八幡宮(読み)はちまんぐう

精選版 日本国語大辞典 「八幡宮」の意味・読み・例文・類語

はちまん‐ぐう【八幡宮】

〘名〙 八幡神をまつった神社。はちまん
十輪院内府記‐文明一三年(1481)三月二五日「於八幡宮、清和源氏義家以来事也」

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デジタル大辞泉 「八幡宮」の意味・読み・例文・類語

はちまん‐ぐう【八×幡宮】

八幡神を祭神とする神社の総称。

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日本歴史地名大系 「八幡宮」の解説

八幡宮
やわたぐう

[現在地名]国富町本庄 八幡

本庄ほんじよう川支流の深年ふかどし川左岸の小高い台地上にある。もと八幡神社と称し、平成八年(一九九六)八幡宮と改称。通称は本庄八幡宮。祭神は誉田別命・足仲彦命・気長足姫命、相殿に武内宿禰を祀る。旧郷社。天長八年(八三一)豊前宇佐宮の分霊を国富くどみ袖巻そでまきの峰に勧請して創建したと伝える。当社の由緒書によると、代々国司の信仰が厚く、天長年間に一町五段三〇代、承平七年(九三七)に三町四段四〇代を増し、天喜五年(一〇五七)には国司菅野朝臣の入部後、宇佐宮領の諸県庄新開発田七八町八段一〇代のうち一町五段一〇代が当社に寄せられ、二季祭饗料に充てられたという。さらに暦応元年(一三三八)八月、足利尊氏が将軍になると日向国の宗廟とされ、四町二段の田地が寄進された。貞和五年(一三四九)には領主伊東祐重(氏祐)が田畠二四町六段余を寄付するなど、貞和年中から天正年中(一五七三―九二)までに神領田畠合せて三四町三段余となったという。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]高萩市安良川

台地上に巨木に囲まれてある。祭神は応神天皇・日女大神・神功皇后。旧県社。「松岡地理志」に「八幡大神」とあり、文明一一年(一四七九)の安良川八幡宮神主衆徒等申状写(安良川八幡神社文書)には「安良川八幡宮」とみえる。創立は「松岡地理志」に

<資料は省略されています>

とある。これは浜の宮はまのみやといわれる。永承六年(一〇五一)源頼義・義家父子は奥州征討の途上で浜の宮に凶徒誅戮を祈願、また後三年の役に追討を果した義家は寛治年間(一〇八七―九四)帰陣の途上白河二所の関しらかわにしよのせき(現福島県白河市)で、多賀郡の守護宇佐美左衛門時景に再建を命じ、社領二〇〇町を寄進、多賀郡三三郷の総一社とし、時景はこれを受けて今の社地に移し建立したと伝える(松岡地理志)

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]三条市八幡町

八幡小路の奥まったところにある。祭神誉田別尊・気長足姫命・比売大神。旧郷社。三条町続明細書(寛政七年、田中平吉家蔵)は、仁和元年(八八五)山城石清水いわしみず八幡より大槻おおつき庄に勧請、伊加良志いからし神社と称し、また保元年中(一一五六―五九)三条右大臣定方の子孫三条殿内が当地に下向、神職となり三条を地名としたという伝えを記す。また宝永二年(一七〇五)の三条八幡社記(同明細書所載)は、源義家が当社に祈願して安倍貞任の与党黒鳥兵衛を討ったという話を記し、のち三条左衛門定明が一〇〇石を寄進、以後代々の三条城主の崇敬厚く、もと城町じようまち渡の前(現瑞雲橋付近)に鎮座していたのを市橋氏のとき現在地に遷されたという。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]八戸市河原木 小田

馬淵まべち川左岸の丘陵地の山脚に位置する。祭神は応神天皇で、旧村社。明治初年まで毘沙門びしやもん堂と称したが、廃仏毀釈により毘沙門天像を廃して、現社名に改めた。

雑書の寛永二一年(一六四四)九月一〇日条に「八戸小田毘沙門堂当月朔日之晩、同二日・七日両朝殊外鳴動し御神体恒ハ南向ニ御立之処ニ此時西向ニ御成由」とみえる。寛文五年(一六六五)の無量院の御立願状(常泉院文書)に「一小田ノ毘沙門 戸張一流納事」とある。縁起によれば天喜年中(一〇五三―五八)源頼義が当地を平定した時たか館を築き、その鎮守として当社を建立したが、のち同館に潜居した源義経が毘沙門天像を彫刻し、その胎中に八幡宮本尊を納めたといい、以来毘沙門堂として祀られるようになったものという(新撰陸奥国誌、八戸郷土誌)

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]南部町小向 八幡

小向こむかいの東南、馬淵まべち川と猿辺さるべ川の合流地の北に位置する。祭神は誉田別命で、旧村社。本三戸もとさんのへ八幡宮とも称する。

雑書の慶安元年(一六四八)八月一〇日条に「三戸八幡御神事、同御名代御初尾壱貫文右同人ニ渡ス」とあり、南部氏の旧地の八幡宮として崇敬を集めていた。宝暦(一七五一―六四)頃の御領分社堂には「承久二年自甲州奉遷幸也、御代々御上御建立にて御修復等も被仰付来候」とみえ、別当は修験花厳院で、三戸年行事威徳院の配下に属した。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]大田市大田町大田

諏訪すわに鎮座する。みなみ八幡宮と称され、誉田別命・気長足姫命・武内宿禰を主祭神とし、健御名方命を配祀する。旧県社。鎌倉鶴岡八幡宮を勧請、承久年間(一二一九―二二)に小笠原弾正が社殿を造営したという。小笠原氏は鎌倉時代以降邑智おおち川本かわもと(現川本町)に本拠をおいた在地領主であるが、一四世紀終り頃から一族が安濃あの河合かわい郷・吉永よしなが郷の地頭に補任され、それ以降当宮のある大田南郷にも勢力を拡大したと考えられている。社伝によれば、永禄一〇年(一五六七)に小笠原長実が社殿を造営、元亀年間(一五七〇―七三)には毛利輝元が社領三石六斗を寄進、宝物である門客神一対は永禄五年に毛利元就が奉納したものという。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]足利市八幡町

八幡山南西麓に南面して鎮座する。祭神は誉田別命・大帯姫命・姫大神。大永三年(一五二三)八月一五日の足利庄八幡宮勧進状(八幡宮文書)によると、天喜年間(一〇五三―五八)源義家が奥州征討の際に勧請したという。社伝では天喜四年に義家が堀込ほりごめの字大将陣たいしようじんの地に陣営を張り、戦勝祈願のため山城石清水いわしみず八幡宮を現在地に遷座し、一国一社八幡宮と称した。康平年間(一〇五八―六五)凱旋の際、義家は自ら兵器を納め、子の義国も甲冑二領を献じ、神田を寄進したという。以後、源姓足利氏の産土神として尊崇された。

八幡宮
さかきはちまんぐう

[現在地名]由宇町大字由宇 南町

由宇川の河口の南に位置する八幡山に鎮座。祭神は神功皇后・応神天皇・仁徳天皇・仲哀天皇ほか不詳の一座。旧郷社。

勧請年月は不明であるが、「玖珂郡志」の増補に「玖珂郡由宇庄八幡宮社領諸神田之事、祇園大宮司兵部少輔時重、従前之相拘分無相違被仰付候処、当郷中倉刀禰藤次郎、為壱人令違乱候由、時重言上候」で始まる年号不詳文書を載せる。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]斐川町上直江

上直江かみなおえの南に位置する。誉田別皇命・足仲津彦命・息長足姫命を祭神とし、旧村社。建久二年(一一九一)地頭相津兵部少輔が豊前宇佐宮より漆治しつじ郷の惣社として勧請し、元宮は土井どい(JR直江駅北東)にあったが、永禄年間(一五五八―七〇)兵火にかかり、慶安二年(一六四九)現在地に移したという(伊波野村誌)。「雲陽誌」によると一〇月二日に神事を始め、一四日まで数多の祭礼を勤め、一五日巳の刻黒飯・白餅・神酒を献じて神楽を奏す。午の刻遥宮にて獅子舞・流鏑馬・七座の神事があり、一六日榊上平賀の神事という頭人斎祝成就の神楽があるという。境内に大国主命を祀る日吉神社がある。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]常陸太田市馬場町

町の北端に位置し、街道の突当りの森の中に鎮座。祭神は息長足比売命・誉田別命・比大神。旧村社。馬場ばば八幡宮ともよぶ。

由緒によると天喜四年(一〇五六)源頼義が陸奥出兵の途次、熊野社の境内に陣を張り、社前に大石二個を置いて石清水八幡大神を祀り戦勝を祈願したが、康平三年(一〇六〇)熊野社を東側に移し、そのあとへ八幡神社を祀った。次いで永保三年(一〇八三)源義家と新羅三郎義光は陸奥出兵のとき武運長久を祈願、寛治三年(一〇八九)義家は社頭に松を植樹、同六年義家と義光は凱旋のとき武器を奉納したという。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]北野町赤司

陣屋じんや川に注ぐ池田いけだ川右岸、城小路じようこじに鎮座。法人名は八幡神社。旧村社。延長二年(九二四)応神天皇・武内宿禰・住吉大神の三座に豊比神を相殿に御井みい郡惣廟として創建されたという。はじめ筑紫中津つくしなかつ宮とよばれ、のち豊比とよひめ神社になったと伝える(「止誉比神社本跡縁記」宮崎家蔵)。「延喜式」神名帳に記す御井郡の同名社に比定する説がある。草野氏(草野大将様という)が山城石清水いわしみず八幡宮から分霊を勧請して八幡宮と称されるようになり、社領一八町を寄進したという。代々の草野氏や草野氏一族赤司氏の崇敬をうけた。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]金井町新保 宮の下

国道三五〇号の運動公園前停留場の近くの字宮の下みやのしたにある。祭神は応神天皇・神功皇后・武内宿禰。新保しんぼ西方にしがた大和田おわだの鎮守。別当は長福ちようふく(現在の大慶寺)がつとめた。「佐渡国寺社境内案内帳」の大慶寺の項には、御神体は河内国の誉田八幡宮社地の砂で、これを入れた箱には寛永二年(一六二五)の紀銘で当社社僧快照の名が記されると伝える。この箱を納めた壇の上にはかつて甲冑をつけた将軍地蔵の木像が安置されていたといい、金北山信仰とのかかわりを示す。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]青森市宮田 山下

宮田みやた集落の東、山下やましたにあり、誉田別命と大山祇神を祭神とし、流造の本殿と入母屋造の拝殿・幣殿があり、境内地二千三二坪を有する(青森市史)。貞享四年(一六八七)の検地帳に一六間に七間の「宮建有之」八幡社地が記される。菅江真澄は「すみかの山」の寛政八年(一七九六)四月二〇日に次のように記した。

<資料は省略されています>

安政二年(一八五五)の神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)は、宮支配修験社家として承応元年(一六五二)に再建されたとする。「新撰陸奥国誌」によれば、草創年代不詳だが、もとは宮田村の東南東にあり、同年再建の時に遷座したのであろうとし、万治三年(一六六〇)村中にて再建とする。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]金木町金木 朝日山

金木集落の西部にある。祭神は誉田別尊だが、神明宮・愛宕宮・不動宮・惣染堂・稲荷宮の祭神である天照大神・素盞嗚命・軻遇突智命・倉稲魂命をも合祀する。旧郷社。祭日は祈年祭四月八日、例祭五月一八日、新嘗祭一二月一日だが、安政二年(一八五五)の神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)では四月一五日・六月一〇日・九月一五日に神楽奉納とある。

同書上帳によると、建立年代不詳で、大永年中(一五二一―二八)北畠家により再建、天正年間(一五七三―九二)「津軽藩祖為信怨敵退散之重キ御祈祷被仰付」とある。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]堀之内町堀之内 百代

国道一七号沿いにある。祭神八幡大神・股倉神・天満天神。明治初年までは八幡社・股倉またぐら社・天神社の三社であった。三社さんじや宮・藪上やぶかみ神社とも称する。「北越雪譜」では宇賀地うがち社と称する。八幡社はもと魚野うおの川対岸の根小屋ねごやにあり、正平四年(一三四九)の勧請という。慶安年中(一六四八―五二)の大洪水で移転し、さらに国道開通の際に現在地へ移った。股倉社ももとは川の対岸にあり、寿永(一一八二―八四)の頃の創建という。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]岡崎市六供町 甲越

かぶと山の南面中腹、甲山こうざん寺の北裏高台にあり、六供ろつく八幡宮と通称する。祭神は応神天皇・伊勢大神・菅原道真。岡崎十二社の一つ。旧村社。もとは安祥あんしよう城内に松平四代親忠が鎮守として勧請した。その後七代清康が岡崎城に移り、享禄三年(一五三〇)城内本丸に祀ったので、本丸を八幡曲輪とも称した。家康が城の鬼門にあたる現在地に移し、以後甲山寺の支配に属する。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]大栄町西高尾

西高尾にしたかお集落の東方に位置する。旧郷社で、祭神は誉田別尊・帯中津彦命・気長足姫命など九神。元慶八年(八八四)山城石清水いわしみず八幡宮からの勧請と伝える。江戸時代、上種かみだね・下種・東高尾・西高尾一帯は「種ノ郷」に属しており(享保一九年の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」)、社伝に「石清水八幡宮別宮種八幡宮」とあることから、石清水八幡宮の別宮であった種別宮を引継いだものとされる。種別宮の名は保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)に石清水八幡宮別当寺の極楽寺領の一つとして載るほか、元暦二年(一一八五)正月九日付で八幡宮寺に対する平家追討軍の押妨を停止した源頼朝下文案(同文書)にも同宮寺領の一つとして山田やまだ別宮(現北条町)などとともにその名がみえる。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]藤崎町西中野目

集落の東にある。祭神誉田別尊。旧村社。貞享四年(一六八七)の検地帳に観音堂地とある。神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)によれば、延暦年間(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が創立した一〇八社の一つで、古館ふるだて(現北津軽郡板柳町館野越)上俵升かみたわらます中野目なかのめの境にあり、正観音が祀られ、館野越たてのこし滝井たきい(現板柳町)、上俵升・下俵升・柏木堰かしわぎぜき・中野目・西中野目にしなかのめ亀岡かめおか吉向よしむかい五林ごりんの一〇ヵ村の産土神であった。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]塩田町大字久間字中通

虚空蔵こくぞう(二八七・九メートル)の南東山麓にある。旧村社。社伝によると建久元年(一一九〇)八月一五日相模の鶴岡つるがおか八幡宮の分霊を勧請したといい、祭神は応神天皇・迦具土神と平維盛である。

この地方には平維盛伝説が多く、下久間しもくま維盛これもり社があり、維盛が休養したと伝える所に立烏帽子たてえぼしの地名が存し、現光武みつたけには維盛が落人となって牛に乗ってきた時にその牛が倒れたので祀ったと伝える牛石社がある。

鳥居は蓮池はすのいけ藩祖鍋島直澄が寛文六年(一六六六)に寄進した肥前鳥居。右柱には「大檀那鍋島直澄並直久」以下重臣の名が連ねられ、左柱には「福泉寺並宮司明学坊林勝」以下の人名が記してある。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]中里町深郷田 富森

深郷田ふこうだ集落の北端台地上にある。祭神誉田別尊、旧郷社。祭日は祈年祭四月七日、例祭五月一日。

安政二年(一八五五)の神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)によれば「右建立年月不詳候得共往昔中里村領袴腰峯ニ鎮座候由同組中里村宮野沢村深郷田村草創之節信仰仕深郷田村引移申候数百年之儀ニ付年月不詳天正七年再建古来より右三ケ村産神御座候間破損等之節三ケ村ニ再建仕来候」とあり、また「御棟札 寛永五年八月」とあることから、藩政以前の勧請と思われるが不詳。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]前橋市本町二丁目

旧城下町の中央南側にあり、西向きの社殿から西の旧連雀れんじやく町通へ参道が通じる。現在神域は八幡宮公園になっている。文政四年(一八二一)の前橋町絵図(勝山氏蔵)では社殿の北西に神宮寺(別当最勝院)が描かれている。祭神品陀和気命。旧県社。貞観元年(八五九)の創建と伝える。社殿は古墳の墳丘上に営まれたと思われる。「直泰夜話」に「連雀の八幡宮も元は右の林に有し也、依て八幡林と申候」とあり、もとは現在の文京ぶんきよう町一丁目辺りの林中にあったという。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]沼田市戸鹿野町

戸鹿野とがの町の南方段丘崖の中腹にあり、拝殿に向かう石段西側の石垣はみごとな亀甲積みである。一般に戸鹿野八幡宮とよぶ。沼田顕泰が沼田城築城に際し後閑ごかん(現利根郡月夜野町)の八幡宮を勧請し城の南方鎮守としたと伝えるが、「加沢記」によれば、建立の地は戸鹿野神応じんのう寺の跡といい、文明年中(一四六九―八七)に顕泰の先主長忠が由良国繁により倉内くらうち城で包囲されたとき後閑の八幡宮の神力により、神応寺辺りで敵を破って窮地を脱したのにちなんだとされる。同書によれば天正六年(一五七八)北条氏家臣猪股邦憲・塀賀盛助はそれぞれ一八貫文分・一貫五〇〇文分の地を当八幡宮に寄進している。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]佐井村佐井 八幡堂

古佐井こざい川と大佐井おおざい川に挟まれた丘陵地の北麓に位置する。祭神は誉田別命で、旧郷社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に「八幡宮 二間半四面かやふき」とあり、別当は修験自性院とされる。社伝によれば宝永二年(一七〇五)四代藩主南部重信により勧請されたというが、同書ではかつて堂があったといわれる砂浜から村人が神体を見付け、同五年に開帳して再興を図ったと伝える。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には別当大昌院とみえ、「重信公延宝年中什物御造営」とある。

延享元年(一七四四)の御領中産物(篤焉家訓)に「矢ノ根石 田名部佐井八幡又花牧より出ツ」とあり、箭根やのね八幡宮・矢ノ根森やのねもり八幡宮とも称される。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]軽米町軽米

軽米町の中心街北端の下新しもしん町にあり、西側を国道三四〇号が通る。独立丘陵に立地し、東側は崖となっている。旧村社。境内は約五千坪で、九戸郡では最も広い。現在地には大正三年(一九一四)に移り、もとは馬場野ばばのにあった。祭神は品陀別尊で、永禄年間(一五五八―七〇)の勧請と伝えられる。箕の輪は南側の沢と旧九戸街道を挟んで軽米館と隣接していた。勧請者は当地の領主軽米氏とされる。別当は修験の松本院。軽米氏滅亡後、当地を知行した北九兵衛は寛永一四年(一六三七)に社殿を建立し、軽米の産土神として崇敬された。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]十和田市滝沢 中渡

滝沢たきさわ(後藤川)沿いの中渡なかわたりにあり、祭神は誉田別尊。例祭は九月一五日。大守南部実光(光行の子)が承久二年(一二二〇)家臣対馬平治郎某に命じて甲斐国より遷座したものと伝える。正徳五年(一七一五)の陸奥南部糠部郡滝沢中渡正八幡宮縁起(滝沢家文書)によれば南部氏草創の霊社で、南部氏の先祖が甲斐よりこの地に来た際、その臣滝沢某が甲斐より神形を勧請し、滝沢中渡に小社を建てて安置したという。のち社を櫛引くしひき(現八戸市)に分封遷座し、旧跡に滝沢三郎義昌が新たに小社を創建し神躯を安置したともいう。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]六日町八幡 日越

八幡やわたの集落の西、字日越ひごしにある。境内八九二坪、老杉鬱蒼として清流が環流する。祭神大国主命・猿田彦命。社伝によれば、崇神天皇の代に神祠が造られ、三狭志摩みさしま(美佐島)の地を社領としたという(南魚沼郡誌)。縁起では天仁二年(一一〇九)越後平太正綱の勧請とする(新編会津風土記)。慶長三年(一五九八)堀直政より神領一〇石の寄進を受け、同一〇年には堀直寄より神領四〇石とされた。社宝に文安五年(一四四八)八月紀銘で平朝臣氏国銘の太刀があるという(同書)

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]新町 一区

温井ぬくい川右岸、旧中山道の南に鎮座する。祭神は誉田別尊。旧村社。創建年代は未詳であるが、からす川対岸の玉村たまむら八幡宮(現佐波郡玉村町)が創建された建久六年(一一九五)と同時期と伝える(新町沿革史)。棟札から現社殿は元禄四年(一六九一)の再建が知られるが、鎌倉期の建築様式がみられる。祭神木像にも同年の銘がある。享和二年(一八〇二)の祭礼規定(内田文書)によると、寛政五年(一七九三)一月二五日の新町宿内火災に際し、神輿も焼失、享和元年氏子によって新たに建立されたのを機会に三町が隔年で置くなどの神輿の管理や練回る順序などを定めている。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]長岡市千手二丁目

祭神は誉田別命、建御名方命を合祀。長岡城主牧野家の先祖が三河国在住のとき牛久保うしくぼ(現愛知県豊川市)に創立し、上野国大胡おおご(現群馬県勢多郡大胡町)に移封の際城内に祀り、元和四年(一六一八)長岡へ移封の節もこれを勧請して城内に祀った。元禄年中(一六八八―一七〇四)千手高見せんじゆたかみの地を神域と定めて社殿を建立。黒印地七〇石を付与され、すべて祭儀は牧野家で執行したと伝えるが、正保年間(一六四四―四八)の長岡城之図(国立公文書館蔵)にすでに千手町の西に八幡宮が描かれている。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]大畑町大畑 南町

みなみ町の西に位置する。祭神は応神天皇で、旧郷社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に「正一位八幡宮(中略)由緒不相知、寛保元年御宮拝殿共ニ焼失、同三年ニ当別当拝殿斗再興仕候」とあり、別当は修験大行院に付せられていた。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には「八幡宮 鎮守八月十五日」とある。所伝によれば大畑村開村の頃は八幡山なる所にあったが、慶安元年(一六四八)現社地に移された(新撰陸奥国誌)

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]豊川市八幡町 本郷

祭神は、中座に田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命の三女神、西座に応神天皇、東座に神功皇后を祀る。白鳳年中に宇佐うさ八幡より勧請という。国守在任の頃は同庁の祭典のことをつかさどったとも伝えるが、国分寺に近く、同寺鎮護の神社とされる。三河国内神名帳の筆頭に、八幡三所大菩薩大明神とある。

大永五年(一五二五)六月二一日の牧野田三信成の寄進状(八幡宮蔵)によると、八幡郷内において二〇貫文の地が寄進された。その後牧野成敏・成勝・儀秀から社領の寄進が行われている。天文二三年(一五五四)九月二〇日には、今川義元から安堵状(八幡宮蔵)が寄せられている。永禄五年(一五六二)三月七日の今川氏真安堵状(八幡宮蔵)には「一、八幡神領同広石并岡一色神領等之事 一、光久同設楽経田之事」などとある。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]岩木町一町田 早稲田

早稲田わせだ集落の東にある。祭神は誉田別命(応神天皇)で、旧村社。深山しんざん八幡宮とも称する。元来二本木にほんぎにあったが、明治四年(一八七一)神仏分離によって兼平かねひらの天満宮に移され、同六年深山のもと深山宮と合して復社した。深山宮は永正元年(一五〇四)の建立と伝え、当時は羽黒山海沢寺と称した。明治四年いったん兼平の天満宮に移る。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]佐和田町八幡 鳩ヶ森

砂丘の上にあり、西・北・東を砂丘に囲まれる。「佐渡神社誌」によれば、祭神は誉田別尊・息長帯姫尊・姫大神。世阿弥の「金島集」に「八幡宮」とみえる。八幡宮古事来歴帳(八幡宮蔵)所収の正応二年(一二八九)一二月二二日別当僧某補任状によれば「八幡宮若宮殿権殿内職」に国包を補任している。同来歴帳所収の寛永五年(一六二八)の佐渡奉行竹村九郎右衛門印判状に「八幡村領 金丸橋下、川直ニ御掘替被成候」などとあり、かつて八幡やはた村一円を神領としていたが、上杉氏の治下に没収となった。しかし今度、国府こうの川を直線に掘替えたことによって生じた古川と新川との間の中島を社領としたい旨申請。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]碇ヶ関村古懸 門前

古懸こがけ集落北の門前もんぜんにあり、祭神は誉田別尊、旧村社。「新撰陸奥国誌」によれば、敏達天皇の代に津軽の入海を十三とさ(現北津軽郡市浦村)まで開いた時、大津波から守った霊験があったことから創立され、不寄浪なみよせず八幡宮と称し、延暦年間(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が「八幡宮の神像」を彫刻し、神体が三躯になったという。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]水戸市八幡町

八幡町の中央、那珂川を見下ろす台地上の杉木立の中に鎮座。祭神は誉田別命・息長足日売尊・姫大神。旧県社。

文禄元年(一五九二)佐竹義宣が太田(現常陸太田市)より城西の八幡小路(現北見町)へ分祀、元禄七年(一六九四)徳川光圀の命で上那珂西かみなかさい(現東茨城郡常北町)へ遷祀、宝永四年(一七〇七)(「水府地名考」は同二年、「新編常陸国誌」は同三年)現在地へ遷座した。朱印地三〇〇石、例祭(四月一五日)のほか、田植祭(旧暦六月七日)・流鏑馬(旧暦八月一五日、一六日)が行われ、境内社一五社がある。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]花巻市大畑

大畑おおはたの西部金比羅こんぴら山にあり、祭神は誉田別大神・大国主大神・宇迦御魂大神。旧村社。「湯本村誌」などによれば前九年の役で源義家は当地に布陣し、白羽の矢を残した。里民はこの矢を祀り一宇を建立、これが当社の始まりという。弘治年中(一五五五―五八)大畑城を築いた中山官平が境内地を寄進、社殿を造営して祭日には供進米を寄せたという。旧地は南方の畑地であったが、大正一三年(一九二四)金比羅神の石碑があったと伝える現在地に移転、同神が合祀された。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]安来市赤江町

赤江あかえ町の宮中川みやなかがわ町にある。通称赤江八幡宮。祭神品陀和気命・帯中津彦命・息長足姫命。旧郷社。創建は康永三年(一三四四)もしくは正平八年(一三五三)と伝え、康永三年一二月二〇日の僧寂心知行充行状写と正平八年一一月一五日の赤江庄八幡宮神主職補任状写が伝存する。永禄一二年(一五六九)七月二五日の天野隆重・新藤就勝連署状写(富田八幡宮文書)によると赤江八幡の横屋職(神主職)が某に与えられている(宛名を欠くため誰に与えられたかは不明)。同年九月二七日の天野隆重書状(竹屋文書)で曾我余三郎に赤江八幡鑰取職の斡旋を約束しており、同日隆重は赤江八幡横屋職を田辺源大夫に与えている(「天野隆重書状」同文書)

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]一戸町一戸

小井田こいだに鎮座し、祭神誉田別命。旧村社。源義家の勧請と伝える。「邦内郷村志」は楢山ならやま村の越田こえだにあるとし、社領一〇石があり、宝物として弓一張・三本折矢七本・鉄仏四体を記す。また社の入口に奇石があり、慶長年中(一五九六―一六一五)盛岡藩主南部利直が波打なみうち山を過ぎ越田橋にさしかかったとき馬が進まず、不審に思い橋の下を探索させたところ一奇石があった。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]五戸町 根岸

五戸町の中心市街地の北、五戸川左岸の山麓に位置する。祭神は誉田別命。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に八幡宮とあり、別当は修験実法院で、五戸年行事多門院の支配下にあった。永正四年(一五〇七)木村氏が轟木とどろき(現八戸市市川町)から勧請したものと伝え、当初は下根岸しもねぎし(現銀杏木)にあったが、のち現在地に移転したとされる(「五戸月山八幡宮建立」五戸町誌、「八幡宮縁起」新撰陸奥国誌)

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]金木町嘉瀬 萩元

嘉瀬かせ集落北西部の萩元はぎもとにあり、祭神は誉田別命、旧村社。祭日は祈年祭四月一〇日、例祭五月五日、新嘗祭一一月二九日。安政二年(一八五五)の神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)では四月五日神楽執行、九月五日祈祷執行とある。

同書上帳に「建立年月不詳寛文二年再建」とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に除地として「八幡社地五間 三間拾五歩宮建有之 神太夫抱 境内林七拾四間 四拾壱間壱町壱畝四歩」とある。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]葛巻町葛巻 田子

国道二八一号の南側、八幡山の山頂付近に位置し、山の南側を馬淵まべち川が流れる。祭神誉田和気命、旧村社。寛文二年(一六六二)の勧請という(管轄地誌)。かつて嘉慶二年(一三八八)銘の「奥州津軽中鼻白山宝殿鰐口」と記された鰐口が奉納されていたという。近世には大麻たいま八幡宮と号し、「御勘定所日記」寛政五年(一七九三)一一月一二日条に「再興仕度」とみえる。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]五泉市宮町

みや町の南部に位置する。祭神は息長足比売尊・誉田和気尊・湍津比売命・市杵島比売命・田心比売命。旧村社。創立年代は不詳であるが、口碑によれば元慶年中(八七七―八八五)藤原保則が出羽の凶賊姉羽熊丸を討伐の後、山城石清水いわしみず八幡宮を勧請したのが始まりで、永禄年中(一五五八―七〇)に五泉城主甘糟備後守が再建という(五泉郷土史)

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]藤崎町藤崎

集落南東の四本松しほんまつにあり、境内の南と東側は土塁で囲まれ、東の土塁の外側を枝川鶴田えだがわつるた堰、西は三千石さんぜんごく堰が流れる。祭神誉田別尊。旧村社。

貞享四年(一六八七)の検地帳に八幡社地とある。永保二年(一〇八二)安倍貞任の次男高星丸が藤崎に築城(藤崎城誌)、その外郭に城内鎮守として祀ったとする(「神社微細社司由緒調書上帳」最勝院蔵)

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]石鳥谷町新堀

北上川に近い明戸あくとにあり、明戸の八幡さんと通称される。祭神品陀和気命・伊弉諾命・伊弉冊命。旧村社。「邦内郷村志」に長島ながしま八幡とあり、かつてこの地の民は胆沢いさわ八幡(現胆沢郡衣川村)を崇敬してきたが、文治五年(一一八九)以後胆沢郡が葛西氏領となり、和賀郡・稗貫郡と領主が異なったため、胆沢八幡より分霊し、長島(のちの新堀)に社祠を建立した。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]木造町館岡

館岡たておか村の南端にある。祭神は誉田別命、旧村社。神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)によれば、延宝七年(一六七九)再建とあるが、「西津軽郡史」では創立。貞享四年(一六八七)の検地帳には八幡社地一反六畝二〇歩とみえる。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]五所川原市飯詰 福泉

飯詰いいづめ集落の中ほどにあり、祭神は誉田別尊・天照皇大神・軻遇突智神。旧郷社。貞享四年(一六八七)の検地帳に八幡社地が二ヵ所と愛宕堂地がある。「飯詰村史」は弘治元年(一五五五)大房村の館主樺沢国右衛門、または飯詰高楯いいづめたかだて城主朝日左衛門尉行安の創立とし、寛保年間(一七四一―四四)大房村民が飯詰村へ移ると、宝暦元年(一七五一)愛宕宮境内へ遷宮、安永三年(一七七四)飯詰組の祈願所とされ、天保一五年(一八四四)護穀神堂へ移り、明治三年(一八七〇)愛宕宮へ合祀、翌年愛宕宮を八幡宮と改称したとする。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]川内町川内 川内

川内川の河口左岸に位置する。祭神は誉田別尊で、旧郷社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に修験瑞宝院持の八幡宮が二社みえ、一社は破損し社地のみとされる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には「八幡宮 鎮守在市中」とある。元亀二年(一五七一)の勧請と伝え、かつては川内村の旧地にあったが、延宝三年(一六七五)に移転し、「古村に鎮座の比は石像なりしか、氏子木像を納め(中略)今石木二躯あり」(新撰陸奥国誌)という。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]脇野沢村脇野沢 桂沢

脇野沢集落の北端の高台に位置する。祭神は誉田別命で、旧村社。寛永元年(一六二四)の勧請と伝え、かつては岩清水千手観音を安置していたが、明治初年の廃仏毀釈により現社名に改めたものという。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に観音堂がみえ、別当は修験常法院とされる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には「観音堂 鎮守祭礼七月十七日 村中入口東在山下」とある。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]西根町平館 本平

平館たいらだて城跡のあるたて山西麓に位置し、祭神誉田別命・息長帯姫命・比売神、旧郷社。延暦一七年(七九八)坂上田村麻呂が創建したとも、また康平年間(一〇五八―六五)源義家が安倍頼時誅伐を祈って勧請したともいわれ、寛文年間(一六六一―七三)盛岡藩主南部重直が一〇石の社領を寄進したという。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]野辺地町 笹館

野辺地町の中心街の西北、通称八幡町の南端に位置する。祭神は応神天皇で旧郷社。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に八幡社とみえ、千曳ちびき(現天間林村)の別当喬岩坊が八幡別当を兼任したとある。明治初年の「新撰陸奥国誌」には「旧南部大膳亮利幹公正徳四年惣氏子中別当善行院と注せる棟札ありしと云ふ。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]平賀町新屋 栄館

新屋あらや集落南東端栄館さかえだてにあり、祭神は誉田別命。旧郷社。社伝によれば、浪岡北畠氏が三ヵ所に勧請した八幡宮のうちの一社で、文禄四年(一五九五)津軽為信再修、寛永一九年(一六四二)三代藩主津軽信義が祈願所とし、社領一八石余を寄進したという(新撰陸奥国誌)

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]五戸町浅水 浅水

浅水あさみずの北の山地に位置する。祭神は応神天皇で、旧村社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に八幡社とみえ、俗別当三太郎とあるが、弘化―嘉永(一八四四―五四)の頃の神職面付(釜石市誌)では別当は修験界蔵院で、五戸年行事多門院の支配下にあった。

八幡宮
はちまんぐう

[現在地名]青森市浅虫 山下

山下やましたにあり、祭神誉田別尊。旧村社。弘安五年(一二八二)に勧請され修験社家支配であったという。延暦二年(七八三)諏訪十郎義国が建立したともいう(青森市史)。「新撰陸奥国誌」は建久年間(一一九〇―九九)の建立とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「八幡宮」の意味・わかりやすい解説

八幡宮
はちまんぐう

八幡神を祀(まつ)る神社。八幡神は奈良時代には第15代応神(おうじん)天皇(誉田(ほんだ)皇子)に比定され、その本宮は大分県宇佐(うさ)市鎮座の宇佐神宮である。この神宮に祀る八幡神が中央に進出するのは、東大寺大仏鋳造に神助を与えて入京したこと、法師道鏡(どうきょう)の専横を託宣によって排除したことなどで、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立された。やがて八幡神に菩薩(ぼさつ)号が授けられ、これまでの神仏習合形態はいっそう進められた。859年(貞観1)その分霊は山城(やましろ)国(京都府)男山(おとこやま)に勧請(かんじょう)されて石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が創祀(そうし)されると、八幡神は王城鎮護、勇武の神として朝野の尊崇を集め、八幡信仰は急速に広まり、やがて伊勢(いせ)の神宮と石清水八幡宮は「二所宗廟(にしょのそうびょう)」と称せられた。その後、武家政権の成立、鶴岡(つるがおか)八幡宮の創祀とともに、武人の守護神としての八幡信仰が普及し、全国各地に八幡神が勧請され、八幡宮が創設された。

[二宮正彦]

『宮地直一著『八幡宮の研究』(1956・理想社)』『中野幡能著『八幡信仰史の研究』上下(増補版・1975・吉川弘文館)』


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改訂新版 世界大百科事典 「八幡宮」の意味・わかりやすい解説

八幡宮 (はちまんぐう)

八幡神(はちまんじん)/(やはたのかみ)をまつる神社。数の多い神社の一つであるが,起源はおよそ宇佐八幡宮にある。しかし,その八幡神の語源・語意については諸説があり,なお研究の余地がある。奈良前期にすでに宇佐と筥崎(はこざき)宮の両八幡宮が有力社として存在し,宇佐では巫女大神(おおが)氏一族が神託をつげることで知られ,大仏鋳造に功があった。八幡神は早くより誉田別(ほんだわけ)尊(応神天皇)との説が出され,現在誉田別尊を中心に,比売大神,気長足姫(おきながたらしひめ)命(神功皇后),あるいは応神天皇・仲哀天皇・神功皇后のごとく三神をまつるのが通例。859年(貞観1)山城の男山に勧請されてより(石清水八幡宮),朝野のあつい崇敬をうけ,また源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮を崇敬してより,武家からさらに庶民一般にも信仰され,全国にひろく勧請された。
宇佐神宮 →八幡信仰
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百科事典マイペディア 「八幡宮」の意味・わかりやすい解説

八幡宮【はちまんぐう】

八幡神をまつった神社。八幡神は菩薩号を付して八幡大菩薩と呼ぶこともある。八幡神を彦火火出見(ひこほほでみ)尊とする説もあるが,普通は応神天皇,比売(ひめ)神,神功皇后の3神とする。八幡神がまつられたのは,欽明朝(奈良時代とも)の宇佐神宮が初めで,次いで859年清和天皇が石清水(いわしみず)八幡宮に分霊。諸源氏の氏神として尊崇された。源頼義が石清水八幡宮から分祀し,源頼朝が今の地に鶴岡八幡宮を移して以後,全国の武士・庶民の間に分社・末社が広まった。神仏習合による信仰が古く,本地(ほんじ)を阿弥陀仏とする例が多い。また武神としても信仰され,社殿は八幡造が通例。
→関連項目神社

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八幡宮」の意味・わかりやすい解説

八幡宮
はちまんぐう

応神天皇を主神とし,通例,ヒメガミ,神功皇后を配祀する神社の称号。やわたのみやともいう。弓矢の神として,武士を中心に古くから広く尊崇された。大分県の宇佐神宮を総本社とし,全国各地にある。

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世界大百科事典(旧版)内の八幡宮の言及

【宇佐神宮】より

…大分県宇佐市に鎮座。八幡宮,八幡大神宮,宇佐八幡宮,宇佐宮ともいう。旧官幣大社。…

※「八幡宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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