端を発し,攘夷派を弾圧したため,60年(万延1)3月桜田門外の変で非業の最期をとげた。幕府は,それを理由として62年(文久2)直憲に対し京都守護の罷免と,藩知10万石の削減を命じた。
67年(慶応3)王政復古の大号令に,彦根藩は藩論を統一し朝廷側につき,戊辰戦争では官軍として各地を転戦し,ために69年(明治2)朝廷は直憲に2万石を加増した。しかし同年の版籍奉還により,直憲は彦根知藩事に任命され,71年7月廃藩に至った。
執筆者:畑中 誠治
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彦根藩
ひこねはん
近江(おうみ)国(滋賀県)彦根に居城をもった譜代(ふだい)藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで東軍の軍奉行(いくさぶぎょう)として戦功のあった井伊直政(なおまさ)は、翌年石田三成(みつなり)にかわり佐和山(さわやま)城主に封ぜられ、近江国で15万石、上野(こうずけ)国(群馬県)で3万石、計18万石の大名となった。1602年直政は戦傷がもとで死去、嫡子直継(なおつぐ)(のち直勝(なおかつ)と改名)は翌年彦根山に築城工事に着手し、20年の歳月をかけ1622年(元和8)彦根城の完成をみた。しかし、この間、直継は病弱のため、庶弟直孝(なおたか)が名代として大坂冬・夏の両陣に参戦して、武威をあげ、1615年(元和1)徳川家康は直孝をもって家督を継がせ、直継には3万石を分与し、上野国安中(あんなか)城に封じた。直孝は戦功により相次ぐ加増を受け、30万石の封地と幕府城付米(しろつきまい)5万石を預かり、35万石の格式を有する譜代大名となり藩制の基礎を固めた。直孝は幕閣にあって徳川秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)・家綱(いえつな)3代の将軍を補佐し、また大老の家格により、初代直政から16代直憲(なおのり)の間、大老職につく藩主は6代を数えた。
江戸中期以降、藩財政の悪化に伴い、1799年(寛政11)国産方を設置し、特産品の浜縮緬(はまちりめん)、浜蚊帳(はまかや)などの保護育成と統制による専売施行により、商業利潤の追求に乗り出した。また、このころ藩校の稽古館(けいこかん)(のち弘道館(こうどうかん)、さらに文武館と改称)を開校し、蔵書数2万部30万巻を蔵したという。1850年(嘉永3)襲封した直弼(なおすけ)は58年(安政5)大老に就任し、安政(あんせい)五か国条約や将軍継嗣(けいし)問題などで攘夷(じょうい)派を弾圧したため、60年(万延1)3月桜田門外の変で斃(たお)れた。62年(文久2)この罪を問われ10万石を減知。67年(慶応3)王政復古の大号令に彦根藩は朝廷側につき、69年(明治2)の版籍奉還により直憲は彦根知藩事に任命され、71年7月廃藩に至った。藩域は、彦根、長浜、犬上(いぬかみ)県を経て、滋賀県に編入。
[森 安彦]
『中村直勝編『彦根市史 上冊』(1960・彦根市)』
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ひこねはん【彦根藩】
江戸時代、近江(おうみ)国犬上(いぬかみ)郡彦根(現、滋賀県彦根市)に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩校は稽古館(けいこかん)(のち弘道館、さらに文武館と改称)。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで東軍の軍奉行(いくさぶぎょう)を務めた徳川四天王の一人井伊直政(いいなおまさ)が、翌01年、石田三成(みつなり)に代わって佐和山城主に封じられ、近江国15万石、上野(こうずけ)国3万石、計18万石の大名となった。嫡子(ちゃくし)直継(なおつぐ)のときに彦根山に新城の建設が開始され、完成まで20年の歳月が費やされた。その間、直継は病弱で大坂の陣に参陣できず、そのため15年(元和(げんな)1)に直勝(なおかつ)と名を改め、上野国安中(あんなか)藩に3万石を分知され移封(いほう)となった。代わって参陣し活躍した弟の直孝(なおたか)が藩主となり、2代は直継が抹消され、直孝とされた。直孝は徳川秀忠(ひでただ)、徳川家光(いえみつ)、徳川家綱(いえつな)と3代の将軍を補佐し、加増も繰り返されて、33年(寛永10)までに30万石となり、天領の城付米預かりとして5万石も付与され35万石の格式を得るに至った。この石高は譜代大名のなかでは最高である。以後、彦根藩井伊氏は幕末まで一度の転封(てんぽう)(国替(くにがえ))もなく16代が継続、そのうち5名の藩主が大老になるなど幕閣の中枢を占め続けた。15代藩主井伊直弼(なおすけ)は1858年(安政5)に大老に就任、勅許(ちょっきょ)を得ずに日米修好通商条約に調印、また攘夷派を弾圧した安政の大獄で反発を招き、60年(万延(まんえん)1)の桜田門外の変で水戸藩浪士らに暗殺された。戊辰(ぼしん)戦争では彦根藩は朝廷側につき、新政府軍に加わって各地を転戦した。71年の廃藩置県で彦根県となり、その後、長浜県、犬上県を経て、翌72年滋賀県に編入された。
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彦根藩
ひこねはん
江戸時代,近江国 (滋賀県) 彦根地方を領有した藩。慶長9 (1604) 年井伊直勝が居所を同国の佐和山から彦根へ移したことに始る (→佐和山藩 ) 。井伊氏は遠江国の豪族で,初めは今川氏に仕えていたが,天正3 (1575) 年直政の代に徳川家康に仕え,家康の関東入国とともに上野 (群馬県) 箕輪を領有した。さらに関ヶ原の戦いで大功をあげ,佐和山に 18万石で封じられた。直政の次の直勝が彦根に城を築いて彦根藩を立てたが,直勝は多病のため元和1 (1615) 年上野安中3万石を領していた弟直孝が襲封し,直勝は安中に3万石を分与されて分家した。直孝の代には 30万石となり,その後大老職を出し,譜代の雄藩となった。幕末,直弼 (なおすけ) が,安政5 (1858) 年大老に就任して日米修好通商条約を調印し,14代将軍に紀州の慶福 (よしとみ。のちの家茂) を決定させ,反対派を弾圧して安政の大獄を起すなど力をふるったが,同7年桜田門外で暗殺された。そのため文久2 (62) 年直憲 (なおのり) の代には 10万石を減封された。直憲は,明治維新の際,倒幕派について奥羽越列藩同盟軍を攻撃した。譜代,江戸城溜間詰。
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彦根藩
ひこねはん
近江国彦根(現,滋賀県彦根市)を城地とする譜代大藩。関ケ原の戦後,井伊直政が石田三成の居城であった佐和山18万石に入り,嫡子直勝(直継)のとき居城を彦根に移して成立。1615年(元和元)直勝は病弱を理由に上野国安中3万石に分与されて転出し,彦根藩15万石は弟直孝が継承。その後30万石となり,さらに幕府からの城米預り分を含めて格式35万石として扱われた。譜代の要として14人16代にわたり,大老就任者6人を出す。幕末の直弼(なおすけ)が桜田門外の変で横死したため,1862年(文久2)20万石に減封。特産物に長浜縮緬がある。18世紀のはじめ内分支藩(彦根新田藩)をおいたが,20年ほどで廃藩。1799年(寛政11)創設の藩校稽古館は,のち弘道館と改称。溜間詰の筆頭。廃藩後は彦根県となる。
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彦根藩
近江国、彦根地方(現:滋賀県彦根市)を領有した譜代藩。藩主は井伊氏。佐和山藩主、井伊直政の子、直勝が佐和山から居城を彦根に移して成立。歴代藩主では、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼が有名。彦根城は国宝。
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世界大百科事典(旧版)内の彦根藩の言及
【近江国】より
…85年(貞享2)の[膳所]城下町は戸数930戸,うち武家屋敷499戸,町家409戸である。 [彦根藩]井伊氏は大坂の陣後加増され,1633年(寛永10)に下野,武蔵のうち2万石を合わせ30万石,翌年城付預米5万石が付せられた。彦根城下は95年(元禄8)町数53町のうち39町を町家が占めた。…
【筋】より
…村名に郡と筋名を冠して地名を示すこともあるが,これは異なった系列を示す場合が多い。美濃国には各郡に筋名が見られ,近江の彦根藩では南・中・北の3筋があり,各筋ごとに筋奉行が交通・駅伝・衣食住・年貢収納などを管轄し,その下で代官が分担執務した。【村上 直】 また豊前の小倉藩では,藩内を企救(きく)・田川・京都(みやこ)・仲津・築城(ついき)・上毛(こうげ)の6郡に分け,各郡に郡奉行(こおりぶぎよう)が配置されていたが,郡奉行は筋奉行とも呼ばれていた。…
【大名屋敷】より
…そして参勤時には国元から藩主とともに江戸勤番の家臣が随従して来ていた。例えば彦根藩井伊家の場合,18世紀中ごろの史料によれば桜田上屋敷1万9685坪,赤坂中屋敷1万4175坪,千駄谷別邸17万4795坪,八丁堀蔵屋敷7277坪があり,1695年(元禄8)の史料によれば定府家臣1458人,勤番家臣1764人であった。大藩の場合にはなお多くの家臣団を擁し,広大かつ多数の屋敷をもっていた。…
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