加藤景員(読み)かとう・かげかず

朝日日本歴史人物事典 「加藤景員」の解説

加藤景員

生年生没年不詳
平安末期の武将。鎮守府将軍藤原利仁の子孫とも能因の子孫ともいうが,確証はない。加藤五と称す。父は加賀介景道。伊勢国(三重県)に住したが,同国において平家家人殺害,子の光員,景廉と共に東国に逃げた。伊豆国の豪族工藤氏をたより,嘉応年中(1169~71)には工藤氏に従って伊豆大島に配流されていた源為朝を討ったという。治承4(1180)年ふたりの子と共に源頼朝挙兵に参加,石橋山の戦で奮戦した。戦いは源氏方が大敗し,景員は箱根山中をさまよったすえに走湯山に入って出家した。元暦1(1184)年に伊賀平氏討伐を命じられているが,こののち数年で死去したらしい。

(本郷和人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤景員」の解説

加藤景員 かとう-かげかず

?-? 平安時代後期の武将。
加藤景道の子。治承(じしょう)4年(1180)源頼朝の伊豆(いず)挙兵に子の光員(みつかず),景廉(かげかど)とともにくわわるが,石橋山の戦いに敗れて出家した。その後も頼朝につかえ,元暦(げんりゃく)元年伊賀(いが)(三重県)の平氏の追討を命じられた。伊勢(いせ)(三重県)出身通称は加藤五。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の加藤景員の言及

【加藤景廉】より

…鎌倉前期の武士。景員の子。加藤次と称す。景員は伊勢国目代であったが,平氏との内紛により本領を去り,伊豆の狩野介茂光のもとに赴き,嘉応年中(1169‐71)勅を奉じて伊豆に拠った源為朝を討った。景廉は1180年(治承4)8月の源頼朝の挙兵に従い,山木判官兼隆を討ち,その後石橋山の戦に敗れて甲斐にのがれた。源平戦では84年(元暦1)源範頼の軍に属して西海に平氏を討った。89年(文治5)の奥州征伐では阿津賀志山の戦に功をたて,遠江国浅羽荘地頭職を恩賞として与えられた。…

※「加藤景員」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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