コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

盛岡藩 もりおかはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

盛岡藩
もりおかはん

南部藩ともいう。江戸時代,陸奥国岩手郡盛岡地方 (岩手県) を領有していた藩。藩主の南部氏は鎌倉時代以来の豪族で,天正年間 (1573~92) の信直を藩祖とする。第2代利直は関ヶ原の戦いで東軍に属して 10万石の所領を安堵され,第4代重信は寛文4 (1664) 年甥の直房に2万石を分与して支藩八戸 (はちのへ) 藩を興し,8万石となった。さらに天和3 (83) 年には領地拡大のため 10万石の分限となり,文化5 (1808) 年には第 11代利敬が松前警備のため高直しにより 20万石となった。文政2 (19) 年には支藩七戸 (しちのへ) 藩1万 1000石を創設。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍に加わったため 13万石に減封,廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

百科事典マイペディアの解説

盛岡藩【もりおかはん】

南部(なんぶ)藩とも。陸奥(むつ)国盛岡に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は南部氏。領知高は陸奥国三戸(さんのへ)・二戸など10郡で8万石〜20万石。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟に加担して破れた。
→関連項目郡上藩南部橋野高炉跡陸奥国

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

藩名・旧国名がわかる事典の解説

もりおかはん【盛岡藩】

江戸時代陸奥(むつ)国岩手郡盛岡(現、岩手県盛岡市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明義堂(めいぎどう)、のち作人館(さくじんかん)に改称。甲斐源氏の流れをくむ南部(なんぶ)氏は奥州(おうしゅう)藤原氏征討で功をあげ、三戸(さんのへ)に居城を構えた。その後、26代当主の南部信直(のぶなお)が豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐に参加、1590年(天正(てんしょう)18)に南部7郡を安堵(あんど)され立藩した。翌年さらに3郡を加増され、現在の岩手県中北部から青森県東部を治める10万石の領主となった。99年(慶長(けいちょう)4)には、前年から築城を始めていた岩手郡不来方(こずかた)に移って盛岡と改め、以後明治維新までここが南部氏の居城となり、16代まで続いた。1600年には徳川家康(とくがわいえやす)からも安堵された。64年(寛文(かんぶん)4)に相続をめぐって内紛が起き、介入した幕府は八戸(はちのへ)藩2万石を創設させた。これにより盛岡藩は8万石となったが、83年(天和(てんな)3)に新田が加増され10万石に戻った。1809年(文化6)には蝦夷地警固により20万石に高直しを受けた。幕末の戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟に加わったため、明治政府は仙台藩から没収した白石城に13万石で減転封(げんてんぽう)(国替(くにがえ))した。まもなく旧領に復したが、いちはやく廃藩置県を明治政府に願い出て、70年(明治3)に盛岡県と改め、その後岩手県と改称された。◇南部藩ともいう。

出典|講談社藩名・旧国名がわかる事典について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

もりおかはん【盛岡藩】

陸奥国盛岡(岩手県)に藩庁をおいた外様中藩。藩主は南部氏で南部藩とよばれることも多い。本宗南部晴政の養子となった陸奥三戸(さんのへ)の領主南部信直は宗家を継ぎ,豊臣秀吉の小田原征伐に参加したことにより,1590年(天正18)7月,岩手,閉伊(へい),九戸(くのへ),二戸,三戸,北,鹿角7郡の所領を安堵された。これが盛岡藩の成立である。翌年の葛西・大崎一揆九戸政実の乱の鎮圧に功績があったため,和賀,稗貫(ひえぬき),志和3郡がさらに加増され,石高10万石の領主となった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

盛岡藩
もりおかはん

江戸時代、陸奥(むつ)国北・三戸(さんのへ)(青森県)、二戸(にのへ)・九戸(くのへ)・閉伊(へい)・岩手・紫波(しわ)・稗貫(ひえぬき)・和賀(わが)(岩手県)、鹿角(かづの)(秋田県)を領有した外様(とざま)藩。南部(なんぶ)藩ともいう。1590年(天正18)、南部信直(のぶなお)が豊臣(とよとみ)秀吉から南部内7郡を安堵(あんど)されて立藩した。1598年(慶長3)に築城が開始された盛岡城は、1633年(寛永10)にすべてが完成すると、以後、維新まで南部氏の居城に定着した。藩祖信直のあと、利直(としなお)、重直(しげなお)、重信(しげのぶ)、行信(ゆきのぶ)、信恩(のぶおき)、利幹(としもと)、利視(としみ)、利雄(としかつ)、利正(としまさ)、利敬(としたか)、利用(としもち)(早逝につき従弟が身替りにたったため2人いる)、利済(としただ)、利義(としよし)(信侯(のぶとも))、利剛(としひさ)、利恭(としゆき)と16代(17人)にわたって在封した。この間、1634年に徳川家光(いえみつ)によって陸奥国北・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・紫波・稗貫・和賀の10郡10万石の所領が公認された。1664年(寛文4)相続問題で内紛が生じ、八戸藩2万石を割いて8万石となったが、1683年(天和3)新田が加増されて10万石に復した。中期以降の盛岡藩は財政窮乏に悩まされ、またしばしば凶作・飢饉(ききん)に襲われた。百姓一揆(いっき)も他藩に比べて多く、とくに1847年(弘化4)と1853年(嘉永6)の三閉伊一揆は規模も大きくて有名である。1808年(文化5)蝦夷地(えぞち)警衛により領域はそのままで20万石に格上げされた。戊辰(ぼしん)戦争のとき奥羽越列藩同盟に加わったかどで白石(しろいし)(宮城県)13万石に減転封されたが、まもなく旧領に復し、1870年(明治3)廃藩置県により盛岡県を経て岩手県となった。[細井 計]
『森嘉兵衛著『岩手県の歴史』(1972・山川出版社) ▽森嘉兵衛著『盛岡市史 近世1・2・3』(1956、1968、1969・盛岡市)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の盛岡藩の言及

【岩手[県]】より

…人口密度も北海道に次いで希薄である。
[沿革]
 近世には陸奥国のうち,南部氏盛岡藩と伊達氏の仙台藩,一関藩に属した。1868年(明治1)戊辰戦争の結果,盛岡藩20万石は白石13万石に移され,仙台藩,一関藩も減封され,また陸奥国は5国に分割された。…

【津留】より

… 津留の具体的目的は時期・場所によって多少の違いがみられ,近世初期の津留は藩の必要物資が移出入によって不足することを防止し,藩経済の一体化を図るものであった。1644年(正保1)盛岡藩が出した留物令(津留令)の対象物は,蠟,漆,綿布,麻糸,鍬,馬,牛,紅花,紫,塩,熊皮,手形なしの男女などとなっている。藩産出の農産物・手工業品などを藩内に確保する必要があり,その一部に藩が専売制を実施していたからである。…

【南部氏】より

…中世の陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡(岩手県北部から青森県東部一帯の地域)の豪族,近世の盛岡藩主。新羅三郎源義光の子孫で,甲斐源氏の加賀美遠光の子,南部三郎光行にはじまる。…

【東廻海運(東回海運)】より

…東北地方の太平洋沿岸から江戸方面への海上輸送は江戸開府以後に始まる。慶長(1596‐1615)末年,盛岡藩の蔵米が三陸沿岸から江戸に廻漕されたのが初見で,おそらく大坂の陣に備えての南部氏の兵糧米の輸送であった。元和期(1615‐24)に入ると盛岡藩の蔵米などが三陸諸港から江戸に恒常的に輸送されるようになった。…

【牧】より

… 諸藩でも戦備の重要な用具として馬の繁殖育成に力を尽くした。例えば東北の盛岡藩は昔から名馬の産地であったから,当時すでに藩有の9牧場が開かれていたが,いわゆる御野となったのは慶長・元和(1596‐1624)のころである。のち三保野,四鎖野,広野,立崎野を併せて盛岡藩の13牧と称していた。…

【陸奥国】より

… 南陸奥のたび重なる幕藩領の変遷に対し,北・中陸奥の藩領の変化は少なかった。1664年,盛岡藩は八戸藩2万石を分与し8万石になった。1660年(万治3)仙台藩内に一関,岩沼それぞれ3万石の支藩が設けられ,一関藩は幕末まで続いた。…

※「盛岡藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

盛岡藩の関連キーワード東廻海運(東回海運)花輪(秋田県の地名)岩手県北上市黒沢尻前川善兵衛(2代)栗谷川仁右衛門昆九郎左衛門内館元右衛門野辺地[町]田代平之丞南部 利恭三閉伊一揆長瀬越後本内意慎南部重信佐藤昌蔵黒田騒動狩野永寿九戸政実相馬大作檜山騒動

今日のキーワード

大義

1 人として守るべき道義。国家・君主への忠義、親への孝行など。「大義に殉じる」2 重要な意義。大切な事柄。「自由平等の大義を説く」...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

盛岡藩の関連情報