日本歴史地名大系 「北侍浜村」の解説 北侍浜村きたさむらいはまむら 岩手県:久慈市北侍浜村[現在地名]久慈市侍浜町(さむらいはまちよう)南侍浜村の北、高家(こうげ)川下流右岸の標高一五〇メートルの台地上に位置。浜街道が通り、東は海に面する。侍浜村の盛岡藩領分の通称で、正式に成立したのは幕末から明治初年にかけて。寛文四年(一六六四)いったんは八戸藩領に編入されるが、貞享二年(一六八五)白前(しろまえ)村とともに盛岡藩領七崎(ならさき)村(現青森県八戸市)の一部との替地が行われ、以来盛岡藩領となった。両藩の間では「侍浜・白前ハ浜辺ニ而七崎村より御所務金目多御座候由、此御差引毎年御金ニ而可被遣」との約束が交わされ、六両と砂金九分九厘九毛ずつを盛岡藩が支払うことになった(「覚」上杉家文書)。元禄十郡郷帳による〆高は田方一石余・畑方四四石余、当村へ下戸鎖(しもとくさり)村が入るとある。享保三年(一七一八)の検地名寄帳(久慈文書)によれば、御蔵入侍浜村三覚院二〇石余・覚右衛門八斗余。北(きた)野守であった久慈氏の保有地で、「邦内郷村志」では免諸税地として高二一石余。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数二三、うち本村一〇、枝村は外屋敷(そとやしき)三・桑畑(くわはた)六・上桑畑二・長崎(ながさき)一・菅(すげ)ノ沢(さわ)一。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by