盛岡藩
もりおかはん
江戸時代、陸奥(むつ)国北・三戸(さんのへ)(青森県)、二戸(にのへ)・九戸(くのへ)・閉伊(へい)・岩手・紫波(しわ)・稗貫(ひえぬき)・和賀(わが)(岩手県)、鹿角(かづの)(秋田県)を領有した外様(とざま)藩。南部(なんぶ)藩ともいう。1590年(天正18)、南部信直(のぶなお)が豊臣(とよとみ)秀吉から南部内7郡を安堵(あんど)されて立藩した。1598年(慶長3)に築城が開始された盛岡城は、1633年(寛永10)にすべてが完成すると、以後、維新まで南部氏の居城に定着した。藩祖信直のあと、利直(としなお)、重直(しげなお)、重信(しげのぶ)、行信(ゆきのぶ)、信恩(のぶおき)、利幹(としもと)、利視(としみ)、利雄(としかつ)、利正(としまさ)、利敬(としたか)、利用(としもち)(早逝につき従弟が身替りにたったため2人いる)、利済(としただ)、利義(としよし)(信侯(のぶとも))、利剛(としひさ)、利恭(としゆき)と16代(17人)にわたって在封した。この間、1634年に徳川家光(いえみつ)によって陸奥国北・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・紫波・稗貫・和賀の10郡10万石の所領が公認された。1664年(寛文4)相続問題で内紛が生じ、八戸藩2万石を割いて8万石となったが、1683年(天和3)新田が加増されて10万石に復した。中期以降の盛岡藩は財政窮乏に悩まされ、またしばしば凶作・飢饉(ききん)に襲われた。百姓一揆(いっき)も他藩に比べて多く、とくに1847年(弘化4)と1853年(嘉永6)の三閉伊一揆は規模も大きくて有名である。1808年(文化5)蝦夷地(えぞち)警衛により領域はそのままで20万石に格上げされた。戊辰(ぼしん)戦争のとき奥羽越列藩同盟に加わったかどで白石(しろいし)(宮城県)13万石に減転封されたが、まもなく旧領に復し、1870年(明治3)廃藩置県により盛岡県を経て岩手県となった。
[細井 計]
『森嘉兵衛著『岩手県の歴史』(1972・山川出版社)』▽『森嘉兵衛著『盛岡市史 近世1・2・3』(1956、1968、1969・盛岡市)』
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盛岡藩 (もりおかはん)
陸奥国盛岡(岩手県)に藩庁をおいた外様中藩。藩主は南部氏で南部藩と呼ばれることも多い。本宗南部晴政の養子となった陸奥三戸(さんのへ)の領主南部信直は宗家を継ぎ,豊臣秀吉の小田原征伐に参加したことにより,1590年(天正18)7月,岩手,閉伊(へい),九戸(くのへ),二戸,三戸,北,鹿角7郡の所領を安堵された。これが盛岡藩の成立である。翌年の葛西・大崎一揆と九戸政実の乱の鎮圧に功績があったため,和賀,稗貫(ひえぬき),志和3郡がさらに加増され,石高10万石の領主となった。慶長の役には名護屋に赴いたが,しだいに徳川氏と通ずるようになり,和賀・稗貫一揆を討って徳川氏の天下統一後も所領はそのまま安堵された。99年(慶長4)三戸より築城していた岩手郡不来方(こずかた)に移り,ここを盛岡と改めて,領内政治の中心地とした。1664年(寛文4)に,藩主重直が嗣子を定めないまま没したため,相続をめぐり重直の2人の弟重信と直房擁立の2派に家臣が分裂した。
幕府はこれに介入し,翌年に藩領を二分して8万石を重信に与え,2万石を直房に分割して八戸藩を創設させた。藩は66年から81年(天和1)にかけて領内総検地を行い,領内を33ヵ所の通(とおり)に分け,そこに代官を派遣して統治する体制を確立した。また積極的な新田開発の奨励もあって,83年には10万石に復している。1809年(文化6)には蝦夷地警固の功により,領地はそのままで20万石の大名に格上げされた。凶作による飢饉が多く,1679年(延宝7)に30万余を数えた人口も,藩政時代を通じて40万に達することはなかった。百姓一揆も多発し,とりわけ弘化・嘉永期(1844-54)の三閉伊一揆とその指導者三浦命助は著名である。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に荷担して敗れた。その結果,維新政府により所領20万石を没収され,新たに13万石を旧仙台藩領白石周辺に与えられ,転封を余儀なくされた。だがまもなく盛岡復帰を認められ,いちはやく廃藩置県を政府に願い出て,盛岡県と改め藩は消滅した。
執筆者:守屋 嘉美
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もりおかはん【盛岡藩】
江戸時代、陸奥(むつ)国岩手郡盛岡(現、岩手県盛岡市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明義堂(めいぎどう)、のち作人館(さくじんかん)に改称。甲斐源氏の流れをくむ南部(なんぶ)氏は奥州(おうしゅう)藤原氏征討で功をあげ、三戸(さんのへ)に居城を構えた。その後、26代当主の南部信直(のぶなお)が豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐に参加、1590年(天正(てんしょう)18)に南部7郡を安堵(あんど)され立藩した。翌年さらに3郡を加増され、現在の岩手県中北部から青森県東部を治める10万石の領主となった。99年(慶長(けいちょう)4)には、前年から築城を始めていた岩手郡不来方(こずかた)に移って盛岡と改め、以後明治維新までここが南部氏の居城となり、16代まで続いた。1600年には徳川家康(とくがわいえやす)からも安堵された。64年(寛文(かんぶん)4)に相続をめぐって内紛が起き、介入した幕府は八戸(はちのへ)藩2万石を創設させた。これにより盛岡藩は8万石となったが、83年(天和(てんな)3)に新田が加増され10万石に戻った。1809年(文化6)には蝦夷地警固により20万石に高直しを受けた。幕末の戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟に加わったため、明治政府は仙台藩から没収した白石城に13万石で減転封(げんてんぽう)(国替(くにがえ))した。まもなく旧領に復したが、いちはやく廃藩置県を明治政府に願い出て、70年(明治3)に盛岡県と改め、その後岩手県と改称された。◇南部藩ともいう。
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盛岡藩
もりおかはん
南部藩ともいう。江戸時代,陸奥国岩手郡盛岡地方 (岩手県) を領有していた藩。藩主の南部氏は鎌倉時代以来の豪族で,天正年間 (1573~92) の信直を藩祖とする。第2代利直は関ヶ原の戦いで東軍に属して 10万石の所領を安堵され,第4代重信は寛文4 (1664) 年甥の直房に2万石を分与して支藩八戸 (はちのへ) 藩を興し,8万石となった。さらに天和3 (83) 年には領地拡大のため 10万石の分限となり,文化5 (1808) 年には第 11代利敬が松前警備のため高直しにより 20万石となった。文政2 (19) 年には支藩七戸 (しちのへ) 藩1万 1000石を創設。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍に加わったため 13万石に減封,廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。
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盛岡藩
陸奥国、盛岡(現:岩手県盛岡市)を本拠地とし、岩手県中北部から青森県東部を領有した外様の中藩。藩主は南部氏。良馬の産出、南部鉄器の生産などで知られた。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加。南部藩ともいう。
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世界大百科事典(旧版)内の盛岡藩の言及
【岩手[県]】より
…人口密度も北海道に次いで希薄である。
[沿革]
近世には陸奥国のうち,[南部氏]の[盛岡藩]と伊達氏の仙台藩,一関藩に属した。1868年(明治1)戊辰戦争の結果,盛岡藩20万石は白石13万石に移され,仙台藩,一関藩も減封され,また陸奥国は5国に分割された。…
【津留】より
… 津留の具体的目的は時期・場所によって多少の違いがみられ,近世初期の津留は藩の必要物資が移出入によって不足することを防止し,藩経済の一体化を図るものであった。1644年(正保1)盛岡藩が出した留物令(津留令)の対象物は,蠟,漆,綿布,麻糸,鍬,馬,牛,紅花,紫,塩,熊皮,手形なしの男女などとなっている。藩産出の農産物・手工業品などを藩内に確保する必要があり,その一部に藩が専売制を実施していたからである。…
【南部氏】より
…中世の陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡(岩手県北部から青森県東部一帯の地域)の豪族,近世の[盛岡藩]主。新羅三郎源義光の子孫で,甲斐源氏の加賀美遠光の子,南部三郎光行にはじまる。…
【東廻海運(東回海運)】より
…東北地方の太平洋沿岸から江戸方面への海上輸送は江戸開府以後に始まる。慶長(1596‐1615)末年,盛岡藩の蔵米が三陸沿岸から江戸に廻漕されたのが初見で,おそらく大坂の陣に備えての南部氏の兵糧米の輸送であった。元和期(1615‐24)に入ると盛岡藩の蔵米などが三陸諸港から江戸に恒常的に輸送されるようになった。…
【牧】より
… 諸藩でも戦備の重要な用具として馬の繁殖育成に力を尽くした。例えば東北の盛岡藩は昔から名馬の産地であったから,当時すでに藩有の9牧場が開かれていたが,いわゆる御野となったのは慶長・元和(1596‐1624)のころである。のち三保野,四鎖野,広野,立崎野を併せて盛岡藩の13牧と称していた。…
【陸奥国】より
… 南陸奥のたび重なる幕藩領の変遷に対し,北・中陸奥の藩領の変化は少なかった。1664年,[盛岡藩]は八戸藩2万石を分与し8万石になった。1660年(万治3)仙台藩内に一関,岩沼それぞれ3万石の支藩が設けられ,一関藩は幕末まで続いた。…
※「盛岡藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」