日本歴史地名大系 「北安曇郡」の解説 北安曇郡きたあずみぐん 面積:六三八・二九平方キロ小谷(おたり)村・白馬(はくば)村・美麻(みあさ)村・八坂(やさか)村・池田(いけだ)町・松川(まつかわ)村長野県の北西部に位置し、東部山地・中央低地・西部山地からなり、更に姫(ひめ)川・高瀬(たかせ)川・犀(さい)川の三流域に分けられる。東部山地は低山性の第三紀堆積岩を主体とし、中央低地は断層線によって東西両山地に接する第四紀の堆積岩・火成岩を主体とし、西部山地は高山性(後立山連峰とその前山)の中生代・古生代の堆積岩・火成岩を主体とする地勢に大別される。北安曇郡の地名は、古代から明治維新まで称せられた安曇郡の名に由来し、明治一二年(一八七九)、安曇郡が南北二郡に分割されてから生れた。〔原始〕集落は、縄文・弥生両時代を通じて、中央低地周縁に発達した扇状地面や東部山地に多く営まれていた。中でも縄文時代中期遺跡は、広く北安曇郡全域にわたって存在している。〔古代〕安曇の地名は、古代に、現南安曇郡から北安曇郡の南半地域にわたって安曇郡を建郡した安曇氏の栄えたことに由来するもので、安曇氏は綿津見之神を祖神として奉斎する氏族であろうとされているが、その定着の年次は明らかでない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by