日本歴史地名大系 「塩山市」の解説 塩山市えんざんし 面積:一八四・七四平方キロ県北部に位置する。北は秩父(ちちぶ)山地の唐松尾(からまつお)山(二一〇九・二メートル)・笠取(かさとり)山などを境に埼玉県秩父郡大滝(おおたき)村、東は多摩川源流部の一之瀬(いちのせ)川や秩父山地大菩薩(だいぼさつ)嶺などを境に北都留(きたつる)郡丹波山(たばやま)村・小菅(こすげ)村と大月市に、南は東山梨郡大和(やまと)村・勝沼(かつぬま)町、西は同郡牧丘(まきおか)町・三富(みとみ)村と山梨市に接する。市域の大部分を山地が占め、西方を笛吹川、ほぼ中央部を重(おも)川が南西へ流れる。集落のほとんどはこの両川と市域南西部の両川扇状地上にある。扇状地に単独丘陵の塩(しお)ノ山がある。南西部をJR中央本線が南東から北へ向かい、さらに西から南西へと弧を描いて通り、塩山駅が設けられている。北東から南西に国道四一一号(青梅街道)が通る。〔原始〕市域には明確な旧石器時代の遺跡はないが、一之瀬高橋の落合(いちのせたかはしのおちあい)の刑部平(ぎようぶだいら)遺跡・馬場平(ばばだいら)遺跡などでの遺物採集が報じられている。縄文時代では前期の遺物が千野(ちの)の獅子之前(ししのまえ)遺跡で住居跡七軒とともに報告され、ここでは類例のない有脚土偶など六点が出土している。中期初頭の住居跡は下粟生野(しもあおの)の安道寺(あんどうじ)遺跡、下於曾(しもおぞ)の町田(まちだ)遺跡、中期前葉の住居跡は中萩原(なかはぎわら)の重郎原(じゆうろうばら)遺跡と町田遺跡にあり、土壙に土器が埋設される特殊遺構は上粟生野の柳田(やなぎだ)遺跡、中萩原の北原(きたばら)遺跡、西広門田(かわだ)の西田(にしだ)遺跡にみられる。中期中葉の井戸尻式期の住居跡は安道寺遺跡にある。中期後半の曾利式期の住居跡は安道寺遺跡や牛奥(うしおく)の牛奥遺跡にあり、安道寺遺跡では土壙から大型土器と小型土器が出土し、上萩原の殿林(とのばやし)遺跡から出土した大型深鉢(現在県立考古博物館保管)は高さ約七三センチ。口辺部には半肉隆帯で重弧文を、体部には半肉隆帯で竪琴状の文様を施し、地文は条線で埋めてある。技巧的にも優れた大型品で国指定重要文化財。後期の良好な遺跡はないが、晩期初頭の清水天王山式土器を出土した三日市場(みつかいちば)の欠通(がけどうり)遺跡や牛奥遺跡がある。弥生時代の遺跡としては、獅子之前遺跡から中期初頭の条痕文土器が、また安道寺遺跡でも中期と思われる土器が出土。西田遺跡では後期の住居跡が検出された。土塁をもつ塚は下萩原浅間(しもはぎわらせんげん)塚のように十数基知られているが、明確に古墳と確定できるものはない。かつて中萩原の土塚から甲胄が出土したとの報告があるが、これが正しいとすれば、市域唯一の古墳となる。西田遺跡では方形周溝墓が幾つか検出されているので、この地域は古墳の築造の少ない方形周溝墓の伝統を残した地域であったかもしれない。〔古代・中世〕律令時代における当市域は山梨郡に属し、「和名抄」にいう山梨東郡に属した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by