朝日日本歴史人物事典 「千秋藤篤」の解説
千秋藤篤
生年:文化12.8.30(1815.10.2)
幕末の尊王論者,儒学者。加賀国金沢城下(石川県金沢市)に加賀藩士千秋範為の次男として出生。名ははじめ藤範のち藤篤,字は慥爾,通称順之助。号は順堂,有磯,黄薇庵。藩校明倫堂で学び江戸に出て昌平坂学問所に入る。帰郷してのち,藩主,世子の信頼篤く,侍講となり明倫堂助教を兼ねた。尊王論を唱えたが,禁門の変の際,反対派の要求で切腹。『有磯遺文』所収の「治穢多議」で部落差別の人種起源説,職業起源説や肉体的偏見を痛烈に打破,被差別部落民を身分解放し田畑を交付して生活安定を図れと主張した。<参考文献>滝光彦「千秋藤篤における部落解放思想の特質」(『日本思想史への試論』)
(三宅正彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報