日本歴史地名大系 「多治部村」の解説 多治部村たじべむら 岡山県:阿哲郡大佐町多治部村[現在地名]大佐町田治部(たじべ)現大佐町の南部に位置し、東城(とうじよう)往来が通る。集落は大畑(おおはた)川流域の漆原(うるしばら)・京明(きようみよう)・馬場小原(ばばこばら)・仲屋(なかや)・早瀬(はやせ)・国司(くにし)・田平(たひら)・目木(めき)・光吉(みつよし)・戸谷(とだに)・新田(しんでん)、山中の尾原(おばら)・平吹(ひらぶき)・東山(ひがしやま)、小坂部(おさかべ)川流域の勘定(かんじよう)・大下(おおしも)・畑(はた)などに散在。古代英賀(あが)郡丹部(たじべ)郷(和名抄)の遺称地で、中世にも公領多治部郷として推移、多治部氏が在地領主として活躍した(新見市の→塩城山城跡)。なお近世には田治部とも記し、後期には村は、東(東組)・西(西組)に分れていた。寛永備中国絵図には大田治部村とみえ、高六二七石余、松山藩領。正保郷帳では八〇八石余、同藩領。枝村として布瀬(ふせ)村・笈原(おいばら)村・松坂(まつざか)村・湯井(ゆい)村・河内(こうち)村・漆原村・山上(やまがみ)村をあげる(布瀬村および松坂村・河内村はのちの布瀬村内の村であろう)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by