前見庄
さきみのしよう
「吾妻鏡」の文治二年(一一八六)三月条の関東知行国内の院宮領以下諸庄の未済年貢の備進を督促させた記事の中に「雅楽頭済盆領 前見庄」とある。その位置については明確でないが、それ以前、天平宝字八年(七六四)当時に存在した前科郷(正倉院御物布袴墨書銘)の範囲とほぼ同じ範囲であろうと考えられ、高瀬川左岸の現北安曇郡池田町の南部から現東筑摩郡明科町の西部(旧七貴村東半と旧陸郷村南部)、生坂村西部(旧陸郷村北部と旧広津村東部)の犀川左岸に開けた郷村であるとみられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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